表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/3726

第三十六話 王都の朝に

「えーと……」

 セツナは、意識の覚醒に促されるようにして瞼を抉じ開けたとき、ファリアの安らかな寝顔が網膜に飛び込んできたことに驚きを禁じえなかったものの、精神的疲労によるものなのか、大袈裟な反応を取ることはなかった。むしろ、冷静に困惑する。

 どうやらセツナは寝台の上に寝かされているようだった。いつかのことが脳裏に浮かぶ。カランでのテント生活のことである。あのときはとても質が良いとはいえないながらも、清潔感が保たれた寝具のおかげでそれなりに快適であったのだ。

 そして、今回のベッドは、なにやら高級感の漂うものであり、上質なシーツとスプリングの利いた寝台は、カランのものと比べるまでも無かった。さながら高級ホテルに泊まっているかのような錯覚を抱くのは、なにも寝台や寝具だけのせいではない。

 室内全体を覆う雰囲気そのものが、高級感に溢れていた。もっとも、セツナの視線は、 ファリア=ベルファリアの寝顔に注がれたままであり、室内を確認することは叶わなかったが。

 彼女は、無論、セツナの隣に寝ているわけではない。角度からしてそうである。どうやら、ベッドの横に置いた椅子に座ったまま眠りに落ちたらしい。そしてベッドに突っ伏したのだろう。

 優しい寝顔だった。青黒い頭髪に健康的な白さを持つ素肌、細い眉の形は綺麗に整えられている。閉じられた瞼の縁を彩る睫も薄くは無い。鼻筋は通り、目鼻立ちは整っているといえるだろう。眼鏡は外されていた。ふと考えると、セツナが眼鏡を外したファリアの素顔を見るのは初めてだったかもしれない。

 不意に彼の胸が高鳴ったのは、彼の視線がファリアの唇を捉えたからかもしれない。一見してその柔らかさが伺える唇の女性的な形状は、セツナの意識を刺激してやまなかった。すぐさま吸い付きたいとか、そういうことではない。単純に、色恋に関する経験の浅いセツナにとっては刺激的に過ぎたのだ。

(なにを考えてるんだ……俺は!)

 煩悩が鎌首をもたげてきたのを否定することはできないものの、彼は、頭を振ることで脳内から邪念を消し去ろうとした。が、それが仇となったのか。

(おうふっ)

 セツナが視線を移した先にあったのは、さらに刺激的な光景だった。つまりは、彼女の衣服の胸元から覗く谷間である。ファリアがラフな格好をしているせいなのか、その女性的なふたつの隆起はいつにも増して強調されていた。

 凝視せざるを得ない。

 それは、青少年としての当然の反応だろう。

(だれに対して言い訳してんだ、俺は)

 と、セツナが自嘲気味につぶやいて理性を取り戻したのは、その肉感的で悩ましげな物体を認識してから数分後のことであった。

(しかし……)

 セツナは、改めてファリアの寝姿を見つめた。あまりに無防備なその姿は、一介の青少年からすれば極めて刺激的であり、並の男ならば自制心さえも失いかねないかもしれない。谷間を凝視するだけに踏み止まることができたのは、セツナにしては上出来だった。

 嘆息する。

(なんだよ、この状況)

 ため息ついでに視線を移したセツナは、そこでようやく、室内を見回すことにした。そのとき、不意に鼻腔をくすぐった花の香りは、ファリアからのものなのかどうか。柔らかく包み込むような香りは、彼女に良く似合ってはいたが。

 広い部屋だった。そして、豪奢な部屋であった。ベッドの感触から抱いた高級ホテルという感想は、あながち的外れというわけでもないのかもしれない。

 上質そうな調度品が並び、壁にかけられた絵画にも気品があった。わずかに開けられた窓から入り込む風に揺れるカーテンさえも、庶民には手の出しようがないほどのものなのかもしれないという妄想が働く。床一面を銀獅子の絨毯が覆っており、セツナの寝ているベッドはその上に置かれていた。

 ベッドは、部屋の片隅に位置している。窓際。微風に揺れる淡い青のカーテンが、窓の向こうに広がる空の青さを助長するようであり、さっきまでの懊悩が嘘のように消えてなくなっていった。それはまるで、遥か彼方の青空が、セツナの意気を吸い上げてしまったかのようだった。

「ここ、どこだろ」

 セツナは、茫然とした。記憶が判然としない。いや、戦いの細部まで覚えてはいるのだ。いつ戦いが始まり、どうやって終わったのか。その間の出来事も、セツナの知りうる限りのことは記憶の中にあった。

