第三百九十五話 白き盾
「もう、着いたかな」
セツナはクオンに尋ねながら、柄を軽く握った。丸一日以上に渡るドラゴンとの対峙に精神力を擦り減らしてきたものの、余力は残してある。目的はガンディア軍本隊のヴリディア突破であり、それさえ達成できればいいだけのことなのだが、彼にはそれで終わらせるつもりはなかった。
ドラゴンを打倒する。
クオンには悪いが、セツナがつぎの段階に進むには、どうしても越えなければならない壁なのだ。
そのためにも、彼は無駄な消耗を避けていた。ドラゴンの注意を引きつつ、余力も残す戦い方というのは極めて難しいものがあったが、挑戦するうちに力の使い方というものがわかってきた気がする。いままで常に全力で戦ってきた感覚があったが、それが是正されるかもしれない。もちろん、良いことだ。
「少なくとも、ぼくの感知範囲にはいない」
「そっか。なら安心だな」
セツナは、クオンを一瞥すると、頭上から降ってきた拳を矛の切っ先で受け止めた。ドラゴンの巨拳の一撃も、シールドオブメサイアの防壁を突破することはできず、黒き矛と直接激突することもなかった。
見えざる障壁に阻まれながら、それでも拳は諦めない。もっとも、セツナの足を地中に押し込んだだけだ。多少地面に埋まったところで、セツナが痛痒を覚えるはずもなかった。
セツナは矛を力で押し上げて、ドラゴンの拳を横に逸らした。巨木のような拳が地を抉る。攻撃を叩き込む機会が訪れたが、彼は黙殺した。好機ではない。黒白の竜にこちらの攻撃が意味を成さないのは、わかりきったことだ。何度か攻撃を叩き込んだものの、シールドブメサイアの模倣によって、ドラゴンもまた無敵の盾の恩恵を受けていた。
再び、クオンを見遣る。白き盾の召喚師は、見るからに消耗していた。それはそうだろう。彼はドラゴンと対峙して以来ずっと盾を召喚し、防壁を維持し続けているのだ。セツナとクオンだけを護るのならばまだしも、途中、樹海の広範に渡って守護領域を展開するという離れ業を行っている。それも、ガンディアの本隊が通過するまでの間、維持し続けていた。
彼が精神力を消耗し尽くすのは、セツナにだってわかっていたことだ。最初から無茶な作戦だったのだ。たったふたりでドラゴンの行動を封じるということからして無理難題だ。それでもやり通さなければならなかった。
ほかにいい方法があるわけではないし、ふたりが百人、千人になったところで、増えるのはクオンの負担だけだ。本隊が通過する前後も常に千人以上の仲間を守護し続けるのは、ふたりだけを護るよりも余程多くの精神力を消耗するだろう。だからこそのふたりなのだ。
守護領域を展開するだけならば、クオンひとりでも良かっただろう。しかし、ガンディア軍が通過したあとのことを考えると、セツナの存在が必要だったのだ。ドラゴンをヴリディアの地に止置きたいのだ。
ドラゴンがどの程度行動できるのかがわからない以上、通過後、放置しておくという判断はありえない。なんとしてでも、ドラゴンの注意を引き付けておく必要がある。それには攻撃力で並ぶものがいない黒き矛こそ相応しい。
「あとは俺の仕事だな」
「そういうこと。あとはよろしく」
そういって、クオンはその場に座り込んだ。精神力の消耗は、彼の外見の変化となって現れている。頬がこけ、噴き出した汗が流れ落ちている。妙に落ち窪んでいるように見えた目が爛々と輝いているのは、疲弊し尽くしているからだろうか。呼吸が荒い。もう数時間も保たないだろうことは間違いない。いや、一時間も持つかどうかといったところだろう。
「おう、任せろ」
セツナは景気良く応えたものの、必ずしも勝てる見込みがあるわけではなかった。むしろ、不安の方が大いにある。クオンがシールドオブメサイアの守護障壁を維持することができなくなれば、その時点でセツナたちの敗北は確定する。少なくとも、苦境に立たされるのは間違いない。
黒白の竜はただでさえ巨大であり、拳の一撃ですら脅威的な威力だ。拳が地面に突き刺されば大地が割れ、足が動くだけで木々が倒壊した。翼が竜巻を発生させ、咆哮とともに光が驟雨となって打ち付けた。まるで天変地異そのものだ。黒き矛と白き盾の能力を再現するということはそういうことなのだろうが、それにしても凶悪極まりない。
クオンの守護がなければ、太刀打ち出来る相手ではなかったのだ。ビューネル砦跡で戦いを挑んだのは、どう考えても間違いであり、無謀以外のなにものでもなかった。死なずに済んだのは、ファリアが即座に救出してくれたおかげであり、セツナは改めて彼女に感謝するべきだと思った。
