第三百七十九話 龍府を巡る攻防(九)
龍府の門が開くのと同時に飛び出してきたのは、間違いなく龍眼軍だった。
龍眼軍は、ザルワーンが三軍制になってからというもの、ザルワーン軍の中でも精鋭中の精鋭を集めたことで、名実ともに最上位の軍団として機能していた。もっとも、龍眼軍の役目が龍府の防衛に限定されてしまったこともあり、最上位の軍勢が真価を発揮したことはザルワーンの歴史上一度もなかったのかもしれない。
つまり、実力は未知数ということだ。とんでもなく強いかもしれないし、逆に、とことん弱いかもしれない。どちらにしても、一度剣を交えなければ、実力を計ることはできない。想定外に強かったとしても、数ではガンディアが上だ。それも三倍以上の兵力差があるのだ。負ける要素は皆無といっていい。
(ガンディアが勝つ。それは間違いない)
だから、どうだというのだろう。
ガンディアが勝利し、龍府を制圧すれば、ザルワーンという国は間もなく消滅するだろう。残存戦力がルベンに集ったところで、ガンディアに対抗できるはずもない。
いや、ルベンはとっくに落ちているかもしれない。ガンディアとザルワーンがこの決戦に夢中になっている隙に、隣国のイシカ辺りに制圧されていても不思議ではなかった。メレドがイシカへの侵攻を始めたという風聞もあるようだが、イシカがルベンに戦力を割けない道理はないのだ。もちろん、この辺りの力関係が十年前と変わっていなければ、の話だが。
ともかく、ガンディアがこの一戦に勝利すれば、ザルワーンが大陸から消滅するのは間違いない。ログナーですら完全に飲みこんだのがガンディアだ。ザルワーンの存続を許すとは思えない。存続させる意味もない。
それが、なんだというのか。
生まれ育った国が攻め滅ぼされることになんの感情も湧いてこないのは、彼女がこの国を心底憎んでいたことの証明なのだろう。
「あちゃー、敵さん、打って出てきちゃったのかー」
「籠城しても援軍は来ないもの」
ミリュウは、後ろを振り返りもせずにいった。相手の反応はわからないではない。彼以外にも、長期戦を覚悟していたものも少なくはないだろう。ザルワーン軍が龍府に篭もれば、ガンディアは城攻めの態勢に入るつもりだったのだ。征竜野の平地で戦えるとは端から考えてはいない。それでも陣を整えておいたのは、万が一のことがあるからだ。
その万が一が、これだ。
怒涛の勢いで前進するザルワーン軍を遠方に見遣りながら、ミリュウは言葉を続けた。
「普通ここまで追い込まれたら降伏するのが正解なんでしょうけど、残念ながら、ザルワーンは普通の国じゃなかったのよ。愚かで、救いがたい国だったのよ。ガンディアは余計な戦闘をしなければならなくなったわね」
「それはいいけど、これじゃあ俺の任務も無用じゃん? リューグ不要論再燃?」
などと、背後で軽口を叩く男に、ミリュウは辟易した。馬上、手綱を握るのはミリュウで、《獅子の牙》のリューグ=ローディンは彼女の後ろに乗っている。彼女に貸し与えられた軍馬の背は広く、大人二人を乗せても余裕があった。馬の扱いに関しては問題がないわけではない。なにせ、ミリュウは乗馬こそすれ、戦場で乗り回したことなどほとんどなかったのだ。一度、セツナを追いかけたくらいか。
二人乗りの軍馬は、征竜野に展開したガンディア軍の中でも、左翼に布陣したルシオン・ガンディア混成部隊に紛れ込んでいた。もちろん、許可無く紛れているわけではない。軍議で取り決められたことであり、ルシオン側も了承していることだ。
軍装もきらびやかな白聖騎士隊と隊列を組んでいるのは、どうにも不格好ではあったが、乗り手が女であるという点だけは同じだ。そんなことで我が身を慰めても詮無きことだが。
