第三百六十九話 矛と盾(十三)
遥か眼下を軍馬の群れが駆け抜けていく。
荒れ果てた戦場の真っ只中を全速力で突き進んでいく。
まるで濁流のようだった。ひとつの意思によって統制された力の奔流。大地を揺らし、大気を震わせ、ただただ邁進する軍勢。ここは通過点にすぎない。目指すは龍府。ザルワーンの首都。決戦の地。
竜の左肩を足場とするセツナが確認できたのは、戦場を全力で突破しようとするガンディア軍本隊の姿だった。何千もの軍馬と兵士の群れ。馬車が続き、色とりどりの軍旗がはためいていた。旗は、ドラゴンが起こす嵐に煽られているようだったが、実害はない。クオンの守護は完璧に近く機能している。クオンの精神が持続する限り、本隊がドラゴンの攻撃に曝されることはない。
(一先ずは安心だな)
セツナは安堵の息を吐くと、気を引き締め直した。肩から振り落とされないように、その場に屈み、竜の肩を掴んでいる。もちろん、一定時間、同じ場所にいることはできない。ドラゴンの攻撃は苛烈だ。左肩にいれば右腕が、右肩にいれば左手が飛んでくるのだ。ドラゴンの攻撃をかわすには、足場となる部位を転々としなければならなかった。幸いにもドラゴンは巨体だ。足場に困るようなことはなかった。
逃げ回ってばかりでは戦闘とは言い切れないのだが、いまはそれが最善の戦い方だった。精神力、体力の消耗を抑え、あまつさえ体力の回復さえも企んでいる。実際。ドラゴンの腕を切り裂くために消耗した力の半分ほどは回復できていた。ガンディアの本隊がドラゴンの勢力圏を突破する頃には完全に近く回復できているかもしれない。
(それはないか)
黒き矛の維持費を考えれば、五分五分といったところかもしれない。しかし、いまは他に選択肢はなかった。それもこれも、シールドオブメサイアの能力に原因がある。いや、シールドオブメサイアの問題というよりは、ガンディア本隊を無事通過させるという目的のためというほうが正しい。
クオンは、ガンディア軍全軍をドラゴンの勢力圏から通過させる手段として、ドラゴンの勢力圏そのものをシールドオブメサイアの守護領域にしてしまうことにしたのだ。ドラゴンの勢力圏――つまりドラゴンの攻撃が及ぶ範囲に存在するすべてを守護する結界を構築することで、ガンディア軍の行軍に不測の事態が起きても、確実に守り通すことができるという。
途方も無いことだ。
セツナは、クオンにその方法を聞いたとき、想像もつかない規模の大きさに度肝を抜かれたものだ。クオン自身、これだけの規模の守護領域を構築するのは初めてだということであり、不安もあったようだが、彼には、やり遂げてみせるという強い意志があった。ならば、セツナは彼の支援をしなければならない。
クオンの負担を減らすにはどうすればいいのか。
(俺にできること、か)
前方へ走る。竜の左目が光ったのだ。右拳が轟然と飛んでくる。直撃しても痛痒さえ感じないのだが、肩から押し出され、地上まで落下するのだけは避けたかった。またここまで登ってくる必要がある。時間はともかく、体力の消費がもったいない。
時間を稼ぐだけならば、地上にいても問題はない。しかし、ドラゴンの注意を少しでも地上から逸らしたいというのがセツナの思惑だった。もちろん、ドラゴンの五感や知覚範囲はセツナたちのそれとは比較にならないだろうし、セツナを相手にしている間も、クオンや他の動きに気を配っているに違いないのだが、それでもなんとかして注意を引きつけておきたいというのが人情というものだろう。
もしかしたら、クオンの負担を減らせるかもしれない、という淡い期待もある。広大な守護領域の維持の消耗に比べれば微々たるものかもしれないが、なにもしないよりはましだと思いたかった。
逃げ回るしかない最大の理由は、守護領域はその特性上、ドラゴンにも適用されるということだ。敵も味方も区別なく庇護下に置くのが、シールドオブメサイアの守護領域なのだ。
守護する対象を選別するよりも簡単で、維持費も比較的少なく済むのが守護領域の優れた点であり、どうせ本隊が通過するまでは本格的な戦いなどできるはずもないのだから、ドラゴンを守護しても問題はないだろうというクオンの判断に不満もなかった。
無敵の盾を模倣し、さらに本物のシールドオブメサイアに護られた黒白の竜は、難攻不落の城塞よりも余程堅固だった。カオスブリンガーの全力を以ってしても傷つけることは困難であり、盾の防壁を突破するために無駄に力を消耗するくらいなら、ここは逃げの一手で時間を稼ぐ方が正解だろう。
とはいえ、逃げ回っているだけでは、ドラゴンの注意を引きつけておくことは難しい。こちらに攻撃する意思がないとわかれば、ドラゴンとて地上に興味を移すに違いないのだ。
どういうわけか、ドラゴンの殺意は最初からセツナに集中している。クオンには目もくれず、セツナにのみ攻撃を繰り出してきていた。地に降り注いだ打撃はセツナのみ狙ったものだったし、ほかの攻撃もセツナだけを標的としたものだ。もっとも、その攻撃の規模が大きすぎて、クオンを巻き込むことは多々あったが、彼が無事なのは見なくともわかる。無敵の盾は、セツナだけを守護しているわけではない。
それでもクオンに攻撃が向けられるのは好ましくはなかった。シールドオブメサイアが構築した防壁が、矛と盾を模倣したドラゴンの一撃によって破られないとは言い切れないのだ。
