第三百六十七話 駆ける(二)
ザルワーンの首都・龍府は、ザルワーン領土の中心からやや北西に位置している。
龍府の周辺は広大な森となっており、まさに樹海と呼ぶに相応しい領域が広がっている。樹海は龍府を防御する障壁であり、外界と隔絶する結界ともいえた。とはいえ、結界が完全に機能していては、龍府は首都として存在し続けることは出来なかっただろう。龍府と外界を繋ぐ五本の街道が、結界に小さな穴を開けている。
龍府から五方向に伸びた街道は、それぞれ、五竜氏族の家名を冠する砦に到達する。
龍府の西にビューネル砦、北西にライバーン砦、北東にリバイエン砦、東にファブルネイア砦、そして南にヴリディア砦があり、それらの砦を総称して五方防護陣といった。五方防護陣は、龍府と外界の中継地点としても機能していたのだ。
五つの街道は、さながら龍府を本体とする龍の五本の首のようであり、その通過点である五方防護陣の五砦から龍の首が出現したのは、皮肉としかいいようがなかった。
(笑えない冗談よね)
ミリュウは、頭を振って、くだらない考えを打ち消した。
彼女はいま、五方防護陣の一角であるヴリディア砦の目前に達していた。彼女だけではない。ガンディア軍本隊の先頭集団は、上天を支えるかのように聳え立つドラゴンの射程範囲に到達しており、廃墟と化した風景の中を駆け抜けていた。
ドラゴンとセツナたちの戦いは時が立つとともに苛烈さを増していた。といっても、激しさを増すのはドラゴンの攻撃であり、吹き荒れる力の奔流がヴリディア砦の跡地を破壊し、周辺の樹海に破滅的な被害をもたらしている。青々とした木々に囲まれていた街道を進んでいたはずのミリュウたちは、いつの間にか荒廃した大地の中を走っていることに気付かされた。木々は根こそぎ薙ぎ倒され、草花は吹き飛ばされ、大地は割れ、痛々しい爪痕がそこら中に刻まれている。街道をただ真っ直ぐ進むというのも難しくなってきていた。倒壊した木々による進路妨害が多くなってきたのだ。
こういうときこそ武装召喚師の出番である。
馬上、オーロラストームを展開したファリアは、全軍の先頭に出ると、いつもの様に雷撃を放ち、進路を塞ぐ木々を吹き飛ばして道を作った。派手な格好もあってか、ファリアの活躍は兵士たちの目を引いたようだった。歓声が上がり、拍手するものさえいた。ファリアは涼しい顔で前進を促したが。
そういうときのファリアの横顔が素敵なのだ、とミリュウは思うのだ。平時の彼女とはまったく違う、冷ややかなまなざし。もちろん、平時のファリアが嫌いなわけではない。しかし、武装召喚師として作り上げられたミリュウの意識が、戦時の彼女にこそ惹かれるのは仕方のないことだった。
戦時。
そう、いまは戦いのまっただ中だった。
黒白の竜と、セツナとクオンの戦闘の最中を、ガンディア軍は駆け抜けていく。頭上には、巨大な両足に支えられたドラゴンの巨躯があり、広大といっても過言ではない両翼が空を覆うかのようだった。
だれもが息を呑み、訓練された軍馬たちですら恐怖を隠せなかった。圧倒的な質量と、絶対的な威圧感。先頭集団の行軍速度が落ちたとして、だれが責められるというのか。だが、いつまでもたじろいでいる場合ではなく、障害物除去のために先頭にいたファリアは軍馬を励まし、前進を再開させた。街道の中継地点へと到達しようとしている。
「あんなのと普通に戦おうとしたのよねえ」
ミリュウは、黒白の竜の巨体を間近で見て、ビューネルでの出来事を思い出していた。黒白の竜の右半身を構成する黒き竜と、セツナの対峙。巨大さも威圧感も変わらない。しかし、黒白の竜は、恐らくシールドオブメサイアの能力をも模倣している。黒き矛の破壊力だけでなく、白き盾の防御力を得たのだ。あのときよりも強敵になっている。が、それはセツナも同じことだ。セツナのカオスブリンガーとクオンのシールドオブメサイアが協力すれば、黒白の竜とも同等に戦えるだろう。
ビューネルでは、ドラゴンの突如の変態に虚を突かれたセツナだったが、今回はそうはならないはずだ。
「セツナ?」
「うん」
「本当、馬鹿よね」
「そうね」
