第三百七十三話 龍府を巡る攻防(三)
「地に満ちたるは雲霞の如き敵兵。士気は高く、陣容にも隙は見えず――か。どう思われる?」
部隊長のひとりが、伝令兵の寄越した書簡を開くなり、同僚たちに問いかけた。神経質なまなざしが、狭い室内の隅々までを見透かすかのように煌めく。鋭い視線だ。まるで暗中で獲物を探す野生動物のようでもある。
(どうもこうもないだろ)
ミルディ=ハボックは、覚めた目で部隊長たちの顔を見ていた。だれもかれも冴えない顔をしている。前線から遠のきすぎて、戦場の勘を忘れてしまったような顔つきだ。これでは一騎当千の働きを期待することはできない。
もちろん、部隊長に一騎当千の活躍を期待するものなどいないし、ミルディ自身、そんな力があるわけではない。武装召喚師などとは違うのだ。部隊長など、人並みの力を持つ一個人にすぎない。
「奴ら、わたしたちに勝つつもりなのさ」
「だろうねえ。勝てる気がしないもの。まじで」
ミルディは、セーラ・ベルファーラ=ガラムの言葉に同調すると、ヘラヘラと笑った。女部隊長はこちらの態度が気に入らないのか顔を背けたものの、ミルディの関するところではない。
「貴様……! そのような弱気でどうする!」
ミルディに怒気を発してきたのは、書簡を開いている部隊長だ。ジェイド=ヴィザール。龍眼軍第一部隊《天輪》の隊長であり、赤銅色の肌と綺麗に剃髪した頭部が特徴的な大男だ。全部で二十ある部隊の中で第一部隊の隊長であるということが彼の誇りなのだろう。彼は、部隊長が集合するたびに、全員の意思を取り纏めようとした。しかし、部隊長間に位の上下はない。だれもが同じ神将配下の部隊長であり、同僚にすぎないのだ。
だからこそ、ミルディは彼に対しても自分の意見を引っ込めるつもりはない。
「そういうあんたは勝てると思ってんの? この戦力差で、こちらに勝ち目があるとでも考えているのなら、イカれてるとしかいいようがない」
「ミルディ=ハボック! 口が過ぎるぞ!」
「まあまあ、ミルディにはミルディの考え方がありますし……」
「君はミルディに甘すぎる!」
ミルディの正直な感想には、さすがに他の部隊長も顔色を変えたようだ。食って掛かってきたのはソレス=サイラス。ソレスを宥めたのはフォルカ=ミジェット。ほかにもミルディを睨んできた部隊長がいるが、口論したくはないのだろう。彼は胸の前で腕を組んだまま、黙りこんでいた。
もちろん、部隊長が全員揃っているわけではない。二十人の部隊長の内、室内にいるのは半数以下だ。ほとんどの部隊長は持ち場で待機しているはずだし、ミルディたちもこんなところで油を売っている場合ではない。
もっとも、ミルディたちがここにいるのは持ち場が近いこともあったし、ついさっきまでセロス=オード神将の下、益体もない軍議が開かれていたからでもある。
「ミルディ=ハボック。君は悲観的に過ぎるのではないか?」
(あんたらが楽観的に過ぎるんだよ)
吐き出しかけた言葉をぐっと飲み下し、ミルディはジェイドの顔を見た。全身が筋肉でできたような大男は、見た目通りの人物ではない。熱血漢に見えて、理路整然とした思考回路の持ち主であり、故にこそミルディにはやりにくい相手なのだ。ソレスのような激情家なら、御しやすいのだが。
ミルディは、椅子の上で居住まいを正すと、静かに息を吐いた。同僚の視線が自分に集中していることを認識する。
「彼我の戦力差はご存知ですね? こちらは二千人あまり。神将閣下、国主様の供回りを合わせても、百人か二百人増える程度。オリアン=リバイエン様が参戦されるとはいえ、武装召喚師がひとり増えるだけです」
「オリアン様は、あの守護龍を召喚されたお方だ。我らに勝利をもたらしてくれるに違いない」
(盲信もそこまで行けば気持ちいいだろうよ)
