第三百六十八話 駆ける(三)
樹海を突き抜ける街道をただただ走り抜けていく。
野営地以来、なにひとつ変わらない風景が続いていたのだが、それが突如として荒廃した景色に変化すると、ルクス=ヴェインですら目を丸くしたものだ。
傭兵団《蒼き風》は、街道を驀進するガンディア軍の先頭集団に収まっていた。残念ながら最先頭ではなかったが、傭兵集団が望みうる限りでは最高の順番だといえるだろう、団長シグルド=フォリアーが副長ジン=クレールに自慢気に話すほどだから、そうなのだろう。
ルクスは適当に納得しながら、馬を走らせていた。借り物の軍馬は調練が行き届いており、ルクスの無茶な要求にも応えてくれる。
(俺のは名馬だな。団長のは……駄馬。で、副長は駿馬か)
勝手に馬を格付けしたものの、シグルドの駆る軍馬が行軍の足を引っ張っているわけでもなかった。むしろ、馬力だけではルクスの馬を圧倒しているといってもいい。しかし、見た目が貧相に見えたのだ。シグルドは一目見て気に入ったようなのだが、どこが気に入ったのか、ルクスには見当もつかなかった。
街道を抜け、ヴリディア砦跡地に至る。武装召喚師とドラゴンの規格外の戦闘によって破壊し尽くされた大地と、大地に開けられた大穴を砦の跡地と呼べるのならば、だが。
「まるで世界の終わりだな」
「見たことあるんですか? 世界の終わりってやつ」
「あるかよバーカ。ただの例えだろ」
ぶっきらぼうに言い放つシグルドの背中を見て、ルクスはほくそ笑んだ。シグルドの調子はいつもと変わらない。決戦を前にしても、浮ついたところがないのだ。むしろだれよりも落ち着き、団員たちの状態の把握に全神経を注いでいる。
《蒼き風》はシグルドの組織なのだ。彼は、だれよりも《蒼き風》のことを愛していたし、《蒼き風》に所属する団員たちも愛していた。団員に戦死者が出れば、だれよりも嘆き悲しむのがシグルドだ。ぶっきらぼうに見えて繊細なのだ。そんな団長だからこそ、団員たちも死に物狂いで戦い、生き残ろうとするのだろう。
ルクスもそんなシグルドが大好きだったし、だからこそ、彼のために死ねると思っている。
(世界の終わり、ねえ)
確かに、世界の終わりとはこのような光景なのかもしれない。
大地の中心に大穴が開き、そこから怪物が出現しているという状況だけを見ても、異常な光景だった。地の底から天まで伸びた尾の先には、空を覆い隠す巨体がある。黒白のドラゴンは、この世に災厄をもたらす存在に相応しい威容を誇っている。漆黒の右半身と純白の左半身。黒き矛と白き盾を象徴しているのだろうか。
(召喚武装を模倣するっていうのがよくわからないけど)
左半身が、偵察時に見た純白のドラゴンと同じなのは、わかる。純白のドラゴンは、シールドオブメサイアを模倣した存在だった。シールドオブメサイア同様にこちらの攻撃の一切を無力化したことで、ルクスたちは撤退を余儀なくされた。中央軍は、偵察部隊の報告を受けて後退し、全軍の集結を急いだ。ドラゴンに対抗する手段を得るには、西進軍と合流する必要があったからだ。
(ようするにだ、黒い方はカオスブリンガーということか)
流動する闇が凝固したかのような右半身は、美しく白い左半身とは正逆を行く姿といえた。凶悪な漆黒の矛であるカオスブリンガーと、美しい真円を描く盾シールドオブメサイア。その特徴がよく現れているといってもいい。そして、その両方の能力を模倣した結果が、左半身と右半身で形状や色彩が異なる姿となったのだろう。
純粋な武装召喚師ではないルクスには、理解できないどころか、想像もつかないことだ。ドラゴンの出現自体、どういうものなのかもわかっていないのに、そのドラゴンの能力を理解しろというのは無茶な話ではあるが。
(セツナは上手くやっているかな?)