ファリアが小さくいった言葉に同意しながらも、ミリュウは別のことも思っている。
(ファリアもね)
ファリアもまた、セツナを助けるためとはいえ、自分のことなど考えないような方法でドラゴンに接近し、すべての力を使い切ったのだ。無謀で、無茶なのは、《獅子の尾》の武装召喚師の特徴なのかもしれない。ルウファ=バルガザールも、無茶な戦い方をしたがために重傷を負い、後方に送られている。龍府を目前に後送されるのは、彼としても悔しかったに違いない。
そんなことを考えている間に、ファリアの軍馬が街道を抜けた。龍府への中継地点に辿り着いたのだ。
ヴリディア砦跡地である。
「わお」
ミリュウは、ヴリディアの跡地を目の当たりにして、小さく声を上げた。半ば崩壊気味の街道を抜けてきた時点で想像できていたとはいえ、完膚なきまでに破壊し尽くされた風景は、想像以上のものがあったのだ。
砦は跡形もなく、ヴリディア砦がここにあったとは到底信じられなかった。しかし、街道の途中にある開けた空間は、砦の在所に違いなく、この荒れ果てた大地が砦の跡地なのだと認識するしかない。
戦場の中心に開いた大穴から、天に向かって竜の尾が伸びている。尾の先には竜の胴体があり、巨大な足と上体、翼によって、空はほとんど見えなくなっていた。竜の影に覆われた地上は、徹底的に破壊されていた。ドラゴンの攻撃の余波によるものだろう。ドラゴンとて、大地や森を破壊するために力を振るっているわけではあるまい。セツナとクオンを倒すための力が、結果的に周囲の地形に大打撃を与えているのだ。
その破壊の余波が吹き荒れる中を、ミリュウたちは突っ切ってきていた。地を走る衝撃波が土砂を巻き上げても、ミリュウたちはおろか、軍馬たちも敢然と前に進んだ。光の雨が降り注ぎ、破壊の嵐が巻き起こったとしても、ファリアが軍馬を叱咤し、前進を促した。
軍馬たちが恐慌状態に陥ろうとも、前に進まなければならない。前進しなければ、セツナたちの戦いも無意味になる、セツナたちが数時間も前からドラゴンの相手をしているのは、ドラゴンの注意を引くためだ。ドラゴンの意識をセツナたちに固定するために、固執させるために、数時間もの長きに渡って、戦い続けている。疲労は蓄積し、消耗も激しいに違いない。それでも、セツナとクオンは戦っているのだ。ドラゴンの苛烈な攻撃の中を突破することくらいできなくては、ふたりに申し訳が立たない。
とはいえ、ミリュウにできることはなにもない。
荒れ果てた戦場の光景を目に焼き付けながら、彼女は嘆息した。吹き荒れる力の奔流が土埃を舞い上げ、視界をさらに酷いものにしていく。しかし、ミリュウたちが負傷することはなかった。視界の端に光が過る。
見ると、淡く輝く盾を抱える少年が、頭上を仰いでいた。クオン=カミヤとシールドオブメサイア。ミリュウたちがドラゴンの攻撃に巻き込まれないのは、彼のおかげだった。
彼が、本隊の接近を予期して守護領域を構築していたのだ。それがシールドオブメサイアの能力であり、無敵の盾の異名通りの能力に、ミリュウは唖然とした。
ドラゴンの攻撃範囲は広大だ。しかも、余波を考えれば、攻撃範囲だけを守護すればいいというものではない。さらに広範に渡る領域に守護の力を行き渡らせる必要がある。並みの召喚武装では不可能に違いない。
彼は、それを成したのだ。シールドオブメサイアがいかに強力で、異常なまでの性能を持っているのかがわかるというものだ。敵に回すと恐ろしい存在だが、味方ならばこれほど頼もしいものはいないだろう。安心感という意味では、セツナよりも影響は大きいかもしれない。
彼の守護領域に身を置く限り、負傷することもなければ、死ぬこともないのだ。ファリアの後ろに続く兵士たちが安堵の表情を浮かべていることからもわかる。
セツナならば、こうもいくまい。彼は敵に恐怖と殺戮を振り撒く破壊者であり、それは、味方にとっても恐るべき存在として認識されるだけのことだ。このザルワーンの戦場をともに戦い抜いてきた連中には、セツナを認めるものも少なくはないようだが。ガンディア軍全体を見渡したとき、セツナの存在は必ずしも歓迎されてはいないようだった。
