第三千六百八十四話 ただひとつ(三)
最初、なにがなんだかわからなかった。
意識はあるのに、感覚がなかったのだ。
起きているのに夢の中にいるかのようで、呆然としたものだった。
目を開いているのになにも見えず、なにも聞こえず、なにもわからない。手足を動かそうとしても、動いているという手応えもない。まるで全身の神経という神経が寸断されてしまったかのようであり、そう想ったとき、自分の置かれている状況を理解した。
これが神の呪いなのだ、と。
そして、それならばそれでいい、と、想った。
目的は、果たした。
それだけでよかった。
それ以上を求めるのは、いくらなんでも欲深にもほどがあるのではないか――などと、自嘲したのも束の間だった。
光が差して、全身が痺れるような感覚に襲われた。
かと想えば、目の前にひとりの男が立っていた。
広大な宇宙に横たわる無明の闇を凝縮し、ひとつの形にしたような、そんな男。闇そのものの衣を纏い、長い黒髪を靡かせ、赤々と輝く瞳でこちらを見つめているその表情は、いつも通り不遜な笑みを浮かべていた。傲岸にして、不遜。それこそ、彼の象徴だ。
百万世界の魔王。
なぜ、彼がここにいるのか、すぐには理解できなかった。
送還したはずだからだ。
ミエンディアを斃し、すべての決着がついたとき、魔王と腹心たちを解放するために送り還したというのに、どうして、彼がいま、目の前にいるのか。
やがて、理解した。
送還したと想っていたのはセツナだけであり、実際には完全には送還できていなかったのだ、と。
だから、魔王に肯定されるまでもなく、状況を把握していた。
わかっていたからこそ、問えたのだ。
ここは、異空の果ての果て。
すべての終端にして、最果て。
終わりなのだ。
ここより先はない。
ミエンディアの負け惜しみは、負け惜しみではなかった、ということなのだ。
ミエンディアがセツナをここに連れてきたときから、最低限の勝利は確保されていたということでもある。
勝利。
ミエンディアの勝利条件。
そのひとつは、果たされなかった。
百万世界の再統合による原初の静寂への回帰。
それだけは、阻止された。
ミエンディアの死によって。消滅によって。
だが、もうひとつは、こうして果たされた。
魔王の封印。
百万世界の魔王は、セツナとともに異空の果てに閉じ込められてしまったのだ。
「ここは、すべてが流れ着く最後の場所。異空の果ての果てにして、終端。逆行することはかなわず、いずれいかなる世界への到達も能わぬ。故に、果てなのだ」
魔王は、いった。
暗澹たる闇の空と海の狭間、いつか見た光景のように、彼は立っていた。音もなく打ち寄せる異空の波と、運ばれてくる塵芥の数々。流れは一方的であり、断絶されていることがわかる。遡ることなどかなわない。抗うことも、藻掻くことも許されない。足掻けば足掻いただけ、失望するだけだ。そこには希望などはない。まさに絶望そのものなのだ。
手のひらで砂を掬うように塵芥を掬ってみると、指の隙間から大量にこぼれ落ちた。手のひらに残ったのはわずかばかりであり、それも波とともに運ばれてくる風によって吹き散らされた。
風。
異空に生じる力が生み出すそれは、異空の果てと異空を断絶するかのように吹き続けている。
「まんまとしてやられたな」
「勇者と名乗るだけのことはあったということだ」
魔王は、この闇の世界でも紅く輝く目を細めて、いった。無条件の賞賛だった。
ミエンディアと刃を交え、その覚悟と決意に触れたからだろう。
ミエンディアの行動は、すべて、他者のためだった。百万世界を救う、ただその一点だけが、彼女の行動理念であり、原動力といっても過言ではなかったのだろう。そこに本人の欲望や野心はない。だからこそ、勇者を名乗り、魔王に立ち向かうことだってできたのだ。
そして、だからこそ、魔王とセツナに対し、絶対に負けられないという想いで戦い、実際にある種の勝利を得たのだ。
それ故、魔王は手放しで褒め称えた。
真の目的を果たせなかったミエンディアにしてみれば、嬉しくもなんともないだろうが。
とはいえ、セツナもミエンディアが掴み取った一種の勝利には、感嘆するしかなかった。
これでは、セツナにはどうすることもできない。
「さすがだよ。まったく……」
やり方が性急すぎる上、強引すぎるため、ありがた迷惑この上ないと想わずにはいられなかったものの、ミエンディアの精神性や高潔さは否定するものではあるまい。彼女がセツナたちと同じ目線、同じ目標を持つ味方だったならば、これほど頼もしい味方もいなかっただろう。もっとも、彼女の性格的にセツナたちとわかり合える日が来ることなどはなかったのだろうが。
それはそれとして、いまは、ミエンディアの勝利を称える以外にはない。
しばらくして、魔王が口を開いた。
「……手がないこともないが」
「その結果、どれだけの世界に被害が出るんだか」
「百万の世界をある意味では救ったのだぞ。多少の被害が出たところで、おまえがあるべき世界への帰還を果たすためであれば、だれが責めようか」
「責めるだろ、そりゃあ」
セツナは、多少呆れるような気持ちで魔王に言い返した。
魔王のいう手段とは、この領域に押し寄せる異空の波を破壊し、異世界群の真っ只中へと強引に舞い戻るという方法だ。通常の方法で突破できない以上、それ以外には考えられなかったし、魔王の言動からもセツナの想像通りの方法だと判明した。そしてその方法が無数の異世界に大小様々な被害をもたらしかねないということも、だ。
せっかく世界統合を食い止め、まったくの無傷で終わったというのに、そこに新たな被害をもたらすのは、最悪以外のなにものでもない。
魔王には相応しい所業なのだろうが。
そして、セツナは、魔王の如く異世界を破壊して見せてもいる。が、それは、ミエンディアの力を削ぐための手段に過ぎず、ミエンディアが必ず破壊された異世界を元に戻すに違いないという確信があってこそのものなのだ。
ただ被害をもたらすだけの方法など、取れるはずもない。
そして、だからこそ、ミエンディアは、セツナと魔王をこの異空の果てへと追いやった。
セツナが無意味に異世界に被害をもたらすわけがないという確信があったからだ。
「ふむ……そういうものか」
「そういうもんだよ」
セツナは、魔王がなんともいえない顔をする様を見遣りながら、その場に転がった。堆く積み重なった塵芥の上、仰向けに寝転がれば、視界を埋めるのは、闇の空だ。
「それに、俺には還るべき場所なんてないしな」
だから、ここでいいのだ。
そう、セツナは、想った。
戦いは終わった。
役割は果たした。
後のことは、あの世界に残ったものたちに任せておけばいい。
皆、優れたひとたちばかりだ。
世界を良い方向に向かわせてくれるに違いない。