左翼部隊は既に動き始めている。騎馬隊である白聖騎士隊が動き出すと、ミリュウも軍馬に前進を促した。左翼部隊は、中央部隊に集中している敵軍の横腹と後背を突くつもりだろう。それは右翼部隊も同じであるはずで、上手く行けばザルワーン軍を包囲する形になる。そうなれば、勝利は目前だ。押し包み、殲滅すればいい。
「あんたがあたしにとって不要なのは決定済みだけど、任務は遂行しておいたほうがいいかもね」
「む、中々に手厳しいことをおっしゃる」
「メリルちゃんの立場がどうなってるのかは知らないし、興味もないけど、国主の娘よ。この状況でトチ狂った連中がなにを仕出かすかわかったもんじゃないわ」
「確かに、そういわれれば、そうかもしれぬ」
リューグはなにやら唸っているが、ミリュウは気にも留めなかった。そもそも、こんな男を連れて龍府を巡らなくてはならないという事実は、彼女を暗澹たる気分にさせている。だが、やり遂げなくてはならないことでもある。ガンディア軍内での仮初めの自由は、このために与えられたものなのだ。
取引。
契約。
約束。
成し遂げなければならないという強迫観念が、ミリュウの意識を苛んでいた。しかし、悪い話ばかりでもない。リューグを彼の目的地まで送り届けることさえできれば、あとはなにをしたっていいのだ。
それはつまり、彼女の目的を果たす機会が生まれるということだ。
「ま、あんたが任務をすっぽかそうがあたしには関係ないけどね。あたし独りでも龍府に行くだけよ」
「それまた律儀なことで。だったら、ご一緒しましょう。ニーウェの旦那に殺されたくないし」
「ニーウェ? だれよそれ?」
「あれ? 知らないんで? セツナ様の別名ですよ。ニーウェ=ディアブラスってね」
得意げなリューグの言い方に苛立ちを覚えたものの、ミリュウは噛み付くような無様な真似だけはしなかった。
「あー……なんとなく思い出したわ。そういえばあんた、セツナと一緒に戦ったこともあるのよね」
セツナの記憶はほとんどすべて見ている。しかし、そのほとんどはミリュウの記憶の奥底に沈んでいて、無理矢理掘り起こそうとでもしない限り、思い出すようなこともないのだ。
そして、彼の記憶だけを掘り起こすのは簡単なことではない。ついでに自分の過去まで垣間見てしまうことが多々あった。そのたびに叫びたくなるのだ。幸福だった子供の頃の残影が、意識を締め付けるのだ。
だから、記憶の奥底に沈んでしまったものを掘り起こそうとは思わなかった。セツナの記憶には触れたい。けれど、自分の過去を直視するだけの余裕はない。ならば、封印しておくに限る。
しかし、リューグの発言で思い出してしまったものは仕方がない。
リューグとセツナの出会いとは、ログナー戦争の記憶でもある。セツナがニーウェ=ディアブラスを名乗ったのは、ログナー潜入中の短期間だけだ。リューグがいまだにニーウェと呼んでいるのは、リューグにとって彼はセツナではなく、ニーウェだということなのだろう。
(ニーウェ……セツナ……刹那、か)
一瞬一瞬を大切に。
そんな両親の想いが込められた名前が、いまではミリュウにとってもっとも大切なものとなりつつあった。
奇妙なことだ。
不思議で、おかしなことだ。
だが、それでもいいと思えた。
「あれを一緒に戦ったかといわれると、正直判断が難しいところではございますがね。俺の人生の転機は、間違いなくセツナ様方との出遭いですわ」
「……そう」
(あたしの人生に転機なんて訪れはしない。あたしはいつだって、あなたに運命を支配されている)
ミリュウは、ルシオンの白聖騎士隊が龍鱗軍に突撃するのを見計らって馬を操り、隊列から離れた。ザルワーン軍は、白聖騎士隊の大攻勢に目を奪われている。
一騎、戦場を離脱し、龍府に向かっているのを目撃したとしても、ザルワーン軍にはどうすることもできないだろう。兵力が圧倒的に足りないのだ。龍府に向かう一騎のために部隊を割くことはできまい。
それが狙いだ。