第三百九十二話 龍府を巡る攻防(二十二)
「ふむ……」
ミレルバスは、神妙な面持ちになった。
距離はあるが、後方から、数多の矢が降り注いできているのがわかる。
耳を澄まさずとも、大気を斬り裂く矢の音が無数に聞こえてきていた。大地を蹴る軍馬の足音も怒涛のように聞こえていたし、気炎を上げる敵指揮官の声も耳に届いてくる。兵士たちの吐く息吹さえ、ミレルバスの耳朶に響くかのようだ。それは英雄薬の作用であり、聴覚の異常な拡張だけでなく、視覚も嗅覚も、はたまた筋力や生命力まで増幅しているのが感覚的に理解できた。おそらく、ジェイドも同じような感覚を覚えているに違いない。
英雄薬の服用によって得られる超感覚は、劇薬のようなものだ。圧倒的な万能感に包まれ、興奮状態に陥ってもおかしくはなかったし、ミレルバス自身、万能感に支配されかけている。なにもかもを支配できるような感覚が錯覚にすぎないことを理解できたとき、彼は英雄薬の名称に悪意を見出した。
オリアンのことだ。皮肉を込めて名づけたに違いない。
蘇生薬の例を考えればわかるだろう。
蘇生薬は、死者を完全に蘇らせるための薬などではない。死を欺瞞し、仮初めの生を与えるに過ぎない代物だ。息を吹き返したからといって傷が塞がるわけもなく、ただ蘇った兵士たちは、死の淵にあって敵を求めさまよう亡者と成り果てるしかなかった。
大量出血で死んだものも、痛みのあまり死んだものも、息を吹き返したところで、置かれている状況というのは死ぬ寸前となにひとつ変わりはしない。変化があるすれば、死への耐性がついているということであり、それも蘇った連中には嬉しくもない症状に違いなかった。
蘇生薬によって不死の特性を得たものは、何度死んでも蘇った。蘇るたびになにかを失いながら、それでも生き返らなければならなかった。首が切り離された時、不死者は活動を終えることができるという。蘇生薬という名の外法の極みはいま、征竜野の戦場において猛威を振るっていた。もっとも、不死者の横行は、なにも知らされていないザルワーン軍の兵士たちにも少なからず衝撃を与え、動揺が広がったようだが、それが収まれば、こちらの攻勢に一役も二役も買った。
その勢いも、もはや失われつつあるようだ。不死者を沈黙させる方法が判明すれば、恐れる必要もなくなるということだろう。
後方、猛追してくる敵部隊の存在に意識を向ける。部隊の規模は、こちらと同等か少し多いくらいだ。追いつかれれば、こちらの半壊は免れ得ない。進軍中の部隊は、背後からの攻撃に対して脆く、弱い。
といって、進軍を停止し、追撃部隊との戦闘に専念すればいいというものでもない。多量の出血を覚悟しなければならない上、たとえ撃破できたとしても、別の部隊が追い付いてくるかもしれない。
敵は、本陣への特攻を阻止するために全力を上げている。猛追をかけているのがその部隊だけという話であり、視野を広く持てば、別の部隊もミレルバスたちを追いかけてきているのがわかる。連戦になれば、ミレルバスたちに勝機はない。
「ミレルバス様。ここは、部隊を二手に分けましょう」
ミレルバスに進言してきたのは、龍眼軍第四部隊“風旗”隊長ミルディ=ハボックだった。現在、ミレルバス率いる特攻部隊を構成しているのは、ほぼジェイド=ヴィザールの部隊とミルディの部隊である。つまり、中列部隊に組み込まれた四部隊中、二部隊が壊滅し、二部隊が生き残っているという状況だった。
総勢二百人。
ミレルバスは、ミルディ=ハボックを一瞥した。ミレルバスの左を疾駆する彼の目には、決然たる意志がある。
「どう、分ける?」
「我々、“風旗”隊がここに残ります。ミレルバス様は、“天輪”隊とともに敵本陣を目指してください」
ミルディの言動に対し、驚きを見せたのがジェイド=ヴィザールだ。“天輪”の隊長である彼にしてみれば、追撃部隊に当たるのは自分たちだとでも思っていたのかもしれない。
