第三千六百七十一話 異空を翔ける(十四)
黒き矛の穂先が黒く輝き、展開していく有り様を目の当たりにして、ミエンディアは無意識のうちに時空転移術式を用いていた。
瞬間、時空の狭間への扉が開き、ミエンディアを別時間軸へと転移させる。
予期せぬ事態に思考が止まり、頭の中が真っ白になった瞬間の判断だったが、間違いではなかった。
時空の狭間へと至ったミエンディアの肉体には、深々とした傷口しか残っていなかったからだ。ずたずたに切り刻まれ、蹂躙され尽くした傷口は、そこに地獄が顕現したかのような有り様であり、いまもなおのたうち回り、肉体も精神も打ちのめし、灼き尽くそうとしているかのようだった。
ほんの一瞬、触れただけだ。
それだけなのに、致命的な一撃を受けたような感覚がある。
(あれは……いったい……)
時空の狭間という安全圏に逃れてもなお、ミエンディアは、網膜に焼き付いた魔王の杖の禍々しい姿に呆然としていた。
ありえないことだ。
ありえないことが、起きた。
あの時間軸において、セツナは、黒き矛を手にしていた。地獄から現世への帰還を果たしたはいいが、遙か高空へと投げ出された彼は、黒き矛と眷属の力によって地上に激突死する最悪の事態を回避したのだ。故に、黒き矛は、セツナの手の内にあり、ミエンディアを攻撃することなどできるわけがなかったのだ。
そもそも、だ。
仮にあの瞬間、ミエンディア反応できたとして、迎撃できたとしても、不完全な状態であるカオスブリンガーが万全な状態に等しいミエンディアに傷つけることなどできるわけがないのだ。
神理の鏡こそ手元にはないが、だからといってあの時空のセツナと黒き矛に負けるいわれはない。
つまり、ミエンディアを貫いた黒き矛は、不完全なものではなく、完全か、それに近く力を引き出したものであると結論づけるしかない。
しかし、だとすれば、いったいどういうことなのか。
ミエンディアは、ようやく冷静さを取り戻し、魔法でもって傷口を塞ぎながら考える。
黒き矛は、セツナと同じ時間軸にあったはずだ。異空で、同一存在と戦っていたはずなのだ。セツナが黒き矛だけを投げて寄越したというのだろうか。黒き矛の力を以てすれば、ミエンディアを追いかけることなど難しくはあるまい。
だが、そうだとすれば、ミエンディアが黒き矛の気配に気づかないわけがないのだ。
いくら時空間転移に意識を向けていたとしても、莫大な魔王の力の結晶であるカオスブリンガーの接近と追従に気がつかないはずがなかった。
つまり、黒き矛は、追跡してきたわけではないということになる。
しかも、セツナが簡単に黒き矛を手放すとは考えにくい。同一存在との力量差が圧倒的とはいえ、わずかばかりの隙を見せれば命を落としかねないのが人間というものだ。セツナほどの猛者ならば、それくらいのことは十二分に理解しているはずであり、ミエンディアの姿が見えないからといってカオスブリンガーに追跡させようなどとするとは考えにくい。
ならば、あのとき、ミエンディアの脇腹に突き刺さった黒き矛は、どこからどうやって現れたというのか。
わからない。
なにをどう考えても納得の行く結論が出ないのだ。
だから、ミエンディアは、まず自分自身の肉体の回復に務めた。魔王の魔力に侵蝕された傷口を癒やすことは、簡単なことではない。神理の鏡があれば、事象を反射するだけで済むのだが、残念ながら、神理の鏡は元の時間軸に置いてきてしまっている。それもこれも、セツナが異世界を破壊するからだが、だからこそ、ミエンディアは時空間転移を行っているといってもいい。
結局のところ、真正面からぶつかり合って勝てる見込みがないからこそ、このような姑息な手段を取らざるを得ないのだ。
公明正大な勇者にあるまじき行いだが、こればかりは、致し方がない。
邪知暴虐の化身たる魔王を打倒するためだ。
そして、そうでもしなければ、魔王セツナを討ち滅ぼし、この世に真の静謐をもたらすという大いなる悲願を叶えることができないのだ。
口惜しいことではあるが、仕方がない。
そのようなことを考えながら、治療を続ける。魔法による治癒さえ受け付けない魔力に蝕まれた傷口とその周囲を切除することで、肉体を完全な状態に復元したのだ。
傷痕も痛みも消え去り、万全となったミエンディアは、時空の狭間からさらに過去へと遡った。
そして、時空の狭間の中から抜け出せば、広大な大海原の真ん中に浮かぶひとつの大陸が視界に飛び込んできた。
“大破壊”が起きる数年前――大陸暦五百一年のワーグラーン大陸は、一見、平穏な空気に包まれている。三大勢力と小国家群に分断された大地。三大勢力こそ沈黙しているものの、小国家群の中では小競り合いが耐えなかった。どんな小さな国でさえ、近隣の国々と相争っている頃だ。
ミエンディアによる統一から五百年も立てば、そうもなろうが。
少しばかり、胸が痛んだ。
あのとき、ミエンディアが六将に殺されさえしなければ、このような哀れな有り様にはならなかったに違いない。ミエンディアの元、大陸は統一され続け、争いも諍いもなければ、傷つけ合うことも、奪い合うこともなかったのだ。ましてや殺し合いなど、起きるわけがなかった。
だが、ミエンディアは死に、世界統一の夢は、水の泡となった。
そして、知る。
ひとは、ミエンディアのようなものがいなければ、どうしたところで傷つけ合う生き物なのだ、と。些細なことから諍いや争いが生じ、それが戦争へと発展する。話し合い、手を取り合い、助け合って生きていけばいいのに、なぜか、そうしない。
だれもが、そうだ。
だから、ミエンディアは、百万世界を統合し、原初の静寂という完全なる状態へと戻すことにした。
そのためにも、まずは、セツナを斃すことだ。
どのような手段を用いてでも、セツナを消し滅ぼし、前に進むのだ。
大陸暦五百一年の時空に転移したのも、そのためだ。
(先程は予期せぬ邪魔に遭いましたが……今度は、そうはいきませんよ)
既に傷口は癒え、痛みも消えている。
そして、今度の相手は、召喚されたばかりのセツナなのだ。
遙か眼下には、なぜか半分ほどが消し飛んだ森がある。その森こそ、使者の森であり、セツナが召喚された場所だ。見れば、芥子粒ほどの小ささながら、人影があることがわかるだろう。黒き矛を手にしたその人影こそ、セツナだ。
だが、ミエンディアは、セツナに近づこうとはしなかった。
ソードオブミカエルの代わりにサイスオブアズラエルを呼び出すなり、おもむろに振り下ろす。虚空に走る断裂は、ただ真っ直ぐに空間を切り取りながら遙か眼下へと向かっていく。そして、なにも知らないセツナを真っ二つに両断しようとした瞬間、虚空に亀裂が入り、割れたかと思うと、飛び出してきたなにものかが空間の断裂を破壊した。
そしてそれは、物凄まじい速度で飛翔すると、ミエンディアへと殺到してきた。
また、だ。
また、カオスブリンガーだ。