 しかし、そのあとのことがまったく思い出せなかった。

 具体的に言えば、ログナー軍の殿を殲滅してからのことだが。

「ここはガンディオン。ガンディア最大の都市にして王都よ」

 ファリアの台詞に、セツナははっとした。そちらを振り返ると、ファリアが、寝台のシーツからみずからの顔を引き剥がすかのようにして起き上がるところだった。

「おはよう。目覚めの気分はいかが?」

 ファリアの上体を起こすなりの一言に、セツナは、即答で応じた。彼女の胸が大袈裟に揺れたのは、なんとかして黙殺する。

「おはよう。悪くはないよ。ガンディオン?」

 上体を起こす。ベッドの上と椅子の上。目線の高さはそれほど変わらないだろう。

「うん、悪くないならよろしい。そ、ガンディオン」

 ファリアはにこやかな表情だった。彼女は寝起きが良いほうなのだろうか。だとしても、起きて早々、奇妙なテンションだと思わざるを得ない。ふと、セツナにひとつの疑念が過ぎった。それは、口に出すだけでとても恐ろしいことだった。しかし、彼女の愉快な正確から考えれば、可能性のない話ではない。

「ひとつ聞いていいか?」

「なによ? 改まって」

 不思議そうな顔をするファリアに、セツナは、おずおずと尋ねた。

「もしかして、ずっと起きてたのか?」

「さっきまで寝てたわよ」

 ファリアが憮然としたのは、あまりにくだらない質問だったからかもしれない。セツナは、ほっと胸を撫で下ろす傍ら、自分の愚かさを少しだけ恥じた。そんなこと、尋ねるまでもなかったのだ。

「そっか」

「なんか胸元に熱量を感じたけど、あれは夢よね」

(うう……)

 こちらの心理状態を見透かしたかのような追い討ちに、セツナは、胸中でうめくしかなかった。彼女は彼女で、意味ありげな表情をするでもなく、ただことさらに不思議そうに自分の胸元を見下ろしていたのだが。

「それだけ?」

「いやいや、ガンディオンって? バルサー要塞は?」

「要塞は奪還したじゃない。覚えてないの?」

「そうじゃなくて、放っておいていいのか?」

 問い返しつつも、セツナは、脳裏で首を捻った。バルサー要塞は奪還できたのか、どうか。少なくとも、ログナー軍を撤退にまで追い込んだことは確実だった。そのために数百人の兵士が殿――というよりは、スケープゴートとでもいうべきかもしれない――として戦場に残り、セツナと黒き矛によってその命を蹂躙されたのだ。

 彼女の言い様から察するに、要塞は奪還したのだろう。では、ログナー軍はどこへ逃げたのだろう。要塞に逃げ込む前にガンディア軍に蹴散らされたのだろうか。

(それはない……か)

 ログナーの殿を殲滅したあとのガンディアの兵士たちを思い返せば、一目瞭然である。遠巻きにこちらを見ていることしかできない連中が、撤退中とはいえ、実力で勝るログナー軍を攻め滅ぼせるとは到底思えなかった。

 ならば、要塞を捨てて本国に帰ったのだろうか。理由はわからないが、それが一番しっくりくるかもしれない。

「まさか。アルガザード将軍と千五百名の兵が要塞に残ったのよ。ま、牽制よね。今回の戦いで、ログナーはかなりの痛手を負ったもの。即座に軍を再編して打って出てくる、なんてことはないでしょうし」

「ふうん。で、陛下は? それと団長たちのことも教えてくれ」

「質問多すぎ。ま、君は寝てたから仕方ないか。陛下は、わたしたちと一緒にガンディオンに戻られたわ。まあ、そのときの歓迎っぷりたら物凄かったのよ? セツナも起きてたら、きっと感動したわね」

「そ、そうなのか……」

 セツナは、ファリアの嬉々とした様子に落胆を禁じえなかった。パレードのようなものがあったのかもしれない。紙吹雪も舞っていただろう。歓声や嬌声が飛び交ってもいたかもしれない。道という道を、ガンディオンの人々が埋め尽くしていたのだろう。レオンガンドの優美な姿は、とてつもなく絵になったに違いない。音楽隊の奏でる旋律が、兵士たちの心に勝利の歓喜を植えつけたのなら、それはきっと素晴らしいことだが。

 脳内妄想から帰還したセツナは、目の前の女性が、結構うらやましくなったのだった。そして、気を失った自分がとてつもなく恨めしい。悔やんでも悔やみきれない。王都への凱旋など、そうそうあるものでもないような気がしたのだ。

「それはそうよ。ガンディアのうつけという汚名を返上した上に、バルサー要塞を取り戻したことでガンディオンの護りは磐石になったもの。バルサー要塞のみならず、マルダールさえもログナーの手に落ちたとしたら、喉元に牙を突き立てられたようなものでしょ?」

