第三百九十九話 最強の矛
『どうして、ドラゴンを倒す必要がある?』
声は再び、赤い光の彼方から聞こえた。光の中のさらに先から響いてくるかのようであり、声の主はここにはいないということを示しているかのようだった。
『倒す必要はない、とあの人間がいっていただろう?』
「エインはそういったけど、そうじゃないんだ」
セツナは、頭を振った。確かに、作戦立案者のエイン=ラジャールは、ドラゴンを倒す必要はないといっていた。
彼の作戦において大事なのは、ガンディア軍本隊がドラゴンの勢力圏を無事に突破することであり、セツナがドラゴンを倒せなかったとしても、なんら問題はないのだ。とはいえ、ドラゴンを放置することはできないというのは、何度も述べた通りだ。
本隊が無事通過できたからと、ドラゴンを放置すれば、どうなるものかわかったものではない。ドラゴンの注意をヴリディアに留めておく必要がある。そのためにも、セツナとクオンはこの場に留まらなくてはならなかったのだ。
その結果、ドラゴンを倒す必要性が生まれた。
クオンが、精神を消耗し尽くし、シールドオブメサイアによる守護を維持できなくなったのだ。そうなれば、セツナがドラゴンを倒すよりほかはない。だが、セツナが言葉にしたのは、別の理由だった。
「倒さなくちゃ、俺が前に進めない」
それもまた、本心ではあったのだが。
『わがままで、友を死に至らしめるか』
声が、嘲笑う。声の主は、現状をよく理解しているようだった。少なくとも、セツナと同程度に理解している。声の主が黒き矛ならば、それも納得できることだ。黒き矛はセツナの記憶を覗き見ているに違いなかった。夢に現れる黒き竜が、セツナのことをなんでも知っているように、声の主も、セツナのことを知り尽くしていてもおかしくはない。
「クオンは殺させない。その前にドラゴンを倒せばいい」
セツナが声を励まして言い返すと、声は、せせら笑った。
『どうやって? あの盾すら破れないおまえが、どうやってドラゴンを倒すというんだ?』
声の主は嘲笑してくるのだが、セツナの心はとっくに定まっていて、揺れ動くことはなかった。いまでも、声には畏怖を覚えるし、嫌な汗が止まらなかったりもしている。自分が酷くちっぽけな存在に思えてくるほどに、声の迫力は圧倒的だった。天を衝くほどに巨大なドラゴンと対峙しているときよりもだ。
もっとも、声が真に黒き矛のものならば、セツナには納得もできるというものだった。セツナは、黒き矛の力は、ドラゴンよりも凶悪で、際限がないものだと思っているし、信じてもいる。ミリュウとの戦い、黒き矛の二刀流という体験は、カオスブリンガーに秘められた可能性をセツナに魅せつけるだけでなく、セツナがいかに黒き矛の力を引き出せていないかがわかったものだ。
だからこそ、彼の力が必要なのだ。
「カオスブリンガー。おまえの力を借りる」
『借りる……か』
「そうさ。いつだって俺は、おまえの力を借りているに過ぎないんだ。どれだけの戦果を上げたって、全部、おまえのおかげだってことくらい、わかってるよ」
『殊勝な心がけだな』
声の主は、皮肉のつもりでいったのかもしれないが。
これまでの数多の勝利は、すべて、黒き矛という凶悪極まる召喚武装のおかげだ。カオスブリンガー有ってこそのセツナであり、黒き矛を持たないセツナになど、だれも興味を持ちはしないだろう。そんなことくらい、わかりきっている。
どんなときだって、黒き矛が力を貸してくれた。どんな困難だって、黒き矛があったから乗り越えられた。どんな敵だって打倒できた。絶望的な状況を覆し得た。あのとき、召喚した武器が黒き矛ではなかったとすれば、セツナの運命は大きく変わっていたのだ。
黒き矛のセツナなどと呼ばれているが、黒き矛頼りのセツナといわれたとしても、文句も言えないだろう。それだけ、黒き矛に頼りっぱなしだったし、これからも、頼ることになるだろう。もちろん、ただ頼るだけでは駄目だということもわかっている。
そのためにも力をつけようとしている。地道な訓練だ。すぐに力がつくわけでも、黒き矛の力を引き出せるようになるわけでもない。しかし、続けなければ意味がない。そして、訓練を続けるためにも、現状を何とかしなければならない。
「だから今回も、おまえの力を借りる。ただ借りるだけじゃない。ありったけの力を借りる。シールドオブメサイアの防壁を破るだけの力を。防壁を突破し、ドラゴンを討ち倒すだけの力を借りる」
『それが、どれほどのものなのか、理解しているのか?』
声の主は、いまにも笑い出しそうな声でいってきたが、セツナは大まじめに頷いた。
「必要なら、命だって差し出すよ」
『命か……』
「ここで勝てなきゃ死ぬだけなんだ。命くらい、惜しくはないさ」
寿命は一度、削り取られている。それが二度に増えたところで、大差はないのだ。人生が短くなろうが、いま死ぬよりは遥かにましだ。いま、なにも為さぬまま死ぬよりは、余程。
『良かろう。力を貸してやる。ただし、おまえがどうなっても知らんぞ』
まるで突き放すような、それでいてまったく見放していない声音に、セツナは笑みを返した。
「望むところさ」
紅い光が膨張し、音もなく爆散したかと思うと、セツナは現実への帰還を認識した。周囲は相変わらず暗いものの、竜の心臓の拍動が聞こえる上、心臓の明滅が体内を照らしている。黒き矛はというと、発光現象はなくなり、いつもの漆黒の矛へと戻っている。いつもと同じ、狂暴で凶悪な矛だ。
セツナは、黒き矛を握りながら、感知領域の急激な拡大を認識していた。爆発的な勢いで広がる感覚がドラゴンの体内の構造を余すところなくセツナに教えてくる。臓器の位置が手に取るようにわかるだけでなく、血液の流れる音、拍動が爆音のように聞こえた。骨が擦れる音で、ドラゴンの巨体が動いていることがわかる。敵を探している。いや、索敵を諦め、別の敵に攻撃目標を移したのだ。セツナが見つからない以上、ドラゴンの標的となるのはひとつしかない。クオンだ。時間はない。
心音とともに明滅する光が異様に眩しく感じるのもまた、視覚の異常なまでの強化によるところが大きいのだろう。五体の隅々にまで行き渡る力は、いままでの比ではない。それこそ、黒き矛の二刀流の時よりも、膨大な力がセツナの心身を包み込んでいる。絶大な力の奔流を感じる。体の内側でうねり、荒ぶり、猛っている。全身がばらばらになりそうだった。わずかでも気を緩めれば、瞬時に肉体が弾け、血も肉も精神も蒸発してしまうのではないか。だが、無敵の盾を貫くには、それだけの力が必要なのは疑いようもない。
(これなら……!)
