エピローグ(十八)
晴れやかな青空の下、広々とした原っぱが横たわっている。
およそ二年前、終の棲家を探し回った挙げ句、やっとの想いでこの島を見つけたときには、数年間、完全な無人島だったということもあり、まったくひとの手が入っていない状態だった。つまり、ヴァーシュ島全域が自然のなすがままになっていたということだ。
もっとも、その自然も、緑豊かな土地は島の半分くらいであり、残り半分は神威に毒され、侵蝕されていた。結晶化だ。森や大地が結晶化した光景は、美しくも殺風景であり、死の世界といった有り様だった。実際、結晶化した地域は、死んでいるのと同じであり、そこには生命の息吹きも生物の気配も存在しない。
そのまま侵蝕が進み、島全土が結晶化するようなことがあれば、セツナたちもこの島を去らなければならなくなるだろう。
が、いまのところ、その心配はなかった。
結晶化は島の半ばにまで至ったところで止まっており、セツナたちの生活圏を脅かすことはなさそうだった。
今後、イルス・ヴァレに神威が満ち溢れるようなことがあれば、再び結晶化が始まるのだろうが、そうなる可能性は低い。
世界は、変わったのだ。
戦後、イルス・ヴァレの住民と神々との間で締結された盟約により、神々は、無為に神威を発散することがなくなった。それにより、神威が猛威を振るうことはなくなり、ひとも皇魔も竜も動物も植物も、なにもかもが神威に毒される可能性が激減した。
神人や神獣と化したものたちは、といえば、鳴りを潜めた。
神威に侵され、変容の果てに神の兵と成り果てたものたちは、神に隷属している。神々がその行動を戒めれば、それで済むということだ。
それはつまり、“大破壊”後の神人、神獣などの破壊活動は、神々がそれら神兵を野放しにしていた結果ということになるのだが、そのことに関して言及する声はないのだろう。
また、神兵化の前段階である白化症に苦しむものたちに救いがあったことも、大きい。
救いとは、特効薬だ。
いまや白化症治療の世界的権威となったマリア=スコールが独自の研究の末に開発した白化症治療薬は、改良に改良を重ね、ついに白化した部位の復元をも可能にしたのだ。
白化症――つまり、神威の侵蝕による人体や生体の変容は不可逆的なものであり、変容が始まってしまえば神々でさえ治療は不可能とされていたのだが、マリアの執念は、神々の領域に足を踏み入れ、踏み越えてしまったようだ。
彼女がどのように白化症の特効薬を完成させたのかは、わからない。おそらく死に物狂いの研究を積み重ねた上での成果であろうし、彼女が世界中のひとびと、皇魔、竜や神々から賞賛されているのは当然の結果といえるだろう。
その話を知ったときには、セツナたちも素直に喜んだし、それ以上に驚き、唸ったものだった。だれもがさすがはマリア先生だと感嘆の声をもらし、彼女と喜びを分かち合えないことに哀しみを覚えた。
マリアは、セツナの理解者ではないからだ。
もう二度と逢うことはなく、言葉を交わすこともできなければ、話し合う機会などあろうはずもなかった。
逢いに行こうと想えば、いつでも逢いに行ける。だが、そんなことをしても、マリアとの想い出に深い傷をつけるだけのことになるのもわかりきっているのだ。
セツナの認識は、変わっていない。
凜として美しく、それでいて情熱的な医者であり、セツナたちの大切な仲間だ。
だが、マリアの中のセツナに関する認識は、反転し、ねじ曲がってしまった。彼女は、最低最悪の裏切りに遭い、心に深い傷を負ってしまったのだ。
だから、逢えない。
少し前までのファリアたちならばいくらでも逢えただろうが、いまはもう止めたほうがいいだろう。
ファリアたちもまた、世界の敵になってしまった。
魔王の寵姫たち。
世界は、彼女たちのことをそう呼ぶ。
再臨した魔王の魔力に魅入られた裏切り者たち。
現在、この世界にセツナたちのいられる場所など、ここ以外を置いてほかにはないのだ。
そんなことを考えているうちに、屋敷を随分と離れてしまっていた。
セツナたちが暮らしているのは、島の北側に聳える丘の上だ。
ヴァシュタリア共同体の領土だった頃、シダインの丘と名付けられていたという丘の上に存在する家屋群こそ、セツナたちの屋敷であり、終の棲家ともいうべき場所なのだ。
(曰く、魔王城……か)
あるいは、魔界殿、魔天宮などともいうらしいが、そのような異称は、もちろん、セツナたちがつけたわけではない。この島の様子を監視する神々や竜たちが勝手にそう呼び、世界中に広めてしまったのだ。
魔王セツナとその眷属、あるいは寵姫たちの住処だからこその呼び名なのだが、その呼称から想像される外観からかけ離れているであろう質素な建築物群を知っているからこそ、セツナたちはその異称に多少の気恥ずかしさを覚えたりもした。
だからといって、魔王らしい宮殿を作ろうとは考えないし、そんなことに労力を使うくらいなら、日々の生活のために力を使いたいと想うのがセツナたちだった。
セツナたちは、ほぼ、自給自足の生活を送っている。
幸い、この島の半分ほどは豊かな自然に恵まれており、実りも少なくはない。川や海で魚を釣ることもできるし、山や森で狩りをすることだってできる。そしてセツナたちは、腕っ節に自信のあるものばかりだ。人知を超えた存在との戦いばかり強いられてきたものたちにとって、獣を追い、狩ることなど造作もなかった。
とはいえ、潤沢な自然があらゆる欲を満たしてくれるわけもない。
農場を作り、様々な農作物を育てたりもしている。
最近では、牧場も作ったらどうだろうか、などという意見も出ている。
広い広い丘の上、立ち並ぶの木々の陰でなにやら寝そべって寛いでいる女がいた。
木陰の中でもはっきりとわかるくらいの白髪が特徴といえば、シーラを除いてほかにはいない。
「そんなところでなにしてんだ?」
「新聞読んでんだよ、新聞。見りゃわかんだろ」
手にしていた新聞紙をひらひらと振って見せて、シーラがいった。
それから彼女が座り直したのは、寝そべっている様が行儀悪いと思ったからかもしれない。セツナにしてみれば、どうでもいいことだが、育ちのいい彼女のことだ。人前ではできる限り行儀良くありたいのだろう。
「あれから三年経ったんだってな」
しみじみと、シーラがつぶやく。その発言から、彼女が読んでいた新聞記事の内容がわかった。
「ここにいると、時間の流れなんてどうでもよくなっちまっていけねえ」
「まあ、そうだな……」
確かに、そうかもしれない。
この島に住むようになってからというもの、時間に追われることもなければ、自分たちの助力を必要とするひとたちのことを気にする必要もなくなってしまった。
しかも、この島は、季節による変化が限りなく少ない。
「なんじゃ、おぬしら。わしより年寄り臭くなってきたのではないか?」
「はは、そうかもな」
ラグナの軽い冗談を笑い飛ばしながら、シーラは新聞を食い入るように見ていた。
きっとそこには、いまや触れ得ざるものとなったのだろう、彼女にとっての大切な事物が記事となって掲載されているのだろう。