「ミルディ=ハボック隊長、やれるのか?」
「もちろん。わたしがやらなくて、だれがやるというのですか」
ミルディがにやりと笑うと、ジェイドは自分の不明を恥じたように目を伏せた。ミルディ=ハボックの覚悟は、決して言葉だけのものではないということが、彼の態度にも表れている。
「わかった。頼む」
生きよ、とはいわなかった。敵は二百人超の部隊。対するミルディ率いる“風旗”隊は百人に満たない部隊だったし、英雄薬の服用者は見当たらなかった。ミルディを含め、英雄化した人間がいないということは、苦戦することは間違いないということだ。いや、苦戦どころの話ではない。敵追撃部隊に他の部隊が合流する可能性を考慮すれば、ミルディ隊の壊滅は必至だった。
彼は死ぬだろう。
ミレルバスはそう思ったが、ミルディはにこやかに笑って見せてきた。
「はっ。お任せあれ。ミレルバス様はどうか、レオンガンドの御首を……!」
「期待せよ。勝利を掴むのは我らザルワーンぞ」
ミレルバスが厳かに告げると、ミルディは敬礼の後、部下たちを引き連れてミレルバスの元を離れた。“風旗”隊は百人弱。冷静に考えるまでもなく、か細い戦力だが、それはミレルバスたちも同じことだ。残すところ二百人余りの部隊をふたつに分けたのだ。特攻部隊もまた、“風旗”隊同様、百人余りの少数部隊となった。
が、構うことはない。
ミレルバスたちの目的は敵本陣への到達であり、レオンガンドを討ち果たすことにある。敵本陣の前面に展開する部隊との戦闘に注力する必要はない。ひとりでも本陣に辿り着き、レオンガンドを討ち果たすことができればいいのだ。防衛部隊との戦闘内容などどうでもいい。突破することだけを考えればいいのだ。
「急ぐぞ。彼らの覚悟を無駄にはできない」
「はっ!」
ミレルバスに応えたのは、部隊長のジェイド=ヴィザールだけではない。彼の部下たちも、声を上げた。ミルディ=ハボックの覚悟に感銘を受けたのかもしれないし、自分たちも覚悟して臨んでいるということをミレルバスに伝えたかったからかもしれない。兵士ひりひとりの表情を窺うことこそできなかったものの、彼らの覚悟の程を知って、ミレルバスは目を細めた。誰も彼も、死の先にこそ勝利があるのだということを知っている。生還など期待してもいない。間違いなく、死ぬ、ということを認識している。
死ぬだろう。
たとえミレルバス隊のいずれかがレオンガンドを討ち果たせたとして、主君の仇として討たれるのは疑いようがない。英雄薬によって強化されているあいだならば、それさえも出し抜くことが可能かもしれないが、ガンディア軍の戦力は本陣周辺だけにあるわけではない。ガンディア軍が停戦の判断を下すまで生き延びられる保証はなかった。
ミレルバスでさえ、そうだ。死を見ている。目的を果たそうと、果たせまいと、自分が死ぬに違いないということを知っている。知っているからこそ、このような無謀な特攻に全身全霊を込めることができるのだ。
「征竜野において、獅子を征するのだ」
ミレルバスは告げると、全速前進を命じた。特攻部隊は、ジェイド=ヴィザールの指揮により、進軍速度を上げていく。軍馬を限界まで酷使することができるのも、死を認識しているからに他ならない。馬も死ぬだろう。敵本陣に至るには、防衛線を突破しなければならない。
敵本陣を大きく迂回し、側面や後方から襲撃する、などという方法も考えられたものの、それはできないだろうと判断した。こちらの特攻は、敵本陣からも丸見えであり、当然、本陣防衛部隊にも見抜かれている。迂回したところで、進路を塞ぐように対応されるだけだ。ならば、最短距離で特攻するしかない。
兵数は百人余り。対して、敵本陣を防衛するのは五百人以上と思しき部隊であり、こちらに比べれば大部隊といっても過言ではない。おそらくレオンガンド王の親衛隊が本陣の守備についているのだろうが、どうやらそれだけではなさそうだった。