第三千六百七十二話 異空を翔ける(十五)
(どういうこと……なのですか)
吹き荒れる疑問の嵐の中、ミエンディアは、呼吸を整え、冷静さを取り戻そうとした。
既に時空転移術式によって、あの時空から離脱している。現在は時空の狭間に在り、故に安全であり、落ち着いてもいいはずなのだが、中々どうして不安を拭い去ることができなかった。
黒き矛カオスブリンガーは、ミエンディアがセツナを攻撃しようとした瞬間に現れた。
それはまるで、黒き矛がセツナを護っているようであり、魔王の呪縛ともいうべき加護が働いているようでもあった。
だとしても、考えられないことだったし、信じられない光景だった。
先程の時空においても、セツナは、手に黒き矛を持っていた。アズマリアに召喚された直後ということもあり、召喚武装の使い方など微塵も理解していない頃だ。ましてや、黒き矛の力を不完全にさえ引き出せていなかった。当然、遙か上空のミエンディアになど気づくわけもなく、ミエンディアを攻撃してくる気配さえなかった。
そもそも、同じ時空に黒き矛が二本も存在すること事態、ありえない。
黒き矛は、魔王の杖であり、百万世界の魔王そのものなのだ。
百万世界の魔王は、この世にただひとりであり、故に黒き矛もまた、ただの一本しか存在し得ないはずなのだ。
なのに、ミエンディアは、黒き矛が二本存在した瞬間を目の当たりにしている。
そして、セツナが手にしていないもう一本の黒き矛は、明確にミエンディアを迎撃するために現れたのだ。
ミエンディアが過去に翔び、過去の自分を消し去ろうとしていることを察知した現在のセツナが黒き矛を転移させてきたというのであれば納得も行くし、理解もできる。だが、どうやらそういうわけではなさそうなのだ。
まるで、黒き矛が自動的にセツナを護っているような、そんな気配さえあった。
つまり、セツナが黒き矛を手にした時空では、時空を超えた攻撃は受け付けない――ということになるのではないか。
通常ありえないことだが、相手が百万世界の魔王であるならば、例外を考えなければならない。
(そうだというのであれば、致し方ありませんね)
ようやく冷静さを取り戻したミエンディアは、時空の狭間を駆け抜け、幾重もの次元を飛び越えた。
イルス・ヴァレでのセツナの抹消は、諦めるしかない。
おそらく、あの時点より過去に翔び、まさにセツナが召喚された瞬間に立ち会い、攻撃したとしても同じことだろう。黒き矛がミエンディアの前に立ちはだかるのだ。
であれば、さらなる過去へと向かうよりほかはない。
イルス・ヴァレに召喚されたセツナのさらなる過去。
イルス・ヴァレとは異なる世界――セツナが生まれ育った世界へ、彼がゲートオブヴァーミリオンと接触する以前の時空へ移動するのだ。
時空転移そのものは、なんの問題もなく成功した。
それはそうだろう。邪魔するものはなにもなく、ミエンディアの存在を認識できるものなどひとりとしていないのだ。
そして、ひとつの世界、ひとつの宇宙へと至ったミエンディアは、セツナの生まれ故郷である星に辿り着いた。
その蒼く美しい星は、地球と呼ばれているらしい。
地球へ降り、セツナの生まれ育った小さな島国を目指す。
目的地は、すぐに見つかった。
高次の存在であるミエンディアにとって、空間を移動するのは造作もないことだ。光の速度を大幅に凌駕する神の速度、さらにその先に至っている。超神速という言葉すら生温いほどの速度で、ミエンディアは時空を飛び越え、空間を駆け抜け、目的地へと至ったのだ。
セツナがまだ異世界に召喚される前、ごく普通の人間の少年だった時代。
彼は、並び立つ建物の狭間、極めて狭い道の上を歩いていた。たったひとり、なにを考えているのかもわからないような表情。孤独を感じるが、そんなことはどうでもいい、と、ミエンディアは切り捨てた。セツナを殺すのだ。そのためだけに、ここにいる。彼についてなにかを考えるのは、余計なことだ。
サイスオブアズラエルを振り下ろす。
この世界に於ける天使の名を冠する鎌は、刃の直線上に虚空に断裂を走らせ、瞬時にセツナへと至った。だが。
「……なぜ?」
ミエンディアは、愕然としながらも、いままでよりは冷静に反応できた。
セツナの頭上に出現した黒き矛が、空間の断裂を打ち砕き、その勢いのまま急上昇してきたのだ。
ミエンディアは、超神速で迫り来る黒き矛から逃れるべく時空転移術式を発動すると、念のためにサイスオブアズラエルを振るった。空間の断裂では黒き矛を破壊することは叶わないが、時間稼ぎ程度にはなるだろうと考えたのだ。
実際、その通りになった。
黒き矛は、ミエンディアではなく、空間の断裂の破壊に集中したからだ。
その間にミエンディアはその時空を後にした。
これで三度目だ。
これでなんらかの理由をもって、百万世界の魔王がミエンディアの行動に介入してきていることが確実となった、と見ていいだろう。一度や二度ならばまだしも、三度だ。しかも、三度目の今回は、イルス・ヴァレを離れ、武装召喚師となる前のセツナを攻撃しようとしたのにも関わらず、なのだ。
百万世界の魔王が、この頃からセツナに目をつけていた、とでもいうのだろうか。
そんなことがありえるのか。
(ありえないことではありませんか……)
ミエンディアは、時空の狭間を遡りながら、苦い顔をした。
百万世界の魔王が、己の代行者に相応しい存在であるとして、遙か以前からセツナに目をつけていたというのであれば、その化身ともいうべき黒き矛が介入してきたとしてもなんら不思議ではない。セツナの普段の生活ならばともかく、異世界からの介入に対抗できるものなどほかにはいないのだ。セツナを護るために魔王が黒き矛を寄越してきたとして、なんの疑問があろう。
こうなれば、と、ミエンディアはさらなる過去へと遡る。
魔王がセツナを見守っているというのであれば、なんとしてでもセツナを護ろうというのであれば、こちらにはこちらの考えがある。
そして、時空の狭間を抜け、さらに二十年前の日本に降り立ったミエンディアは、近い将来セツナの父親と母親になる人物へと接近し――
「ああっ……!?」
絶叫した。
黒き矛がミエンディアの胸を貫いたのだ。
ミエンディアは、透かさず時空転移術式を発動し、時空の狭間へと逃げ延びたが、胸に空いた大きな穴はミエンディアの身も心も蹂躙したことの証明であり、ミエンディアはその傷口の修復と痛みの除去に腐心しなければならなかった。
どこからともなく現れ、精確に胸を貫いた黒き矛。そこに込められていた魔力を直接流し込まれたのだ。その痛みたるや、言語を絶するものであり、表現のしようもなかった。
だが、まだミエンディアは諦めない。
致命傷から回復するやいなや時空の狭間を抜け出したミエンディアは、さらなる過去へと至った。
セツナの血筋を根絶やしにすることで、セツナが生まれる未来を消し去ろうと考えたのだ。
しかし、過去へ遡り、セツナの血筋の人間に遭遇するたび、ミエンディアは黒き矛の妨害にあった。
そのたびに大打撃を受けたミエンディアは、ついには己が過ちを認めた。
百万世界の魔王がセツナの血筋までも護ろうというのであれば、もはや手段を選んでいる場合ではない。
ミエンディアは、遙か過去の地球を見遣り、覚悟を決めた。
すべては、百万世界の完全なる統合のため。
多少の犠牲は、やむを得ない。




