第三千六百八十三話 ただひとつ(二)
では、なぜ、彼の声がセツナの耳に届かなかったのか。
闇の中で呆然とした様子のセツナを観察していれば、すぐに正解に辿り着く。
(そうか……)
彼は、いまセツナの身に起きている事態について察すると、なんともいえない気分になった。
セツナは、当初の目的を果たした。
セツナがイルス・ヴァレに召喚され、黒き矛の使い手――魔王の杖の護持者となった意味を為した。
セツナは、セツナ自身のために、セツナが愛するひとたちのために、それをやった。決して彼のためなどではなく、ましてや、世界のため、百万世界のためなどでもない。極めて個人的な欲望のため。私利私欲のためにこそ、セツナは、戦い抜くことができたのだ。
そして、だからこそ、彼はセツナに希望を見出すことができたのであり、希望が形となったに違いない。
あくまでも自分のために。
だが、そうして手に入れた未来は、セツナにとって最悪の形になってしまった。
呪いだ。
ミエンディアに召喚された神の一柱にして嘲笑う虚偽の神アシュトラにかけられた呪いが、いままさにセツナの体中に広がりきっているのだ。
故に、セツナは、目が見えず、音が聞こえず、なにも感じ取ることができなくなっているに違いない。だから、セツナには彼の言葉が届かず、彼の姿が見えず、彼の気配を感じ取ることもできないのだ。さらにいえば、自分がなにをしているのかさえわかっていないのではないか。
目覚めたというのに寝転んだままなのは、そういうことなのだろう。
あらゆる感覚が失われてしまっているのだ。
だから、なにもできないし、なにもわからない。
アシュトラの呪いは、長らく鳴りを潜めていた。遅効性で、その効力もあまり強くはないと考えられていたのだが、どうやらそれは見当違いも甚だしかったようだ。
当たり前だ。
アシュトラは、神の一柱であり、セツナは、ただの人間なのだ。
ただの呪いですら対抗できないというのに、ましてや神の呪いとあれば、抵抗しようもない。
だが、だとしても、なぜいまになって呪いが活発化したのか。
それについても、彼には想像がついた。
獅神天宮突入からの連戦が、セツナの心身にもたらした負担は、想像を絶するものがあった。ただの人間が耐えられるのが不思議なくらいの負担であり、消耗の連続。それでもセツナは戦い続け、戦い抜き、勝利をその手に掴むことができた。
しかし、その裏で、アシュトラの呪いが急速に進行していたとして、なんら不思議ではなかった。
ならば、なぜ、ミエンディアとの戦いの最中に気づかなかったのか、といえば、これもまた単純な理屈だ。
セツナがカオスブリンガーを手にし、魔王態を維持していたからだ。
召喚武装は、手にしているものの様々な感覚を増幅する力を持つ。それによって武装召喚師は、常人に対し圧倒的な力量差を見せつけることができるのだ。
それが魔王の杖とその眷属ならば、なおさらだ。
ミエンディアとの戦闘中、セツナの感覚は通常とは次元を隔絶するほどに強化されており、その間に呪いが進行しているなど、気づきようもなかったのだ。
戦闘後、黒き矛とその眷属たちを送還しようとしたがため、セツナの五感は通常に戻っただけでなく、呪いによって一気に失われてしまった――ということだ。
これでは、勝利した意味がないのではないか。
などと、セツナに問えば、笑って頭を振るだろう。
そんな反応が瞬時に想像できるくらいには、彼は、セツナの性格を熟知していたし、故にいまセツナがなにを想い、なにを考えているのかもわかっていた。
だからといって、このまま、セツナを放っておくわけにもいかない。
彼は、静かに手を伸ばし、セツナに魔力を送り込んだ。
すると、どうだろう。
セツナは、はっと上体を跳ねるように起こすと、こちらを見た。
「あ、あんたは……!?」
セツナが目を見開くほどに驚いたのも無理はないことだが、彼は、そんなセツナの反応に苦笑した。
「先程からずっといたのだがな」
「……そういうことか」
たった一言で、セツナは察したようだった。なにも聞こえないことや、感覚がないことから、そう考えていたのかもしれない。
「呪い……なんだな?」
セツナは、塵芥の上に座り込んだまま、手の感覚を確かめるように握ったり開いたりした。さっきまではなんの感覚もなかったのだ。確かめたくなるのも無理はない。感覚がないということは、生きているのか、死んでいるのかすらわからないということなのだ。
「そうだ。それも神特製のな」
「嫌な特製だな」
「自慢できるぞ。神に呪われたものなど、そうはいない」
「いるにはいるのか……」
少しばかり驚いた様子で、セツナはいった。
彼は、またしても笑った。
「俺がそうだ」
「……そうか。そうだったな……」
「……これで、おまえは、すべてを失ったというわけだ」
「ああ……そうなるな」
セツナは、彼の言を否定しなかった。
むしろ、納得がいくとでもいうようにうなずき、深く息を吐く。
「散々好き放題してきたんだ。全部失って、それで済むっていうんなら安いもんだろ」
セツナの当然とでもいいたげな反応は、想定通りのものではあったのだが。
「百万世界を統合の危機から救ったんだぞ? 報酬のひとつやふたつ、欲しくはないのか?」
「ぜーんぜん。そんなもののために戦ったわけじゃねえし」
そういうと、セツナは、身を放り出すようにして地面に寝転がった。その言葉遣いや態度から、セツナが強がっているようには感じられなかった。
「イルス・ヴァレが無事なら……ファリアたちが無事なら、それでいいさ」
当たり前のように、セツナはいうのだ。
「そのために戦ったんだ。本当だぜ? 本当に、それだけなんだ……」
なにもいわず、彼は耳を傾ける。
「……恩返しだよ。こんな俺に居場所をくれた皆に対する、ただの恩返しなんだ」
自分に言い聞かせるつもりでもなく、ただ、素直に本音を漏らすセツナの表情は、どこか満ち足りた様子だった。
為すべきことを為し、やるべきことをやったものの顔だ。
聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンという大敵を討ち斃し、イルス・ヴァレにいる愛するひとびとを失う未来を回避することができたのだ。
それだけで、満足だろう。
セツナという人間は、そういう人間だ。
そして、そういう人間ならばこそ、魔王にとっての希望になり得たのだ。
「それにさ」
セツナが、静かに口を開いた。
「……戻れないんだろう?」
尋ねられて、彼は、多少、逡巡した。
しかし、はぐらかしてもなんの意味もないことはわかっていた。
「ああ」
だから、肯定する。
そうだ。
ここは、異空の果ての果て。
代償もなく、イルス・ヴァレへ戻る方法などはない。




