第三百九十八話 カオスブリンガー
セツナがこの世界に来て、アズマリアにいわれるまま唱えた呪文によって召喚された異世界の存在であり、セツナにとってはなくてはならない存在となった。黒き矛がなければ、セツナはとっくに野垂れ死んでいた。まず、ブリークの群れとの戦いで死んだだろう。もし、ブリークたちをやり過ごせたとしても、ランカインに殺されている。義憤に燃えて、死んだだろう。
いま、こうして生きていられるのは、彼のおかげだった。彼がいたからランカインを倒せたし、ファリアとの出逢いに恵まれ、レオンガンドという主に巡り会えた。数多の戦いをくぐり抜けてこられたのも、すべて、黒き矛カオスブリンガーに秘められた強大な力のおかげだった。いつだって、彼の力が頼りになった。セツナの未熟さを補って余りある力で、敵を圧倒した。どんな苦境であっても生を掴むことができたのは、この矛が絶大な力を内包しているからだ。
いつだって、黒き矛の力だけが頼りだった。
「わかってるよ。自分でなんとかしろってんだろ。そんなことは、わかってる」
わかっていても、どうしようもないことがあるということも、セツナは理解している。わかりすぎるくらいに、わかっている。
絶望的な現実がある。覆しようのない圧倒的な壁がある。壁は分厚すぎて、破れそうになかった。壁の内側に入り込んではみたものの、内側にも同じだけの分厚さの壁があって、途方に暮れた。
わかってはいたことだ。
何度だって、彼はつぶやく。
「わかっていたんだ」
柄を握る両手に、力を込める。黒き矛の柄。いままで、何度となく握り締めてきた柄の感触は、いつもと同じ冷ややかさをセツナに返してくるだけだ。嘲笑うでもなく、突き放すでもない。いつも通り、いつもと同じ冷たさで、セツナの手のひらから全身に力を伝えてくれる。
混沌をもたらすもの。
そう名づけたのは、ログナー戦争の最終盤だったか。
ランカインへの意趣返しだったのか、どうか。
セツナの人生で初めて明確な敵意を抱いたのが、ランカイン=ビューネルという男だった。燃え盛るカランでのランカインとの戦いは、忘れようもない。炎の中で、死にそうになりながら、辛くも手にした勝利は、つぎの瞬間には手のひらからこぼれ落ちていた。死を意識した。死にたくはなかったけれど、死ぬのも仕方のないことだと思ったものだ。自分の馬鹿さ加減に呆れながら。自分の人生のあまりの短さに呆れながら。
炎に焼かれて死ぬのだと、思った。
だが、死ななかった。幸運な出逢いが、セツナの命をこの世界に引き止めてくれた。その結果、数多の人を殺さなければならなくなったとしても、喜ぶべきことだろう。生きているのだ。生きていれば、幸せを感じることもできよう。
そうして、セツナはこの世界での生を謳歌した。謳歌、といえるほどのことはしていないのかもしれない。主君の命ずるまま、敵を殺してきただけのことだ。だが、それでも、充実した時間を過ごしてきたのは事実だ。
多くの出会いがあり、別れがあり、戦いがあった。
そしていまも、戦いの中に身を置いている。
「俺はいままで、自分の力でなにかを成し遂げたことなんてないんだ」
セツナは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
イルス・ヴァレに召喚されて三ヶ月近くが経過している。生まれ育った世界の記憶のほとんどは、色褪せてしまっていた。母の顔ですら、最近は思い出せないことがある。戦いの日々が、記憶の中を埋め尽くしていくのだ。古くなり、不要と判断された記憶から順番に、脳の奥底に沈んでいっていいるに違いなかった。
なにも成せなかったと思うのは、成せた記憶が沈んでしまったからではない。なにかを成し遂げたことがあったとすれば、それは輝かしい想い出として、残り続けたに違いない。それほどまでに、あの世界での記憶は希薄なものと成り果てている。
