第三百九十三話 龍府を巡る攻防(二十三)
敵本陣は、前線から遠く離れた後方に位置している。翻る軍旗、陣幕が本陣の位置を明確にしており、その前方に防衛部隊が展開している。本陣正面の北側にガンディアの騎士と思われる部隊が布陣し、左翼に白衣の兵が隊伍を組み、右翼に黒衣の兵が陣を敷いていた。白衣と黒衣の軍勢の異様さは、一目で、それらがガンディアの正規戦力ではないということがわかるほどだ。
ガンディアの同盟国であるルシオンやミオンの部隊ともまったく毛色の異なる軍勢であり、ガンディアが、この戦争に際し、ルシオンとミオンの二国以外にも協力を仰いだ国があるのではないかと想像させた。とはいえ、ザルワーン侵攻への協力を求めるとすれば、近隣の国でなければならない。遠方の国では、援軍を待っている間に戦争が終わってしまう可能性もある。では、ザルワーン、ガンディアの近隣諸国にあのような軍勢を持つ国が存在するのか。
(ないな……あのような連中は見たことがない)
ミレルバスは、軍事には疎いものの、近隣諸国の軍事情報の収集を怠ったことはない。
ガンディアがログナーを併呑した直後に行った軍の再編についても、おそらく当のガンディア軍人よりも詳しく知っていたに違いない。アルガザード=バルガザールを大将軍という新設の役職につけたということは周知の事実ではあるが、右眼将軍、左眼将軍の新設から、軍団制への移行という大改革を瞬く間に行ったレオンガンドの手腕には、ミレルバスも目を見張ったものだ。今になって思えば、それらもすべてナーレス=ラグナホルンの入れ知恵なのだろうが。
ザルワーンは昔から南に向かって支配地を拡大する方針を取っており、近隣諸国の中でも取り分け南の国々の情報収集には力を入れていた。各国に諜報員、工作員を派遣するのは当然のこととして、特にガンディアの情報入手に尽力していたのは、ガンディアの隣国ログナーが属国であったということも大きい。ログナーは、五年前、ナーレスが神算鬼謀によって制圧し、彼の軍師としての実力を世に広く知らしめることとなったものだ。その戦い振りによって、ミレルバスはナーレスに惚れ、彼とともにザルワーンの未来を切り開きたいと考えてしまったのだが。
ログナーのつぎは、ガンディア。
そう思い続けて、五年が経過した。
ザルワーンの属国と化したログナーは、ガンディアのバルサー要塞を落とし、ガンディア制圧の橋頭堡を築いたものの、半年後に奪還された。ガンディアの“うつけ”という前評判を覆したレオンガンド・レイ=ガンディアは、バルサー要塞奪還の勢いのままにログナー制圧に乗り出し、瞬く間にログナー全土をガンディアのものとした。
ガンディアはザルワーンの隣国となり、鮮明な敵意を向け合ったまま、対峙を始めることになる。いや、継続、というべきだろう。ログナーが支配下にあるころから睨み合っていた間柄だ。
対峙は、長く続くかと思われた。
少なくとも、ガンディアのいまの戦力では攻め込んでくることはないだろうと、ミレルバスのみならず、ザルワーンのだれもが考えていた。こちらの兵力は二万に及び、ログナーを飲み込んだとはいえ、一万に満たない兵力のガンディアでは、到底太刀打ち出来ないと考えるのが普通だ。実際、ガンディアも、侵攻の気配も意図も見せぬまま、月日が流れた。
隣り合った敵国同士ではあるが、戦争直前の緊張感はないといってもよかった。ザルワーンにしても、ガンディアに攻めこむだけの余裕がなかったのだ。内乱が収まったものの、国内情勢はまだ安定しておらず、軍を自由に動かすということもままならない。
そんなとき、予期せぬ事態が起きた。
グレイ=バルゼルグの離反である。
メリスオールの遺臣にして、ザルワーンにおいて最強の部隊を率いた猛将グレイ=バルゼルグは、麾下三千人とともにザルワーンに対して反旗を翻すと、旧メリスオール領ガロン砦に籠もった。