もちろん、これまでのセツナの活躍を否定するものはいないだろうし、彼がいたからこそ、ガンディアが加速度的に膨張しているという事実も理解しているはずだ。少なくとも、ミリュウの耳には、セツナたちへの陰口は入ってこなかった。
気づくと、クオン=カミヤの姿が遠ざかっていた。ついついどうでもいいことを考えてしまうのは悪い癖だ。ろくでもないことばかりを考えて、結果、いうべき言葉を見失ってしまう。そんな自分が嫌いだったが、どうしようもなかった。
「セツナはどこかしら」
「上よ」
「あら、愛の力?」
「なに馬鹿なことをいっているの。召喚武装のおかげよ」
「わかってるわよ。なにもそんなに必死になって否定しなくてもいいじゃない。セツナが可哀想だわ」
「なにがよ!」
なぜか声を荒らげてきたファリアを黙殺して、ミリュウは天を仰いだ。影に覆われたドラゴンの巨体のどこかにセツナの姿を見出だせないものかと思ったが、通常の視力ではとても発見できそうにはなかった。クオンやファリアのように召喚武装の補助があれば、ミリュウにも目視できたのかもしれないが。
不意に、ドラゴンの黒い腕が空を薙いだ。ただそれだけで大気が唸り、渦を巻いた。その竜巻はしばらく空中を泳ぎ、消える。
まさに自然災害の化身のような存在だと、彼女は思った。そんな怪物と正面からやり合おうなどと考えるのは、愚か者だけだろう。つまりセツナは愚か者ということになるのだが、だからといってセツナを悪く思えないのは、惚れた弱みに違いない。
「セツナー! 適度にがんばってねー!」
久々に声を張り上げると、喉が傷んだ。けれど、セツナの名前を大声で発するという喜びの前では、大した痛みではなかった。ファリアの呆れたような声が聞こえてくる。
「なんなの、その気の抜けるような応援は」
「これくらいでいいのよ、これくらいで」
「そうかしら」
やれやれ、とでもいいたげなファリアの反応に、ミリュウはくすりと笑った。
「ほら、ファリアも」
「わたしはいいわよ」
「どうして?」
「隊長には隊長の、隊長補佐には隊長補佐の役割があるわ。その役割をまっとうするために全力を注ぐことこそ、隊長への一番の応援でしょう?」
「ふーん……そういうものなの?」
「そういうものよ」
「あ、わかったわ」
「なによ」
「ご褒美は戦争が終わったら、ってことね」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げ、あまつさえ馬から転げ落ちそうになったファリアを慌てて支えながら、ミリュウは、一時の幸福を味わっていた。
気を許したひとたちとの触れ合いなど、あの地獄にはなかったのだ。
地上に出てからもずっと、彼女の魂は孤独だった。
仲間はいた。信頼できるふたりの仲間。クルードとザイン。ふたりがいたからこそ、あの地獄を生き抜いてこられた。彼らがいたから、ミリュウはミリュウで在り続けることができた。しかし、真に心を許したことなど、あったのだろうか。
クルードもザインも、嫌いではなかった。むしろ、好意に値する人物だった。だから、ふたりの戦死を知ったとき、すべてを失った感覚に襲われたのだ。常に抱いていた孤独感が、さらに深まっていった。
そんな状況下にあって、ミリュウは、自分の記憶に雪崩れ込んできていたいくつもの光を見ていた。セツナの記憶を通して見る、輝かしい日々の幻影。セツナの半生が、まるで自分のもののように感じられた。想いが募った。
そして、セツナとの語らい、ファリアとの触れ合いが、ミリュウに光を与えてくれた。満たされるとはこういうことなのだと、彼女は理解した。理解して、満足しようとした。それ以上を求めてはいけないのだ。
(あたしはそれで十分)
「い、いい加減にしないと、叩き落とすわよ!」
「はいはい、わかったわよ」
取り乱すファリアの言動に、ミリュウは涙さえ浮かべて笑った。笑いながら、泣いていた。
(だから、行くわ)
死は、恐ろしくない。死よりも恐ろしいことを知ってしまったのだ。
それは、好きなひとに嫌われるということだ。