とはいったものの、わざわざ心配する必要はないだろう。黒き矛を手にしたセツナは、凶悪な戦士となる。ともすればルクスを凌ぐほどの力を発揮することだって考えられる。野営地の訓練では、セツナ自身の未熟さ故にルクスを越えることはできなかったが、それもいまだけのことだ。
黒き矛の潜在能力の高さは、生粋の武装召喚師たちですら恐れ慄くほどなのだ。間違いなく、グレイブストーンよりも強力な召喚武装であり、その能力を使いこなす事ができた暁には、セツナはまさに天下無双の戦闘者となるのだろう。
そんな日が来るのは、遥か将来のことだが。
(先のことを考えていたって仕方がないか)
彼は、肩を竦めた。
龍の咆哮が聞こえ、光の嵐が吹き荒んだ。地面が抉れ、土砂や石が舞い上がり、ルクスたちに襲いかかってくる。軍馬が棹立ちになるもなんとか宥め、前進を命じた。馬にしてみれば、こんな嵐の中を突っ切るなど無茶苦茶だと非難したいところだろうが、ルクスとて無茶をさせているわけではない。嵐に吹き飛ばされてきた石や土砂が直撃しても、ルクスはなんの痛痒も覚えなかった。見えざる障壁が、ルクスたちを包み込んでいる。
ルクスたちは、シールドオブメサイアの守護領域の真っ只中を突き進んでいたのだ。
ヴリディア砦跡地周辺の戦場全域のみならず、樹海の一部までもがクオン=カミヤの守護下にあった。黒白の竜がどれほど苛烈な攻撃を繰り出しても、ドラゴンの股下を進むガンディア軍に被害が出ることはなかった。余波だけで木々を薙ぎ倒すような攻撃であっても、無敵の盾の前では意味をなさないのだ。
絶対的な安心感の中、それでもルクスたちは先を急いだ。広範囲に及ぶ守護領域を展開しているということは、クオンが精神を消耗し続けているということにほかならない。彼の負担を少しでも減らすには、全速力で戦場を離れるしかなかった。
激しい戦闘が繰り広げられる中、地に開いた大穴の横を通過する。地獄にまで通じているかのような深い穴の上には、つい数日前までヴリディア砦があったのだ。五方防護陣の一角をなす強固な砦は、ルクスたち《蒼き風》の見せ場になるはずだったのだが。
(見せ場は譲ってあげるよ)
ルクスは天を仰いで、つぶやいた。弟子の姿はどこにも見えない。地上にいないということは、上空、ドラゴンの体にへばりついてでもいるのだろう。そうでもしなければ戦うことすらままならないのは、ルクスにもわかる。
「弟子に一言でもかけてやればよかったんじゃないか?」
戦場を突破するころ、シグルドがそんなことをいってきたので、ルクスは眉根を寄せた。
「嫌ですよ。がらでもない」
「ま、おまえが他人に気を使い始めたら、それこそ世界の終わりだわな」
「確かに」
大口を開けて笑う団長と即座に同意する副長のふたりに対し、ルクスは憤然と抗議した。
「ひっどい!」
「さあて、ヴリディアは突破した。目指すは龍府!」
「無視すんなあ!」
ルクスは声を張り上げたが、あえなく黙殺されたのだった。
知覚可能範囲に雪崩れ込んできたのは、無数の足音だ。まるで怒涛のように鳴り響く無数の足音は、大地を震撼させるかのようだったが、そうではない。震えているのは、クオンの鼓膜だ。異常なまでに拡大された聴覚が、南方から迫り来る軍勢を捉えたのだ。
無数の足音は、数多の軍馬が地面を蹴り進む音であり、戦場の旋律にほかならない。ここは戦場なのだ、と改めて認識する。戦場で、戦争の最中なのだ。それにしては静かなものだと思わざるをえないのだが、それは、ここに戦争の熱気も狂気もないからだろう。
戦っているのは一体のドラゴンとひとりの少年であり、彼の知覚範囲に入ってきた軍勢は、この戦いに参加するために行軍しているわけではないのだ。彼らは、この戦場を通過し、決戦の地へと向かう。
そのためには、クオンが一肌脱がなければならなかった。
(来たか)
七千人以上の大軍勢が、知覚範囲への侵入を果たしたのだ。軍馬と馬車、歩兵の群れが意識の奥へと怒涛のように押し寄せる。
クオンは眼を開くと、シールドオブメサイアに命じた。
(全力展開)
直前まで淡い光を放っていた純白の盾が、より一層まばゆい輝きを発した。瞬間、純白の閃光が視界を灼く。光は、ドラゴンの影を白く染め、戦場全体を照らしだす。ただし、一瞬だけだ。ほんのわずか。意識していなければわからないほどの刹那の光が、シールドオブメサイアの領土を主張する。それは絶対守護の領域だ。対象を限定した守護とは異なり、敵も見方も見境なしに守護する空間を構築したのだ。
これではこちらの攻撃も敵に通用しなくなるが、ほかに方法はない。ドラゴンの攻撃範囲が不明で、行軍のために縦に伸びきった軍勢を護るには、こうするしかなかったのだ。
クオンは、精神力が搾り取られていくような感覚を抱いた。セツナと自分、軍馬だけを守護していればよかったさっきまでとは明らかに違う負担に、冷や汗を浮かべる。いまはまだいい。構築したばかりで、精神力も有り余っている。
だが、本隊の最後尾がドラゴンの攻撃範囲を脱するまで保つのかは、クオンにもわからなかった。ここまで広大な守護領域を作り出した経験がないのだ。範囲を広げるだけならばまだしも、守護防壁の強度を上げるとなると、その負担は計り知れなかった。
それでも、七千人以上の兵士ひとりひとりを守護するよりも確実だろう。ひとりずつ守護すれば消耗を抑えることはできる。しかし、七千人もの軍勢が全速力で進んでいるのだ。見逃す可能性だってなくはなかったし、軍馬や馬車を守護する必要性を考慮したとき、守護領域を構築するほうが簡単だという結論に至ったのだ。
(問題は、ぼくの精神力が保つかどうかだ)
本隊の戦場突破に成功したからといって、ぶっ倒れていいわけではない。ドラゴンとの戦いが残っている。少なくとも、セツナはドラゴンを倒そうとするだろう。倒せなくとも、彼が力尽きるまでは見守ってやる必要がある。セツナが力尽きれば、彼を背負ってでも戦場を離れればいい。ドラゴンの攻撃範囲から離れさえすれば、クオンたちの勝ちだ。あとは、ガンディア軍が龍府を陥落させたという報告を待てばいいのだ。
(決戦に参加する必要はない)
七千対二千。
負ける要素は見当たらない。
(休ませてもらおう。ぼくも、君も)
セツナを探すために頭上を仰ごうとしたとき、前方をガンディア軍の先頭集団が駆け抜けていった。脇目も振らず、ただひたすらに走っている。ファリア・ベルファリアとミリュウ=リバイエンを乗せた軍馬が先頭だったのには驚いたものの、ファリアが召喚武装を抱えていることで納得した。ドラゴンの攻撃の余波によって、進路を塞がれでもしたのだ。そういった障害物を破壊するには、召喚武装が一番かもしれない。
ミリュウがなにかを叫んでいたが、クオンは気に留めている余裕はなかった。守護領域の維持に全神経を集中させる必要があった。