第三百九十七話 黒き矛
黒い影が、前方を覆っている。
ドラゴンの巨躯が、傘のようにセツナたちの頭上を塞いでいる。陽の光も届かぬ戦場には、冷風が吹いている。
立ち上がると、ドラゴンが仁王立ちの態勢に戻っていたことを知る。数百メートルの巨体からは考えられないほど機敏な動作は、これまでの戦いの中で理解していたことだ。シールドオブメサイアの守護を失えば、セツナたちに逃げる暇など与えられはしないだろう。
(俺は、だれかに護られていたいわけじゃないんだ。ずっと、そうだったから)
セツナは、クオンに目を向けた。この戦いが始まってから、彼を見るのは何度目だろう。きっと、数えるほどしか見ていないはずだ。ドラゴンと戦っている間は、クオンのことを気にする暇もなかったのだ。いまは違う。クオンの状態こそ気にしなければならない。
クオンは、シールドオブメサイアを抱え、虚空を見つめている。意識が朦朧としているのかもしれない。彼は、一日半に渡って、シールドオブメサイアを召喚し、守護を維持し続けてきたのだ。精も根も尽き果てるのは、当然なのだ。むしろ、よくぞ今まで持ち堪えたものだと褒め称えるべきだった。セツナならとっくに力尽きているに違いない。
(よくやったよ、おまえはさ)
セツナは、クオンの覚悟に応えるべきだと思った。ドラゴンの防壁を打ち破る方法は思いついている。もっとも、それで打ち破れるのかどうかはわからないし、試す、ということはできない。ぶっつけ本番。一か八かにすべてを賭けるしかない。失敗すれば、負けるだけだ。死ぬだけのことだ。ただそれだけのことが、どうしようもなく、許せない。
(死ねないよな。おまえも、俺も……!)
セツナは、視線を前方に戻すと、再び地を蹴った。前へ飛び、ドラゴンの打撃を誘導する。降ってきた拳を後ろに飛び退いてかわし、巨拳が地面を抉るのを見届けもせずに再度跳躍。ドラゴンの白腕に飛び乗ると、即座に振り落とされた。視界が流転し、ドラゴンの巨体が眼前を埋め尽くす。そのまま、落ちていく。
セツナは、落下の最中、シールドオブメサイアの守護が消失するのを認めた。同時に、竜が右拳を振り下ろしてくるのが見えている。守護が消えた瞬間を、ドラゴンもまた待っていたのだ。そしてそれは、セツナも同じだ。
「人間の足は二本あるんだぜ」
意味もなく告げて、セツナは黒き矛で己の右太ももを裂いた。痛みと熱と血潮が意識に巡る。勢い良く噴き出した血液の中に浮かぶ、いくつかの景色。真っ暗な闇の中に蠢くなにか。跳ぶ。視界が歪んだ。歪んだのは視界だけではない。意識も、記憶も、セツナという存在そのものが歪んだような感覚があった。迫っていた轟音は途絶え、かわりに別の音が聞こえた。
巨大な鼓動。
視界が正常化したとき、セツナは、空間転移の成功を知るとともに、眼前に蠢くものがドラゴンの心臓に違いないと思った。ドラゴンの巨躯を動かしている、動力部とでもいうべき巨大な臓器。拍動し、全身に大量の血液を送り込んでいるようだ。体内に反響する鼓動と、血の流れる音が奏でるのは、生命の旋律とでもいうべきなのだろうか。そして、発光現象。竜の心臓は、拍動とともに光を発し、体内の光景を彼に見せつけていた。複雑に入り組んだ臓器の迷宮。空間は広大で、人間がひとり紛れ込んでもなんら不都合はなさそうだったし、いまのところ、ドラゴンが苦悶の声を発している様子もない。そもそも、盾の防壁が内臓や体の内壁をも保護している可能性が高い。セツナが体内で暴れ回ったところで、痛くも痒くもないのかもしれない。
それでも、セツナがドラゴンの体内に転移したのは、ほかに攻略方法が思い浮かばなかったからだ。圧倒的な巨大さと生命力を誇るドラゴンとまともに正面からぶつかり合うのは、馬鹿馬鹿しいというよりほかない。互いに盾に護られた状態ならば殴り合うことも不可能ではなかったが、だからといってそんな無意味な戦闘を無限に続けられるわけもない。
相手が力尽きるまで殴り合うというのは、セツナがクオンの補助なしではまともに戦えないという時点でありえないものとなった。そもそも、ドラゴンの限界がわからない。そして、ドラゴンが盾の守護を失い、無防備になったとしても、そのとき、相手に致命的な一撃を叩き込めるだけの余力がセツナに残っているものかどうか。おそらく、精も根も尽き果てているに違いなく、戦闘にはなるまい。
もし、セツナに力が残っており、ドラゴンに致命傷を負わせることができたとしても、ドラゴンがまた姿形を変えてしまえば無駄になる。ドラゴンはこれまで、二度の変態を見せているが、それが限度とは考えにくかった。何度でも変態する可能性が残されている。変態するたびに凶悪化するというのならば、これ以上の変化を許す訳にはいかなかった。
一撃で、決着をつける必要がある。
そのためにはどうすればいいのか。
(ドラゴンの生命活動を終わらせればいいってことだろ!)