その上、シールドオブメサイアの守護下にあっても、決定的な攻撃を叩き込めた試しがない。痛撃を食らわせることができたのはたったの三回だけ。それも、竜がシールドオブメサイアを模倣する前のことだ。黒白の竜へと変わり果ててからというもの、セツナの攻撃はことごとく通用せず、無力化された。
ドラゴンもまた、シールドオブメサイアと同質の防壁を展開したからだ。これでは、戦いになどならない。互いに決定打を出せず、我慢比べが続いている。どちらが先に力尽きるのかを待っているような状況だった。
先に精神力を消耗し尽くしたほうが負けるのは疑いようもない。盾の守護を失ったとき、そのものの敗北は決定的になる。そしておそらく、クオンの精神力のほうが先に尽きて無くなるだろう。
ドラゴンは、戦闘が始まって以来、疲労している素振りも見せていない。ヴリディア砦跡の周辺を破壊し尽くすほどの力を発散しているにもかかわらずだ。セツナならばとっくに気を失っているに違いなかった。それだけの力を放出しながら、なおもドラゴンの様子には余裕が見て取れる。
ドラゴン。
漆黒の右半身と純白の左半身を持つ異形の怪物。白と黒の翼を広げ、セツナたちの空を奪うかのように仁王立ちするその姿は、万物の覇者に相応しい威容だといえた。全長数百メートル。精確なサイズはわからないが、少なくとも、セツナの知る生物の中で比肩しうるものは存在しないだろう。
ただ、そこに立っているというだけで圧倒された。その腕の一振りで大気が渦巻き、大地が裂けた。地団太を踏めば局地的な地震が起き、木々がつぎつぎと倒れた。天災そのものといってもいいのではないか。
だとすれば、人間が立ち向かうべき相手ではない。身を潜め、息を凝らし、ただ過ぎ去っていくのを待つのが正解なのだろう。接近さえしなければ、破滅的な攻撃に曝されるということもないのだ。五方防護陣から退けば、ドラゴンが攻撃してくることもなくなるだろう。天災から逃れることができるのだ。
もちろん、セツナに後退の二字はない。いまヴリディアから下がれば、ドラゴンに自由を許すことになる。ドラゴンを放置するということは、龍府に向かった本隊を危険に曝すことになりかねない。
ドラゴンは、ヴリディア南方の野営地まで攻撃してくることはなかった。そこから、ドラゴンの攻撃範囲を予想し、割り出した範囲こそ、クオンが守護領域を展開した範囲だった。守護領域を無事通過した本隊に、ドラゴンの攻撃が襲いかからなかったところを見る限り、割り出した範囲は間違いではなかったということになる。
だが、だからといって過信は禁物だった。ドラゴンが、わざと攻撃しなかった可能性もある。本当は、もっと広い攻撃範囲を持っているのかもしれないし、ヴリディアから飛び立ち、自由に動き回れるのかもしれないのだ。
可能性の問題に過ぎない。動き回れるのかもしれないし、このヴリディアから一歩も動けないのかもしれない。ドラゴンとの戦闘を諦め、後退する、あるいは前進し、本隊と合流するという選択肢もないわけではなかった。
しかし、わずかでも前者の可能性が残っている以上、セツナたちはここから動くことはできなかった。少なくとも、ガンディア軍が龍府を制圧し、この戦争を終わらせるまでは、ドラゴンの自由を奪っておく必要がある。
そして、戦争が終結するのを待っていることができないという現実が、彼を戦いに駆り立てるのだ。ガンディアは勝つだろう。圧倒的な戦力差、ファリアやカイン、《白き盾》の武装召喚師たちがいて、ルクスがいる。ガンディアに負ける要素はない。セツナが救援に向かう必要性は微塵も感じられない。レオンガンドがザルワーンを下す歴史的な場面に立ち会えないのは残念だが、それぞれの役割をまっとうすることのほうが重要であり、セツナはこのドラゴンを釘付けにしておくという役目を果たすことに全力を尽くさなければならない。
ガンディアの勝利は疑いようがない。それは、いい。
問題は、クオンだ。彼は、見るからに疲弊している。倒木に腰を下ろした少年は、どこか虚ろな目でこちらを見ていた。笑顔に生気はなく、とてつもなく弱々しい。精神力の殆どを消耗し尽くし、立っていることさえできないのだろう。
(クオン……!)
いまにも消え入りそうな少年の様子に、セツナは胸中で叫んでいた。