第三百八十話 龍府を巡る攻防(十)
リューグが口笛を鳴らす。
「ひゅー。敵さん、追ってこないねえ」
「でしょうね」
(とはいえ、龍府に戦力が残っていないとは言い切れない)
ミリュウは、手綱を握る手に力を込めていることに気づき、息を吐いた。集中するのはいいが、熱中しすぎて我を忘れてはならない。冷静さを見失った時、敗北は始まる。自分に勝利などはない。だが、だからといって敗北していいわけでもない。ガンディアとの約束を果たし、その上で目的を遂げる。でなければ、彼女が今日まで生き延びてきた意味がなくなる。
征竜野に刻まれた街道に合流する。龍眼軍が進んできた道だ。まっすぐ進むだけで、龍府に辿り着ける。門は開いたままで、龍府内部の景観が覗いていた。
「メリルちゃんはおそらくライバーン邸の地下でしょうね。避難場所としては、五竜氏族の屋敷が一番安全だもの。一種の砦のようなものだし」
「砦……って」
「そりゃあ砦なんかと比べ物にはならないくらい軟な代物よ。でも、外壁は堅牢だし、戦力も保有しているわ。といっても、この状況下で動員できるのは、ライバーン家の私兵くらいのものね」
ライバーン家の私兵の数など、知れたものだ。それはライバーン家に限ったことではない。五竜氏族は、個々に力を持つ必要がないからだ。五竜氏族とはザルワーンの支配階級であり、ザルワーン軍は最優先で五竜氏族を護らなくてはならないという教育を受けている。ザルワーンの軍事力がそのまま五竜氏族の力となっていた。
それでも、意識の高い一部の家は私財を投じて兵を持っている。ライバーン家とリバイエン家くらいのものではあるが。しかし、他の五竜氏族への遠慮からか、どちらの家も、戦力といえるほどの私兵を養ってはいなかった。
「はー、屋敷に突入するだけで大変そうだな」
「まあ頑張んなさい。あんたが期待されている証拠でもあるんだし」
敵国首都への潜入をリューグひとりに任せるというのは、どう考えてもやりすぎだとは思うのだが、ミリュウはそれについては言及しなかった。ガンディアが無茶ばかりする国だということは、セツナの記憶に触れたときに思い知ったことでもある。
「そうかねえ」
「たぶんね」
「なんとも頼りにならないお言葉で」
「悪かったわね」
「いえいえ」
そんなやりとりをしながら、ミリュウたちは龍府の城門を潜り抜けた。背後から轟いてくる爆音にも、振り向きはしない。戦闘が激化するのはわかりきっていたことだ。ガンディア軍には三人も武装召喚師がいて、ザルワーンにもひとり、武装召喚師がいる。武装召喚師たちが力を発揮すれば、戦場は惨憺たるものになるものだ。主戦場から引き離さない限り、両軍の被害は拡大するだろう。
(ファリア。頑張ってね)
ミリュウは胸中でつぶやくと、軍馬に全速前進を命じた。
懐かしくも憎らしい龍府の町並みは、閑散としていた。
ギルバート=ハーディは、ミリュウ=リバイエンとリューグ=ローディンが敵軍後方から龍府への街道に到達したのを見届けると、麾下の騎兵隊に疾駆を命じた。右翼部隊のうち、ミオン騎兵隊でザルワーン軍の後背を狙い、ガンディア兵には横腹を衝かせることにしている。
(予定通りだな)
この場合、決戦の舞台が征竜野になった場合の予定の通りということだ。ザルワーン軍が征竜野に展開したこちらを黙殺し、龍府に籠城したのならば、別の戦術を取ったのだ。その場合、ミリュウたちの龍府潜入は、ガンディア軍による城門突破と同時期という手筈になっていた。龍府に雪崩れ込むガンディア兵に紛れ、龍府に入り、目的を達成する。
ギルバートは、彼らの目的がなんであるのかは知らないが、なんにしても、ガンディア軍の目的のひとつが達成されそうなのは喜ばしいことだ。失敗は、全軍の士気に関わる。
(ザルワーンは追手を出せなかったか)
出さなかったのではなく、出せなかったのだ、と彼は断じた。それだけ、ザルワーンの戦力に余裕が無いということだ。約二千の軍勢で約七千の軍勢に立ち向かおうというのだ。たった一騎の龍府潜入を防ぐためだけに戦力を割きたくはないというザルワーン側の考えもわからなくはない。
ギルバートなら、騎兵を十騎差し向けただろうが、それもギルバートの騎兵隊あってこその判断だ。ギルバートがザルワーン軍を率いている立場ならば、同じようにミリュウたちを黙殺したかもしれない。
