第三百七十一話 龍府を巡る攻防(一)
九月二十七日。
その日、空は濡れたような青さで塗り潰されていた。
雲ひとつ見当たらない快晴であり、空を渡る鳥の影さえなかった。吹き抜ける風は穏やかで、暖かな日光が平穏な世界を演出している。とても戦場とは思えないような空気感の中で、それでもだれもが緊張を覚えざるを得ない。
前方には、堅牢な龍府の城壁と城門が聳えていた。ただの一度たりとも戦争を経験したことのない古都は、分厚くも長大な城壁で護られているのだ。龍府を中心とする重厚な防衛線を張り巡らせているものの、それだけでは物足りないとでもいわんばかりだ。これまでガンディアの各軍が攻略してきたどの都市よりも強固な城壁は、龍府がザルワーンの中心であることをまざまざと見せつけるようであり、同時に、この城壁を突破し、龍府を制圧せしめればガンディアの勝利が確定するのだと思わせた。
ガンディア軍は、龍府の南方――城門が目視できる距離に陣取り、部隊の展開を始めていた。
二十七日である。ガンディア軍がヴリディア南方に築いた野営地を進発したのが、二十六日未明のことだ。ドラゴンを釘付けにするための先発部隊が出撃して間もなく、本隊であるガンディアの全軍が出発した。二十六日正午過ぎ、本隊の先頭部隊がヴリディアに到達。セツナ・ゼノン=カミヤとクオン=カミヤの援護により、ドラゴンの攻撃をものともせずにヴリディアを通過。五方防護陣の突破に成功したのだ。先頭部隊がドラゴンの射程範囲を脱して数時間もかからないうちに、最後尾の部隊の突破を確認。全軍が安全圏に到達するころには日が暮れた。道幅の広い街道だったとはいえ、全軍で並走できるはずもない。
夜が明けるころ、龍府が見えてきた。そして、龍府南方に全軍が集結し、野営地の軍議で定めた通りに部隊を展開しはじめたのが、ついさっきのことだ。
「兵にも馬にも疲労が見えていますね」
馬を降りたレオンガンドに声をかけてきたのは、ナージュだった。ナージュ・ジール=レマニフラ。小国家群南方の国レマニフラの姫君であり、レオンガンドの同盟者にして婚約者という立場にある。南方人らしい褐色の肌と艶やかな黒髪を持つ美女で、いつも穏やかな微笑を湛える様子は、レオンガンドにとっては一服の清涼剤に等しい。
彼女には常に三人の侍女が付き従っていて、いまもナージュの背後に控えていた。侍女たちが珍しく武装しているのは、いざというときに姫の身を護るためだろう。ナージュでさえ、軽装の鎧を纏っていた。褐色の肌が映える銀の鎧。ゼオルへの退避を拒む彼女のために、レオンガンドが急いで用意させたものだが、鎧を着込み、武装した侍女を従えるナージュの姿は画になった。
レオンガンドは兜を脱ぐと、傍らの侍従に手渡した。行軍中、ずっと身につけていたものだから、汗がこぼれ落ちた。夏が終わり、つぎの季節が始まろうとしているのだが、一日中鎧兜を身に纏っていれば大量の汗をかくのも当然だろう。
「仕方のない事です。そうでもしなければ、あのドラゴンの攻撃に晒されていたかもしれない」
ガンディア軍は、ほとんど休憩もなく駆け続け、二日以上はかかる距離をたった一日足らずで走破したのだ。兵馬に多大な疲労が蓄積されるのは、当初からわかっていたことだ。疲労の管理はどうするべきか、軍議において何度となく議題として取り上げられたことでもある。
疲労を減らすために休息を多く挟むべきか、それとも、クオンの負担を少しでも減らすために急ぐべきか。
前者ならば、クオンが維持の限界を迎えた瞬間、ガンディア軍は終わる。ドラゴンの猛攻に曝され、壊滅するだろう。
後者ならば、どうだ。クオンの負担を減らすということは、本隊のヴリディア突破後の戦いにも好影響を与えるのではないか。
セツナとクオンは、少なくとも、本隊が龍府に到達するまではドラゴンの楔として現地に残ってもらわなければならないのだ。全軍が、安全圏と想定した地点に達するとともにセツナたちもヴリディアから離れることになれば、ドラゴンはセツナたちを追撃するだけでなく、本隊にまで牙を剥くかもしれない。
予測した射程範囲など、必ずしもあてになるものではない。安全圏と思っていた地点に攻撃が飛んでくる可能性も捨てきれない。ならば、セツナとクオンにドラゴンの注意を引き付けてもらっておくべきなのだ。そうなればセツナたちがドラゴンの苛烈な攻撃に曝されることになるが、無敵の盾が持続している間は、彼らに害が及ぶこともない。
そう順序立てて考えたとき、後者を選択するしかなかった。
