エピローグ(二十七)
風が、頬を撫でるようにして通り過ぎていく。
振り向けば、塚の向こう――遙か水平の彼方まで続く大海原、その海面を淡く波立たせながら吹き抜ける風は穏やかな潮騒を運び、潮の匂いを届けてくれるかのようだ。
神々に祝福された天候のおかげなのか、海の様子も平穏そのものであり、荒れる気配さえ見受けられない。
海に住み、海に生きるものたちも、この終戦記念の日を祝っているのかどうかはまったくわからないが、少なくとも、海を司る神々にとっても喜ばしい一日ではあるのだろう。
そんなことを想いながら、空を仰ぎ、来た道に視線を戻す。
「しっかり祈ったことだし、そろそろ帰りましょうか」
「ということだ、ラグナ」
「なんじゃ、わしは便利な乗り物か!?」
「少なくとも俺の従僕だよな」
「む、むう……正論を突きつけられては、反論のしようがないのう」
渋々といった様子でセツナの頭上から飛び降りたラグナは、一瞬にしてその姿を手のひら大の小飛竜から、セツナたち人間の数倍はあろうかという大飛竜へと変貌させた。
「正論なのか」
「みたいね」
「乗るぞ、ふたりとも」
なにやらぶつぶついっているふたりを尻目に、セツナはそそくさとラグナの背に飛び乗っていた。
ファリアとエリルアルムのふたりがラグナの背に乗ると、翡翠色の飛竜は、その一対の翼を大きく広げた。まるで伸びをするかのように広げきった翼で、力強く虚空を叩く。すると、ラグナの魔力が拡散するとともに周囲の空気が渦を巻き、その巨躯が空高く舞い上がった。
魔力による大気への干渉が浮力を生み、飛行する力をもたらすのだ。
ラグナは、その勢いで空中高く飛び上がると、悠然と蒼空を駆け抜けていった。
「相変わらずいい乗り心地ね、ラグナの背中」
「昼寝にも持って来いなんだぜ」
などといいながらラグナの背中に寝転がると、飛竜の大声が鼓膜に突き刺さった。
「完全に乗り物扱いではないか!」
「まあそう怒るなよ。おまえにしかできないことなんだぜ?」
「む……そういわれれば、そうじゃな。つまり、わしだけの特権というわけじゃな」
「そういうこと」
「ならばよいのじゃ」
さっきまでとは打って変わって明らかに機嫌の良くなった様子のラグナの声を聞いて、セツナは心底安堵した。ラグナの機嫌を損ねるのは、死活問題に繋がるからだ。だからといって、完璧な御機嫌取りをするのも違う。そこまでいくと、ラグナが調子に乗りすぎるという問題が起きるからだ。調子に乗ったラグナほど厄介なものはない。
彼女の機嫌をちょうどいい塩梅で維持することに細心の注意を払わなければならない。
もちろんそれは、彼女だけの話ではないのだが。
「いいのか」
「いいのよ。ラグナが喜んでいるんだから」
セツナとラグナの会話になんともいえない顔をするエリルアルムに対し、ファリアはいかにも手慣れた様子だった。それはそうだろう。エリルアルムよりも、ファリアのほうがラグナとの付き合いは長い。
それに、いまや家族同然の間柄になったとはいえ、エリルアルムは、ラグナやウルクに対し一歩距離を置いている節があった。
ラグナは竜であり、ウルクは魔晶人形だ。人間ではない彼女たちとどうやって接すればいいのか、いまだ距離感をはかりかねているのかもしれない。
もっとも、それでも当初よりは大分距離が縮んではいるのだ。
そのうち、慣れるだろう。
結局は、慣れの問題なのだ。
「それにしても、本当、ラグナの扱いだけは一流よね、セツナ」
「それじゃあまるでラグナ以外の扱いは駄目みたいじゃないか」
「あら、駄目じゃないの?」
「う……」
ファリアに真っ直ぐに見つめられて、セツナは言葉を飲み込んだ。
そういわれると、反論のしようがない。
ミリュウはまだしも、ほかの女性陣の扱いはどうかというと、まったくもってなっていないのではないか。少なくとも、一流と呼べるほどのものではないことは、間違いない。
そのとき、不意にラグナが長い首を持ち上げるようにした。
「む」
「どうした?」
「空飛ぶ船じゃな」
「空飛ぶ船……?」
ラグナの報告を受けて、セツナたちは顔を見合わせた。
セツナたち常人の視力では、ラグナの視界に映っているのだろう光景は見えなかったし、空飛ぶ船とやらの影も形も見つからなかったからだ。
ラグナの背中から乗り出すようにして前方を見遣るも、同じことだ。雲ひとつない青空が広がっているだけであり、そこには不純物さえ一切存在しないかのようだった。大海原を越え、遙か彼方の大陸まで見通せるのではないかというくらいの好天候。どれだけ見渡しても、なにも見つからない。
「飛翔船ってことか? どこに?」
「おぬしらには見えぬか。やはり人間は人間じゃのう」
「勝ち誇ってないで教えろっての」
「ふふん」
「ウルク曰く、間もなくミドガルド様が御到着なされるそうですので、おそらくはそのことかと」
「そうか……」
それは即ち、ラグナの目に映っているらしい空飛ぶ船というのは、ミドガルド謹製の魔晶船だということになるが、だとすれば不思議ではない。
「って、おい」
なんの前触れもなく話に割り込んできた人物の存在に気づいて振り返れば、真後ろに満面の笑みを浮かべたレムがいた。
彼女は屋敷で洗濯物の取り込みをしていたはずだが、突如としてここに現れることそれそのものにはなんの疑問もない。
ミエンディアの認識改竄の影響によって消滅したはずの彼女は、トワがそのすべての力を費やして結び直した絆によって、四度、この世に舞い戻った。その際、どうやらセツナとレムの絆ともいうべき命の結びつき、魂の契約がより強固なものとなったらしい。
それによってレムは、どれだけ離れている場所にいようとも、己の影からセツナの影へと移動することが可能となってしまったのだ。
「洗濯物はどうしたんだよ」
「全部片付けましてございますよ、御主人様」
彼女は、当然だといわんばかりにいって、微笑む。
あの戦いから三年経とうが、彼女は相も変わらぬ姿であり、十代前半の少女が無理して大人ぶっているように見えなくもなかった。しかし、実年齢は十二分に大人であり、表層からは窺え知れぬ大人の女性としての魅力が内面には充ち満ちている――かもしれない。
相変わらずなのは、容姿だけではない。服装も、昔からほとんど変わっていなかった。多少変化を加えて遊んでいるらしいのだが、服飾に疎いセツナには、どこがどう変わっているのかいまいちわからなかった。
「ですから、御主人様を探しに参った次第なのでございます」
「最近余計酷くなってないか?」
「なにがでござりまする?」
「喋り方だよ、おまえの」
「おほほほほ、気のせいでごじゃりましょう」
「……ぜってー変だよ」
統一性皆無のレムの口調にツッコミを入れるのもこれで何度目なのかという気分になりながら、セツナは進路に視線を戻した。
ラグナとレムの話を総合すれば、ミドガルドの魔晶船がすぐ近くまで来ているのだ。
彼がなにをセツナたちにもたらすのか、気にならないといえば嘘になる。
 