「オリアン様個人の戦力を五百と計算しても、二千七百。多く見積もって、それだけです。対するガンディアは総勢七千を超す大軍です。ルシオンは尚武の国として知られ、白聖騎士隊も精強極まりない。ミオンの突撃将軍ギルバート=ハーディの騎兵隊も勇壮ですし、《蒼き風》と《白き盾》といった傭兵たちも脅威となります。ガンディア軍そのものは障害ですらありませんが、武装召喚師の存在は無視できません」
「セツナ=カミヤとクオン=カミヤはいないのだろう?」
「ふたりの武装召喚師がいない。ただそれだけのことです。ふたりがいれば、こちらの勝算は完全になくなっていたでしょうが、いなかったとして、それほど大きな違いがあるようには思えませんよ。無敵の盾がなくとも、七千の兵が分厚い壁になる。最強の矛がなくとも、多数の武装召喚師に勇猛な戦士がいるのですから」
「……それで、おまえはどうするというのだ? 尻尾を巻いて逃げるか?」
「まさか」
ミルディはソレスの発言を内心嘲笑った。
「戦いますよ。当然でしょう。わたしはザルワーンの軍人ですよ。この国に生まれたんです。この国のために戦うのは、当たり前のことです」
「だったらなぜ、我々の士気を下げるようなことをいうのだ」
(この程度で下がるような士気なら、ないのも同じだろうに)
ミルディは、胸中で吐き捨てると、ジェイドを見据えた。彼のぎょろりとした目玉は、火の玉のように強い力がある。精気が漲っているのだ。
「死ぬとわかっていて戦うのを潔しとは思わない、ただそれだけのことです。戦うのならば、勝たなくては意味がない。死ぬために戦うなんて、馬鹿馬鹿しいじゃないですか」
「我々も死ぬつもりはないぞ。勝てるのだからな」
「楽観論で現状を誤魔化しても、どうなるものでもありませんよ。戦力差は絶大。龍府に籠城しようにも、援軍の来ない籠城に意味などあるはずもない」
「うっ……」
ソレスが言葉に詰まるのを見て、彼はため息を付きたくなった。ソレスのような考えなしが同僚だとは考えたくもない。武勇だけで一兵卒から小隊長、部隊長へと引き立てられたものはソレス以外にもいるのだが、彼ほど凝り固まった頭の持ち主は少ない。ソレスの武勇を否定するつもりはない。彼の膂力はミルディを軽く上回る。龍眼軍において特記戦力として数えられる部隊長のひとりだ。難点なのはその直情的な性格と、思考回路くらいなのだ。
「彼のいう通りだ。どれだけ言葉で取り繕おうとも、彼我の戦力差を覆せるものではない」
突如として室内に響いたのは、オリアン=リバイエンの声だった。軽薄な音色が耳障りだったが、ミルディは緊張とともに表情を強張らせた。
(いつの間に?)
「オ、オリアン様?」
ジェイドの上擦った声を聞きながら椅子から腰を浮かせたミルディは、即座にオリアンに向き直って直立した。身に染み付いた奴隷根性とでもいうべきか。リバイエン家当主を前にすれば、龍眼軍部隊長もただの小市民に立ち戻ってしまう。無意識に敬礼している自分に気づくが、舌打ちも出ない。(これが俺だ。俺たちだ。どれだけ言葉で取り繕ったところで、目の前の現実を覆せるわけじゃない)
通路の奥から進んでくるオリアン=リバイエンの姿を視界に収めながら、ミルディは胸中でつぶやいた。オリアンの言葉が、そっくりそのまま自分に突き刺さる。龍眼軍部隊長。かつては五竜氏族の血縁者で固められた階級も、ミレルバス政権になってからは一般の実力者たちから選出されるようになった。ザルワーンは変わった。これからも変革は続いていく。国民にとって素晴らしい未来が待っている。ミルディたちはそう信じたし、そのために全霊で戦ってきた。
しかし、現実はどうだ。
五竜氏族に名を連ねる男ひとりの声を聞くだけで緊張し、硬直してしまっている。
(ザルワーンが変わっても、俺達はあんたらの奴隷なんだろうな)
支配階級と被支配階級。
何百年も積み重ねられてきた歴史が、呪縛となってミルディたちの身も心も支配している。ミレルバスの手によってザルワーンの改革が進もうとも、魂に染み付いたものが消え去ることはあるまい。消え去るとしても、何世代も先のことになるのではないか。