いずれ、こちら側の記憶で書き換えられてしまうのではないかという恐怖もなくはなかったが、といって、あちらの世界の想い出に耽っている暇もなかった。それに、耽溺できるほど美しい想い出もない。あるとすれば、母との日常くらいだが、それだってありふれた日々の出来事に過ぎない。輝かしい記憶などではない。そして、それらも、もはや手の届かないものになってしまった。
なにもかもが遠ざかってしまった。
ここは異世界。
(違うな)
セツナは苦笑を浮かべた。
ここは、異世界の生物の体内だ。臓器を足場に、心臓を見上げている。拍動とともに明滅する心臓が照らしだすのは、体内の広大な空間であり、見るからに不気味な臓器や器官の入り組んだ構造だ。臓器の表面には、シールドオブメサイアの防壁と同じ原理の障壁が張り巡らされている。セツナの力では、打ち破ることなど到底かなわない無敵の防壁。
だが、破らなくてはならない。防壁を突破しなければ、ドラゴンを倒すことはできない。ドラゴンを倒せないということは、セツナたちが敗れるということだ。殺されるということだ。
セツナは逃げられる。転移能力を使えば、どこへなりとも逃げおおせることができるだろう。しかし、クオンはどうなる。クオンは精神を消耗し尽くし、意識を失って倒れた。荒れ果てた戦場で、無防備な姿を晒しているのだ。ドラゴンがセツナの捜索を打ち切り、クオンに敵意を向けたとき、彼の人生は終わってしまうだろう。
セツナは、矛を構えると、切っ先を睨んだ。闇の中に浮かび上がる漆黒の矛からは、莫大な力の流れを感じ取ることができる。カオスブリンガーに秘められた力は、膨大だ。セツナよりも余程鍛え上げられた武装召喚師であるミリュウですら、黒き矛の制御は不可能だった。そして、黒き矛と模造品を手にしたセツナは、カオスブリンガーの真の力を体験した。
それほどの力を秘めていながら、その力を出し切れていないのは、セツナが未熟だからなのか。
「力がいるんだ。絶大な力が」
言葉にしたところで、返事があるわけではない。それでも、セツナはひとりごとを続けるしかない。
「ドラゴンの盾を貫き、心臓を突き破るだけの力が必要なんだ」
黒き矛の表面に光が走ったように見えた。いや、目の錯覚などではない。赤い光線が無数に走り、漆黒の矛が紅く彩られていく。赤い光。まるで血のように紅く、昏い光が、漆黒の矛の表面に無数の線を刻んでいく。強い意思を感じる。それはきっと黒き矛の意志に違いなく、だとすれば、セツナの呼びかけに応じてくれているということなのだろうか。
召喚武装は、意思を持つ。生き物といっても過言ではないらしく、それはこれまでも何度となく実感してきたことでもある。そして、ドラゴンの半身を成す黒き竜は、セツナの夢に現れた黒き矛の化身の姿だ。黒き矛の本来の姿が、黒き竜なのかもしれない。本来あるべき世界においては、黒き竜として君臨しているのかもしれない。
不意に、意識が遠のくような感覚があった。目の前が真っ暗になったかと思うと、ドラゴンの心音が聞こえなくなり、光の明滅も見えなくなった。視界を満たすのは暗黒の闇であり、闇の中に浮かぶ赤い光だけが、セツナを見ている。
見ているのだ。
明らかな視線を感じて、セツナは戸惑った。ここがどこで、なにがどうなってこんなところにいるのか、まったくわからない。やらなければならないことがある。すぐにでもドラゴンの心臓を破壊し、ドラゴンを撃破しなければならないのだ。でなければ、クオンに害が及ぶ。クオンを守れなくなる。焦燥感に苛まれる中で、セツナは、声を聞いた。
『どうして?』
「え……?」
声は、赤い光の中から聞こえた。重く、深く、どこまでも沈み込むような声音は、一度耳にするだけで心が震えた。全身の穴という穴が開いているのが感覚的にわかった。畏れを抱いている。威圧的な声音ではなかった。むしろ、穏やかで、優しげな言い方といっても差し支えのないくらいのものだったのだが、セツナは、警戒した。
光は、紅く、昏い。
黒き矛の表面に血管のように走っていた光と同じ輝きだった。つまりそれは、黒き矛の光であり、これはカオスブリンガーが見せる幻想なのではないかと彼は思い当たった。