ドラゴンの予測射程範囲からいち早く脱出し、守護領域を維持しているクオンの負担を減らす。そのためには、悠長に休んでいることはできなかった。もちろん、休みなく駆け続けることは不可能に近い。人間も軍馬も、そのようにはできていないのだ。時に走り、時に休み、それでも全速力の行軍は、予想より早く、ガンディア軍を龍府目前まで辿り着かせた。
「非難しているわけではありませんわ」
「わかっていますよ。龍府への攻撃はすぐに行うわけではありません。部隊配置が終われば、少しは休めるでしょう」
「それはよかった。状況が状況ならすぐにでも炊き出しの用意を致しますのに」
ナージュの穏やかな声は、レオンガンドの心を落ち着かせてくれるような響きがある。彼は自分がむきになっていたのではないかと反省しつつも、気が立っていたのも無理はないとも思うのだった。
ほとんど一日中、軍馬に揺られていたのだ。足腰への負担は大きく、いま現在、ナージュと向い合って立っていることすら辛かった。そんなことを兵士たちにいえば笑われるか呆れられるのかもしれないが、いくら日頃から鍛えているとはいえ、政務に追われる国王と根っからの軍人では体の鍛え方が違うのは当然の話だ。
疲労だけが問題ではない。
決戦を目前に控えたガンディアの本陣の空気は張り詰め、私語のひとつも口にできないような雰囲気に包まれていた。だれもが耳を澄まし、ちょっとした物音にさえ反応する始末である。レオンガンドが冷静さを見失うのも無理からぬことだった。
そんな中でも気ままに振る舞うナージュの存在は、レオンガンドにはありがたいことこの上なかった。無論、ナージュが場の空気を壊さないように配慮しているのがわかるからこそ、レオンガンドも彼女を受け入れるのだ。彼女がもし、状況を弁えもしない人物ならば、無理矢理にでも後方に追いやっている。
「ひとつ、うかがってもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「……もし、ザルワーンが降伏を願い出てきたら、どうされるのです?」
「もちろん、受け入れますよ。我々とて、無駄な流血は避けたいのです。彼らが降伏を申し出てくれるのなら、それに越したことはない」
レオンガンドは、静かに応えながら、進行方向に向き直った。ガンディア軍に属する将兵が、龍府南方の平地に蠢いている。雲霞の如き軍勢は、ザルワーンとの最後の戦いを前に緊張しているように見えた。その将兵の群れの向こう側に、龍府の城門があり、城壁があり、壮麗な建造物の影がある。古都と謳われる龍府は、ガンディアの王都よりも歴史的価値のある都市だ。二十年前に見たことの風景は、レオンガンドにとって忘れ得ぬものとなっていた。
できれば、無傷で手に入れたい。が、戦闘になれば、そういうわけにはいかないだろう。建造物、建築物への配慮をして戦え、などとは口が裂けてもいえないし、そんな愚かな命令を下す王の元ではだれも戦いたくはないはずだ。たとえ龍府に歴史的に価値があろうとも、ガンディアの勝利を優先するべきなのだ。
とはいえ、ザルワーン側が降伏してくるというのならそれもいいだろう。無駄な流血を回避することはおろか、龍府を無傷で手に入れることもできる。望むべくもない、最良の結末といっていい。その場合、国主には死んでもらわなければならないが、みずから降伏を願い出てくるというのならば相応の覚悟はしているだろう。大量の血が流れるであろう決戦を回避し、ザルワーンの国民にとってより良い条件を勝ち取るためならば、ミレルバスとて喜んで命を差し出すのではないか。
血は、流れすぎるほどに流れた。
ガンディア側の死者だけで千人を超えている。この戦争の死傷者の数を考えるだけで頭が痛くなってくる。数え切れないほどの人間が傷つき、または倒れた。長い人生の道半ばで命尽きた者達の無念を想うと、胸に迫ってくるものがある。
それでも、やらなくてはならなかったことだ。あのとき、レオンガンドがザルワーン侵攻を決意し、即座に軍を動かさなければ、五年に渡るナーレスの工作が水泡に帰していたのは間違いない。ザルワーンは軍を再編し、強固で、付け入る隙のない組織へと生まれ変わっただろう。
そうなれば、黒き矛を擁するガンディアとて苦戦を強いられたのは疑いようがない。当時のザルワーンには物量があった。グレイ=バルゼルグこそ離反していたものの、それでもガンディアに倍する兵力を有する大国だったのだ。その物量によって多方向から攻めこまれれば、太刀打ち出来なかっただろう。
黒き矛は、ひとりしかいないのだ。