足場を蹴って飛び上がった直後には、眼前に目標を捉えていた。柄を握る両手に力が入る。心臓は目の前。矛を突き出す。切っ先が防壁に触れた。いままでほとんど見えなかった障壁が、まばゆい光を伴って出現する。カオスブリンガーの破壊力に対抗するために、防御力を最大限に高めているかのようだった。貫けない。
「まだだっ!」
セツナは叫び、さらに力を込めて矛を押し込んでいく。黒き矛が内包する力のうち、セツナが扱えるすべてを叩き込む。莫大な力の放出。精神の浪費。命すら削り取られるような感覚が、セツナの全身を包み込む。
「おおおっ!」
雄叫びを上げながら、セツナは、自分の体から力が抜けていくのを実感した。同時に、黒き矛の切っ先、障壁との接点に力が収束していくのが目に見えてわかる。矛の力が一点に集中し、破壊力が増大する。光の防壁に亀裂が走った。貫く。漆黒の矛が、光の膜を突き破り、巨大な竜の心臓へと到達する。切っ先から穂先、柄までも心臓へと吸い込まれていく。矛が心臓を貫通するとき。手応えらしい手応えはなかった。
当然だった。黒き矛は、通常時でさえ、鉄の鎧も人体も紙切れのように斬り裂くのだ。いままでにない力を発現したいま、ドラゴンの心臓程度では、抵抗さえできないはずだ。無敵の盾を破壊したのだ。シールドオブメサイアの防壁の許容量を上回る力が、黒き矛から放たれている。なにものも、破壊されるしかないのだ。
そして、貫いた瞬間、爆音のような拍動が途絶えた。ドラゴンの全身を巡っていた血の流れが止まり、断末魔の絶叫さえ発することもできないまま、竜が死ぬ。防壁が消滅する。心臓が肉片となって飛び散り、大量の血液がセツナに振りかかる。避ける暇はないが、避ける必要もない。どす黒い血の狭間に、景色を見出だしている。破壊し尽くされた森の中。気を失い、倒れた少年の姿が見えた。世界が歪む。意識が消し飛ぶかのような錯覚。血を媒介とする空間転移の前兆――。
『グレイよ……済まぬ……』
『陛下、なにをおっしゃられるのですか』
大いなる悔恨とそれを否定する慟哭。聞き知らぬ声と、聞き覚えのある声。ひとつはいつか会った猛将の声だ。グレイ=バルゼルグ。ザルワーンに反旗を翻した男は、数日前、ファブルネイアのドラゴンの元へ向かい、消息を絶ったという話だった。ドラゴンを相手に全滅したのだろうということは疑いようがなかった。
死者の声。幻聴なのか、現実に聴覚が捉えているのか、判然としない。汚濁のような血の渦の中で、血の臭いと鉄の味を噛み締めながら、セツナにはどうすることもできない。力が、思い通りにならない。
耳朶を駆け抜ける声は、そのふたつだけではなかった。数多の想いが、叫びとなってセツナの意識を掻き乱していく。
『後悔はないさ。あなたを護ることができた』
『なんで、なんでこんなことに……!』
『いったいどうして……!』
『あんたのせいで、俺たちは……っ』
満ち足りた男の声に、無数の叫び声が続く。まるで死の絶叫だ。憎悪と怨嗟に満ちた呪詛の群れ。死を受け入れられず、生者を呪う怨念の塊。だれの声なのか、セツナには見当もつかない。少なくとも、セツナの記憶には存在しない声だった。
なにが起きているのかはわからない。だが、なにが原因でこうなっているのかは、漠然と理解していた。
カオスブリンガーから借り出した莫大な力が、セツナの制御を離れて暴走しているのだ。矛をどれだけ強く握ろうとも、溢れ出る力を押しとどめることができない。流れこんでくる力のすべてを受け止め続けることはできない。どんな器にも許容量があり、限界がある。許容量を遥かに凌駕する爆発的な力の奔流が、セツナという器から溢れだしていた。
止めどない力の渦の中で、セツナは呆然とした。
(大盤振る舞いにもほどがあるだろ)
セツナは、ドラゴンの死を確認することもできないまま、黒き矛の力に飲まれた。