「まあ、そうかな」

「ガンディオンの人々は不安が払拭されたことで、陛下を歓迎する気になったんでしょうね。だからといって、すぐさま支持が得られるわけでも、人望が集まるわけでもないけど」

 やれやれ、とでも言いたげなファリアの様子に、セツナは、腕を組んだ。眉根を寄せる。

「なんつーか……よくわからん」

「君には関係のない話だもの。わたしにも関係のないことだけど」

「いや、そもそも、なんで陛下はそんなに嫌われてるんだ?」

「それは……本人に聞くのが一番じゃないかしら?」

 そう言って微笑するファリアに、セツナは、ただ茫然とした。

「えっ……?」

 そして、素顔の彼女の微笑が、いつも以上に素敵だという事実に気づき、愕然とする。気づくのが遅すぎたのだとすれば、それは、セツナが話に夢中だったからに他ならない。知りたいこと、知るべきことがあれば、そちらに意識が集中するのは当然だろう。

 その集中力が常に発揮されるわけでもないのが、悲しいところだが。

「陛下がご自身の置かれている状況を一番理解しているでしょうし、ね。陛下も君に会いたがっていたもの」

「俺なんかが王様と会うなんて、簡単にできるものかよ」

 とはいったものの、セツナは、つい最近まで平然と王様と会話していたことを思い出していた。しかし、あれはたまたま偶然街中で出逢ったからであり、普通ならば考えられないことだった。事実、マルダールから戦場へと出発してから、一言たりとも言葉を交わす機会などなかった。

 それが普通なのだ。

「ま、それもそうね。でも、機会はすぐに訪れそうだけど」

「……?」

 意味ありげに笑うファリアに、セツナは怪訝な表情を返すのみだった。

 こちらの反応を知ってか知らずか、ファリアは、淡々と続けてきた。

「《蒼き風》の人たちは、しばらくバルサー要塞に留まるって言ってたわね。契約の延長がどうとか」

「そうなのか……」

「あら、気に入ったの? あの人たち」

「そりゃあ、一緒に戦った仲間だし……」

 肩を落とすセツナの脳裏に浮かんだのは、豪快に笑うシグルド=フォリアーの野生的な面構えであり、ジン=クレールの理知的な横顔、ルクス=ヴェインの剣鬼としての姿であった。彼らは強く、そして、どことなく朗らかだった。とても歴戦の猛者には見えない。いや、シグルドは見た目からして豪傑そのものだったか。

「仲間……ね」

 ファリアの憂いを帯びた一言に、セツナはきょとんとした。

「なに?」

「彼らは傭兵よ?」

「それは知ってる」

 当たり前のことを言われて、セツナは憮然とした。そんなことは言われなくてもわかっていることだ。だが、だからなんだというのだろう。

「つまり、君の敵になる可能性も十分にあるってことよ。仲良くなりすぎると、後々辛いわよ」

 冷ややかな声音だった。しかし、こちらのことを心配しての忠告だということは、そのまなざしから痛いほどわかった。だからこそ、セツナは、不意に彼女が椅子から立ち上がったことに驚いたのだ。

「先生、呼んでくるわ。君の意識が戻ったら呼ぶように言われているのよ」

 そう言って部屋を後にしようとするファリアの背中は、なぜかとてつもなく寂しげに見えた。

 セツナは、いますぐベッドから飛び降りて、彼女を抱きしめてやりたくなった。しかし、それをすれば、なにもかもすべてが崩れ落ちてしまうような気もした。だから、口を開いたのだ。

「ファリアも?」

「ん?」

 こちらを振り返ったファリアの横顔が、息を飲むほど美しかった。声が詰まる。言うべき言葉を一瞬見失って、セツナは狼狽した。彼女が再び歩き出そうとするのを見て、彼は慌てて言葉を捜した。空中でばらばらになった言葉を元に戻すのは、思った以上に難解だった。

 空気を求めて、喘ぐ。

 微風に揺れるカーテンの音だけが、その間を埋めた。

「ファリアもいつか、俺の敵になったりするのかな?」

 セツナの問いが空中に浮かび、静かな波紋となって広がっていく。今尋ねるようなことではなかったのかもしれない。しかし、それ以外の言葉でファリアの意識に触れることなどできないような気がした。

 いや、そもそも彼女の意識に触れようなどと考えるのがおこがましいのだ。だが、それでも、セツナは問いかけずにはいられなかったのだ。

 もはや衝動に過ぎない。

 そして。

「……なに言ってるの? セツナって、馬鹿? ひょっとして馬鹿?」

 ファリアが、あきれたような半眼をこちらに注いできたことに、セツナは、歓喜さえ覚えたのだった。自嘲とともに、告げる。

「ひょっとしなくても馬鹿だよ、俺は」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