セツナは臓器から臓器に飛び移りながら、胸中で叫んだ。心臓は明滅し続けている。まるで目の前に敵がいるということを知らないかのように。いや、知らないのだろう。ドラゴンには理解できないのだ。セツナが消え、どこに出現したのかなど、理解できるはずがない。超感覚でもって体内の異変に気づけたとしても、ドラゴンにはどうすることもできないに違いない。だからといって、時間を費やすこともできない。外にはクオンがいて、彼はいま、無防備だ。ドラゴンの注意がクオンに向けば、彼が危険に曝される。
器官や臓器を飛び移りながら、セツナは心臓の目前に達した。拍動はさながら龍の唸り声のように低く響き、緑色の発光現象は、ドラゴンがこの世のものではないことを証明するかのようだった。
中空、セツナは矛を振りかぶった。臓器同様、防壁に護られているのだとしても、他に方法はない。
「うおおおっ!」
我知らず叫び声を上げながら、彼は矛の切っ先を竜の心臓に叩きつけた。接触の瞬間、心臓の表面に光の波紋が走る。手応えはなく、全身全霊で叩きつけた一撃が無力化されたことを理解する。シールドオブメサイアと同質の防壁を打ち破るには、この程度の力では足りないということだ。セツナが出しうる全力の一撃ですら、クオンの盾には通用しないのだ。鉄の鎧を紙切れのように切り裂き、人間を肉塊へと変え、堅牢な城壁すら打ち砕く一撃であっても、シールドオブメサイアの守護を貫くことはできない。
竜の心臓は、何事もなかったかのように拍動と明滅を繰り返している。
(ちっ……)
セツナは、手近に伸びていた器官に着地すると、柄を握る手の力を抜いた。転移のために切り裂いた足が、いまごろになって痛みを訴えてきているが、そちらは黙殺する。痛みを堪えることは難しいことではない。疲労も、耐えられる。
我慢ならないのは、このままドラゴンの勝利を待つということだ。
外面のみならず、内臓までも守護の影響下にあるというのは、ある意味では予想通りではあったのだ。守護対象のすべてを守るのがシールドオブメサイアの能力ならば、内臓も護られて当然だろう。外面だけしか護れない能力では、さすがのクオンも無敵の盾などと誇れないだろうし、《白き盾》が不敗の傭兵団として君臨し続けられるはずもない。無敵の盾は、やはり無敵にして究極の防壁だったのだ。
それでも、セツナは、これに賭けた。ドラゴンの心臓を破壊し、この戦いに終止符を打つには、これしかないと判断した。たとえ防壁に護られていたとしても、カオスブリンガーの力を引き出せば、貫けると信じたのだ。
「おまえはこれでいいのかよ」
黒き矛を掲げる。
カオスブリンガーは、竜の心臓の光に照らされ、いつにもまして凶悪な姿に見えた。
嫌悪と畏怖を呼び起こすような形状をした、破壊と殺戮の象徴のような矛だ。全長は二メートルを越える長柄武器であり、斬・突・打、あらゆる攻撃を繰り出すことのできる万能兵器。斬撃は鉄を切り裂き、打撃は岩塊を打ち砕く。
いままで、どれだけの敵を血祭りに上げてきたのか、考えるだけでも恐ろしいほどの戦闘を乗り越えてきたのが、このカオスブリンガーだ。