多くの人間が、グレイの離反を流言や噂の一言で片付けようとした。それほどに信じ難い出来事だった。グレイ=バルゼルグは、ザルワーンの軍門に降って以来、一度足りとも不平や不満を漏らしておらず、どこに裏切る要素があるのか、皆目見当がつかないとでも言いたげな連中が多かった。グレイは、関わりの薄い将兵からの信頼も厚かった。彼はザルワーン最強の軍勢を率いるだけでなく、彼自身がザルワーン最強の戦士として君臨し、戦場において数多の敵兵を討ち取ってきた。ザルワーンに無くてはならない存在だった。
それが、一夜にして敵となり、国土内に拠点を持つに至ったのだ。寝耳に水とはこのことだが、ミレルバスは、グレイ軍の動きを知ることで、納得した。彼らはメリスオールの旧都メリス・エリスの惨状を目の当たりにしたのだろう。メリスオールの民の安全と幸福のために、ザルワーンの尖兵と成り下がったのがグレイ=バルゼルグであり、彼の軍勢だったのだ。すべてを奪われ尽くした事実を知れば、裏切りもしよう。
ミレルバスは、グレイ=バルゼルグの悲憤を理解したものの、後悔はできなかった。ミレルバス自身が選んだ道だ。オリアンの背中を押したのはミレルバスだ。彼の研究成果こそが、ザルワーンを強くする最短の道だと信じてのことだが、悪逆非道であることは否定しようがない。そして、その事実を知れば、グレイ=バルゼルグが敵に回るということもわかっていた。
グレイは、長年、ミレルバスに従い、戦場を駆け回っていたが、一度足りともザルワーンのために戦ったことなどないのだ。彼はいつだって、祖国のため、祖国の民、王のために血を流し、敵を殺してきたのだ。だからこそ、ミレルバスは彼らが旧メリスオール領に接近することを恐れ、様々な理由をつけては別地域に走らせた。が、グレイはこちらの命令を黙殺し、旧メリスオール領に向かい、ザルワーンの敵となった。
領土内に敵を抱えたまま、ガンディアとの対峙を続けなければならなかった。それにより、ますますガンディアへの侵攻が遠のく。ガンディアに軍を差し向ければ、身中の虫が暴れだすに決まっている。グレイ=バルゼルグの軍勢は、ザルワーン最強の部隊そのものであり、ザルワーン最強の軍勢がそっくりそのまま敵に回ってしまったのだ。しかも、敵国に流れるのではなく、国内に留まり、砦を占拠してしまっていた。
それだけならば、捨て置くこともできた。三千の兵を養うなど、簡単なことではない。手を出さずとも、放って置けば立ち枯れるだろう。
しかし、現実はそうならなかった。グレイ軍を支援するものが現れ始めたのだ。グレイ軍への支援は、ミレルバスのやり方に反発を持つ連中だけでなく、ザルワーンの隣国ジベルの暗躍もあったようだ。グレイ軍は困窮することなく、軍勢を維持し続けた。
グレイ=バルゼルグ討伐のために軍を起こすことも考えたが、それはナーレスによって先送りにされたのは、記憶に新しい。ナーレスは、グレイ=バルゼルグの離反に勢いづいた反ミレルバス勢力の一掃にこそ力を入れるべきだと力説し、ミレルバスも彼の案を支持した。実際のところ、グレイの反乱に乗じた反ミレルバス勢力の活動は目に余るものがあり、龍府にまで飛び火しかねなかったということもある。
結果から見れば、あのとき、グレイ軍を討伐するべきだったのだろう。グレイ軍討伐のためにこちらも多大な犠牲を払わなければならなかっただろうが、だとしても、このガンディア軍との戦いの経過を鑑みれば、必要な犠牲だったのだ。グレイ軍の存在がなければ、ミレルバスたちは軍をもっと自由に動かすことができたのだ。
ガロン砦に陣取ったグレイ軍の存在が、ザルワーン軍への牽制となっていた。蛇に睨まれた蛙のように、動くに動けなかったのだ。
結果、都市に籠もった部隊はガンディア軍に各個撃破され、ミレルバスが繰り出した軍勢も、ガンディア軍との戦いに敗れた。
敗戦に次ぐ敗戦が、守護龍召喚を決意させる。
(わたしは、なにを思い出している……?)