(そうだ。絶対なんてありえない)
前進によってかわした拳が後ろから迫ってくるのを認識して、セツナはその場で跳躍した。眼下、漆黒の拳が通り抜けていく。着地と同時に竜の手の甲にしがみつく。盛大に空振った腕を元の位置に戻そうとするのを見越して、再度跳ぶ。竜の鎖骨に飛び乗り、新たな足場としたが、すぐに移動を再開しなければならない。左目は、セツナを凝視している。
重心を落とし、左手で竜の鎖骨を掴む。純白の左半身の表面は滑らかで、磨き抜かれた芸術品のような輝きがある。が、セツナのいまの握力ならば、なんとか掴んでいることができた。もっとも、ドラゴンが急速旋回でもすれば、振り落とされるだろうという妙な自信がある。ドラゴンが激しい動きをしないという前提で、セツナの戦い方は成り立っている。
鎖骨を足場に、セツナは考える。
シールドオブメサイア。無敵の盾。クオンの召喚武装。《白き盾》の象徴たる白き盾。話に聞いたときには信じ難いものがあったが、実感すれば、無敵の盾というのも納得の能力だった。大地を貫くようなドラゴンの攻撃を無力化し、自然災害レベルの攻撃をも無効化してしまった。
(無敵の盾……)
『無敵の盾とはいうけどね、それは、これまで破られたことがないからいえることなんだ』
ここまでの道中、クオンが説明してきたことを思い出す。共闘するのだ。互いの召喚武装について知っておく必要があった。
セツナには最初、躊躇いがあった。手の内を明かすことになるからだ。
《白き盾》は傭兵集団だ。いつかガンディアの敵に回る可能性も捨てきれない。いま、クオンがセツナと共闘しているのは、彼がガンディアと契約を結んでいるからにほかならない。契約が終了すれば、彼らはまた、新たな依頼主を探す旅に出るに違いない。無敵の傭兵集団。引く手数多だ。そこにはガンディアの敵となる国も含まれるだろう。
もし、クオンが敵に回ったとき、黒き矛の能力が知られているのはまずい。クオンを出し抜くことが難しくなるからだ。しかし、いまはそんな将来のことを考えている場合ではないのも事実だった。クオンが能力の詳細を話してくれたのだ。こちらも、それに報いなければならない。
『とはいえ、武装召喚師との戦いでも、シールドオブメサイアの防壁は破られたことはないよ。一度だってね。マナのスターダストの爆撃にも耐え抜いたんだ。並大抵の攻撃ではびくともしないのは事実』
彼は自信を持って告げてきたものだ。スターダストがどんな召喚武装なのかは知りようもなかったが、とにかく、召喚武装という強力な兵器の攻撃にも耐え抜いてきたということだけは理解できたし、いまとなっては実感としてわかる。
ドラゴンの攻撃をものともしない防壁を展開している限り、まさに敵は無く、敗けることもありえ無かったのだろう。
『……これまではそうだった。でも、ドラゴンが君の矛を模倣すればどうなるかな。カオスブリンガーの性質を模倣するということは、その破壊力も再現するということだろう?』
黒き矛の破壊力については、セツナが一番良く知っている。もちろん、黒き矛自身を除いて、だが。
カオスブリンガーは最初に手にした時以来、まさしく圧倒的といっていい力を誇っていた。どんな戦場でも、どんな敵を相手にしても、セツナに強力無比な力を与えてくれた。鉄の鎧も人体もろとも紙切れのように切り裂き、強固な城門も打ち砕いた。それでさえ、すべての力を出し切っているわけではないのだ。
セツナは黒き矛を使いこなせてはいないのだと、ミリュウとの戦闘で思い知った。もっと強力な兵器となりうる可能性を秘めているのだ。
クオンはこうもいった。
『物事に絶対なんてないんだ。絶対無敵の盾なんて存在しないんだよ。シールドオブメサイアが無敵でいられたのは、それだけの敵に遭遇しなかったからなんだよ』
ミリュウでも、セツナでも引き出しきれなかった力ではあるが、ドラゴンならば、すべてを引き出しうるのかもしれない。そうなったとき、無敵の盾は無敵でいられるものかどうか。
(せめて、全軍が通過するまでは無敵でいてくれよ)
セツナは胸中でつぶやくと、鎖骨の上に立った。黒き矛を振り被り、遙か頭上の竜の左目に向かって投げつける。黒き矛は、想像していたよりもずっと早く虚空を飛翔し、竜の左目に到達する。が、見えざる障壁に弾かれ、落ちていった。
竜は目だけで冷笑してきた。武装召喚師がみずから召喚武装を手放すという行動に対して、だろう。自暴自棄になったとしか思えない行動に違いないし、意味があるはずもない。セツナ自身、ものは試しと投げてみただけだ。
強烈な脱力感に苛まれたのは、召喚武装を手放したからにほかならない。消耗したわけではないが、似たような感覚を抱く。
「笑うなよ。笑いたいのはこっちなんだ」
告げて、地上に落下中であろう黒き矛を送還する。そして、再召喚のために呪文の末尾を口にした。
「武装召喚」
全身が光に包まれるいつもの感覚に目を細める。不満げな声が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。召喚武装は意思を持つが、声を発することはない。少なくとも現実世界では、彼らが自己主張してきたことはない。
(よな?)
自信なげに自問しながら、セツナは光の中から出現した黒き矛を握りしめた。
今度は、竜が目を細める番だった。