エピローグ(二十五)
北の大海原を見渡す小高い丘の上に、その小さな塚はある。
かつて共に戦い、命を落としていったものたちのことを忘れないために作られたそれには、セツナたちの祈りや願いが込められている。
もちろん、そんなものは独り善がりに過ぎず、死んでいったものたちにはなんの関係もなければ、届きもしないのだろうが、それはそれとして、あの戦いに決着をつけるためには必要な行為なのだと、彼らは考えていた。
ゆっくりと地上に降り立ったラグナの背中から飛び降りれば、塚はもう目の前だ。
すぐさまラグナが小飛竜態に戻り、セツナの頭の上の定位置に飛び乗ったのは、すぐにでもそうしなければ彼女がかけている五感強化の術が解けてしまうからだ。魔王とは異なり、ラグナは物理的に接触することでしか、そうすることができないのだ。
数秒は、保つ。
でなければ、ラグナから飛び降りるだけで大怪我をする大惨事になりかねない。
ラグナとの接触による魔力供給が途絶えてからどれだけの間五感強化が維持されるのか、などについては、徹底的に調査している。それこそ、ラグナがへとへとに疲れ果てるくらいには、だ。
ラグナのひんやりとした体温を頭頂部に感じながら、正常化したままの五感を確認するでもなく、塚へ向かう。
視界に入ってくるのは、ファリアとエリルアルムの後ろ姿だ。
塚に祈りを捧げるふたりの後ろ姿は、どうにも清廉としていて、話しかけづらいものがあった。
なにを祈っているのだろう。
そんなことを考えながら、話しかけられずにいると、祈りを終えたのか、それとも、こちらの存在に気づいたからなのか、まずファリアが振り返った。
「あら、セツナも祈りを捧げにきたの?」
そういって微笑みを浮かべるファリアは、いつにも増して美しく見えた。蒼穹と蒼海の狭間、降り注ぐ光と照り返る輝きの中で、彼女の青みかかった黒髪がより一層綺麗だったのもあるだろうが、もっとも大きな理由は、要するに贔屓目という奴に違いない。
彼女は、相変わらず髪を腰辺りまで伸ばしており、その髪の色に合わせた色合いの衣服を着ることが多かった。今日も、そんな彩りだ。故に、空と海の景色に溶け込むようであり、まるで風景画の一部のような、そんな印象さえ受けた。
この二年間での彼女自身の在り様の変化が、そんな印象を与える力となっているのは間違いない。
「ほう、めずらしいこともあるものだ」
とは、エリルアルム。
ファリアに倣うようにしてこちらを振り返った彼女は、以前より遙かに柔らかくなった表情でセツナを見つめていた。エトセアの王女にして戦士である彼女の大柄な体躯そのものも、戦場から遠く離れたこともあってなのか、大分痩せてきている。それでも一流の戦士以上に戦えるだろうし、いまでもその技量は衰えてはいない。
ただ、必要以上に鍛えることはしなくなった、というだけのことだ。
その点は、セツナたちも変わらなかった。
積極的に戦う必要がなくなった以上、余計な力も不要となったのだ。自分たちの身を守ることさえできればよく、そのためには、召喚武装が扱えなくなるような事態にさえならなければいい。
必要最低限の鍛錬で十分だったし、鍛錬に無駄な時間を費やすのであれば、自給自足が基本となる生活に役立つことをするべきだ、というのが、セツナたちの根本的な考え方なのだ。
「そこまでか?」
「魔王らしくはないのう」
セツナの疑問にラグナが小さく笑った。
「そりゃそうかもしれんが」
「それをいうなら、わたしたちもらしくないわよ」
ファリアが当然のように指摘してくる。
「なんといっても、わたしたちは魔王の寵姫なんですもの」
「……わたしまで寵姫と呼ばれるのはどうかと想うがな」
照れくさそうに苦笑するエリルアルムだったが、そんな彼女を見つめるファリアの横顔は優しい。
「いいじゃない。エリルだって、魔王再臨の共犯者で共謀者で世界の大敵なのよ。そうなってしまった以上、魔王陛下に生涯の面倒を見て頂かなくては。ねえ、魔王様もそう想うでしょう?」
「ああ……そうだな」
ファリアが恭しくも当たり前のように同意を求めてきたが、セツナは、彼女の軽口のように聞こえなくもない本音をもちろん肯定した。
それは、そうだろう。
彼女たちが必死になってくれたからこそ、セツナは、いま、ここにいられるのだ。
ファリア、ルウファ、ミリュウ、レム、シーラ、エスク、ラグナ、ウルク、エリナ、エリルアルム、そして、トワ――。
彼女たちがいて、彼女たちが力を合わせ、一年に渡る研究と実験、鍛錬と研鑽の末、やっとの想いで完成したのが、セツナの救出方法であり、イルス・ヴァレから異空の果てへと至る手段だった。
その結果、魔王再臨というイルス・ヴァレの天地を揺るがし、混乱と恐怖を撒き散らす大事件を引き起こしたのだ。
当然、そんな大事件を引き起こしたものたちの居場所など、この世界のどこにもあろうはずもない。
ルウファたちのように溶け込むのであればまだしも、セツナとともにいるという、自分たちが原因であると公言したも同然の動きを見せた彼女たちに対し、世界は、決して優しくは振る舞わない。
故に、セツナは、告げるのだ。
「面倒見させてもらうとも。いつまでだってな」
万感を込めて、宣言する。
この場にいる彼女たちだけではない。
ミリュウたちも全員、だ。
そうしなければ、ならない。
それが彼女たちの望む幸福というのであれば、それが、彼女たちが命を懸けた理由だというのであれば、それが、トワの導き出した未来の光景だというのであれば、そしてそれが、セツナ自身の幸福なのだから。
「そこまではっきりいわれると、なんだか照れるわね」
「まったく、魔王様もひとが悪い」
「俺のせいか?」
「そうじゃな。まったくじゃ」
「なんでそうなんだよ」
なにやら照れくさそうにはにかんで見せたファリアたちだが、その意見は一致しており、セツナの付け入る隙はなさそうだった。
「そうだわ」
ファリアが名案でも思いついたかのように口を開く。
「せっかくここまで来たんだし、セツナも祈っていったら?」
「……そうだな」
ファリアに促されて、セツナは塚に歩み寄った。
セツナたちが祈りと願いを込めて立てた塚。祈りの塚とも願いの塚ともいう。一見、ただの石碑のようなそれには、セツナたちの祈りや願いが深々と刻まれている。
あの日を忘れないように。
もう二度と、あのような出来事が起きないように。
祈り、願い、望み、信じるように。
つまり、必要な祈りは、すべて塚に記されているということだ。
では、今日はなにを祈るべきか。