(数ではこちらが圧倒している)
ギルバートの目は、ザルワーン軍の後背を捉えている。前進に集中する余り、後方の防御はおろそかだった。無防備極まりない。このまま騎兵隊で突撃すれば、ザルワーン軍は半壊するのではないだろうか。
現状、ザルワーン軍は、敗北必至といってもよかった。二千余りの軍集団が、まるで一個の塊となって前進してきたことが仇になっている。ガンディア軍は部隊を三つに分けていた。龍府南門正面に本隊、左翼にルシオン部隊、右翼にミオン部隊を展開しており、ザルワーン軍が征竜野に飛び出してきた時、これらの軍は、ザルワーン軍を包囲するように動いた。
まず、中央部隊がザルワーン軍を先制攻撃と足止めを担い、左翼の騎士隊と右翼の騎兵隊が後方を、両翼の歩兵部隊が横腹を衝く。各部隊が隙間を埋めることで、包囲は完璧なものとなるはずだ。ザルワーンに勝ち目はない。
(勢いも……ある)
ギルバートは、中央部隊の苛烈な攻撃が、ザルワーン軍の前列部隊を蹴散らしたのを見ていた。蹴散らしたのはガンディア兵というよりは、武装召喚師や傭兵たちだが、その戦い振りは、ガンディアの弱兵たちの魂をも奮い起こしたようだった。
「勝てる」
ギルバートは囁くようにいったつもりだったが。
「そうだな……!」
鋭い叫び声は、頭上からだった。振り仰ぐ。なにものかが飛びかかってきている。ギルバートは咄嗟の判断で手綱を手放すと、左に向かって身を投げ出した。落下の衝撃を歯噛みして耐え抜いていると、愛馬の悲鳴が聞こえた。顔を上げる。横転した馬の腹を踏みつけている足があった。
ギルバートは、この戦争始まって以来、初めて怒りというものを覚えた。憤怒に震えながら、部下の騎兵隊員のほとんどが、ギルバートには目もくれず、この場を通過していくことに満足した。この場合、目の前の敵ひとりを倒すよりも、龍眼軍の包囲を完成させることを優先するべきだった。眼前の敵は、ギルバートひとりでもなんとでもなる。
「おかげで、こっちは負けそうだ」
ギルバートの愛馬を足蹴にしているのは、動きやすそうな軽装の鎧を身につけた男だ。兜の下に覗く双眸は爛々としており、やる気は十分といったところだろう。飛びかかってきたというのに武器を手にしていないところを見ると、馬を横転させたのはただの蹴りらしい。ただの飛び蹴りで、鍛え上げられた軍馬を転倒させることは難しい。しかも、こちらは全速力で前進している最中だった。命中させるだけでも簡単なことではない。
「しかし、よく避けたな、あんた。さすがはミオンの突撃将軍」
男は、口の端を歪めながら背に負った大刀を抜いた。鈍い光を発する分厚い刀身は、敵を斬るための武器ではなく、敵を叩き切る武器だという証明だろう。軍馬を一撃で昏倒させる力から繰り出される斬撃には注意を払う必要がある。
ギルバートは立ち上がりながら、彼を敵と認めた。
「奇襲は無言で行うものだ」
ギルバートは、腰に帯びた剣を抜いた。騎兵隊の長駆による奇襲戦法を得意とする彼ではあるが、それはあくまで部隊運用の話だ。白兵戦が苦手というわけではなかった。むしろ得意とする方であり、若い頃は白兵だけで食っていける自信があった。しかし、指揮官を目指すならば白兵以外の戦い方を覚えた方がいいという忠告を受けた彼は、考えを改め、戦術の研究に没頭するようになる。そうして騎兵隊の運用法を確立していくのだが、それはまた別の話だ。
いまは、眼前の敵を排除しなければならない。
ギルバートは柄を握る手に力を込めすぎていることに気づいて、小さく息を吐いた。気張りすぎてはいけない。感情に左右されてはいけない。愛馬は生きている。息をしている。気を失ってはいるようだが。
「声が聞こえてからの判断が早いって褒めてんだよ」
「ふん……お褒めに預かり光栄だが、貴様の相手を長々としている暇はないのでな」
ギルバートは、男が動き出すのを待たずして前進した。飛びかかると見せかけて、右へ。相手は動かない。男は、その手には引っかからないとでも言いたげに口を歪ませている。
「残念だが、あんたにはここで俺の相手をしていてもらう」
「わたしひとりを足止めして、どうなるものでもあるまい」
「そうだな。あんたひとりなら、たしかにその通りだ」
「なに……?」
訝しげに眉根を寄せたとき、悲鳴が上がった。
ギルバートの進行方向――騎兵隊からだ。