まるで走馬灯のようだ、と彼は苦笑を漏らした。走馬灯。ひとは死ぬ寸前、過去の出来事を振り返るという。いまのは、まさにそれだ。ミレルバスにとってもっとも強烈な記憶の数々は、この戦争の前後に集中している。敵本陣への特攻を目前に控え、それらが脳裏を過るのも仕方がなかった。待ち受けているのは、紛れも無い死だ。レオンガンドを討ち取ろうが討ち取れまいが関係なく、死ぬ。たとえ、この戦いを生き延びることができたとしても、死ぬ。
死と引き換えに、彼は英雄になった。英雄と呼ばれる超人に成ったのだ。だからこそ彼の視界は開け、世界が見渡せる。軍事的才能の皆無な彼にも、戦況が理解できるほどの情報量が、頭の中に飛び込んできている。
そういった諸々の情報が導き出した結論が、走馬灯を見せたのかもしれない。
「どうされました?」
ジェイド=ヴィザールが怪訝な顔をしたのを見て、ミレルバスはわざとらしくつぶやいた。
「征けるか」
前方の敵陣は、とっくにこちらの進撃に対応しつつある。征竜野は見渡す限りの平地であり、快晴でもあった。障害物がないということは、敵も味方も動きが筒抜けということにほかならない。おかげで敵本陣へと一直線に向かうことができている。
敵軍が迎撃態勢を取るのは、わかりきっていたことだ。
盾を構える騎士集団は壮観といってもよく、その両翼を固める黒白の軍勢は、騎士たちの翼にも思えた。翼というにはあまりに物騒な武器群だったが。
敵陣から矢が飛んできたかと思うと、ミレルバスたちの前方の地面に刺さった。距離を測るために放たれたのだということがわかったのは、地に突き立った矢を踏み越えた直後、敵陣から数多の矢が飛んできたからだ。たった百人の小勢を撃退するにはそれで十分だろうとでもいいたげな一斉射撃は、事実、猛威を振るった。ミレルバスの前を進む騎馬兵たちが撃ち落とされ、馬が転倒した。悲鳴が聞こえたのはそれからだ。それらを踏み越えて、ミレルバスたちは進む。
「征きます」
ジェイドが、腰に帯びた剣を抜いた。高々と掲げる様は、敵味方の注意を自分に集めるためだろうか。
「おおおおおおおおおお!」
ジェイドが咆哮とともに駈け出した。
龍眼軍“天輪”隊長の雄々しい叫び声に、彼の直属の部下が喚声を上げて続いた。小細工は不要。いや、小細工などする余地はない。既に敵の射程に入ってしまっている。退くことなどできない。進むしかないのだ。
ミレルバスも、ジェイドたちに続いた。彼の供回りはもはや数えるほどしかいない。多くが、敵の猛攻に命を落としたのだ。ジェイド隊と合わせて百人余りの兵力。もはや戦力とも言い切れないような人数だったが、勝算はあった。
ミレルバスには、敵本陣への道が見えていた。
降りしきる矢の雨の先、立ち並ぶ騎士の鉄壁の間に、光の道が伸びている。直線ではない。複雑に蛇行する経路は、ミレルバスの超感覚が導き出した勝利への道程に違いなかった。
「征くぞ。あの光の中へ」
ミレルバスは叫んだが、兵士たちに伝わったのかどうか。とにかく、彼は腰の太刀を抜き、声を上げていた。既にジェイド隊が、続々と脱落者を出しながらも敵本陣防衛部隊への接触を果たしている。弓射が止む。
ジェイドが獰猛な獣の雄叫びにも似た叫びを上げ、敵兵を吹き飛ばした。英雄を化したジェイドの前に、ガンディアの騎士など相手にもならなかった。強固に見えた敵の防衛線に穴が開いた。そこへジェイドの部下たちが突撃し、傷口を広げるようにして風穴を拡大していく。
ミレルバスの目に映る光の道が鮮明なものになっていく。複雑な経路。だが、一歩も間違えなければ、必ず敵本陣へと辿り着ける道筋。希望の光明。
彼は、その光の中へ軍馬を突っ込ませると、手近にいた敵兵を一刀の元に切り捨て、血の付着した刀身を天に掲げた。
「命を惜しむな! 死して武名を轟かせよ!」
声を荒らげながら、彼の五感は周囲の敵味方の動きを察知している。ジェイド隊が敵騎士群を圧倒したのも束の間、黒衣の部隊がこちらの後方に回り、白衣の部隊が騎士群の後方を埋め尽くした。包囲陣が急造され、退路が塞がれたものの、元より後退するつもりもない。後退とはザルワーンの敗北であり、勝利の可能性をわずかでも信じるのならば、前進しかなかった。
そして、どれだけ包囲されようと、超人を討たない限り、こちらが覆滅されることなどないのだ。
光が見えている。
(あれは……?)
ミレルバスは光の経路とは別の光を目撃して、一瞬、動きを止めてしまった。敵中。一瞬の油断が命取りだということは、わかりすぎるくらいにわかっていたはずだった。馬が棹立ちになったかと思うと、彼の体は空中に投げ出されていた。
(将を落とすには、まず馬を射よ……か)
軍馬のいななきを聞きながら、彼は、そんな初歩的な戦術を思い出した。地に落ちたミレルバスに敵の攻撃が殺到する。数多の槍、剣の切っ先が迫ってくる。だが、それらが自身の肉体に到達するよりわずかに早く、彼は跳ね起き、太刀を振り回して周囲の敵を切り刻んだ。
騎士か一般兵かは知らないが、ミレルバスに殺到したものたちの腕や手首が宙を舞い、血飛沫が世界を彩った。血の臭いが鼻腔を満たす。すぐさまその場から飛び離れると、左肩と右足に痛みが生じた。すべての攻撃をかわすことはできなかったのだ。
ミレルバスは自嘲気味に笑うと、進路に向き直った。敵兵は、こちらの攻撃の凄まじさに間合いを取っている。いまが好機だ。光の経路は、まだ見失ってはいない。
(だが……)
彼は、光の経路を邁進しながら、馬上で見たもうひとつの光を思い浮かべた。
遙か前方、征竜野の果ての樹海の彼方に、光の柱が聳えていたのだ。