第三千六百七十話 異空を翔ける(十三)
ミエンディアは、異空を駆け抜け、次元を超え、時間を超え、空間を超え、ついに目的地に辿り着いた。
そこは、異空西方の異世界群、その真っ只中に存在する世界――イルス・ヴァレだ。
イルス・ヴァレ。
だれがそう呼び始めたのかはミエンディアですら知らなかったし、おそらくイルス・ヴァレの歴史の生き証人である竜王たちも知るまい。
世界には、普通、呼び名など存在しない。
通常、呼称とは、ほかと区別するためにつけるものだ。自分たちの生まれ育った天地だけが世界のすべてであれば、そこに名をつけようとするものなどいないだろう。
異世界の存在を認知した故に、他の世界と区別するために命名するというのであれば、理解もできる。
実際、イルス・ヴァレという世界の名は、そのような理由で名付けられたに違いないのだ。
でなければ、説明がつかない。
もっとも、何事にも例外というものがある。異世界の存在を知らずとも、世界に名をつけるものがいたとして、それが広まり、受け継がれてきたとして、別段おかしくはないのだが。
(どうでもいいことですが)
ミエンディアは、イルス・ヴァレの宇宙を進み、ひとつの星へと至る。そのままの勢いで成層圏を突き抜ければ、地表の大半が海に覆われていることがわかった。
かつて、いまより五百年以上の昔、ミエンディアが創世回帰を回避するための最終手段として用いた世界改変の影響によって、イルス・ヴァレの陸地は、ひとつの大陸に収まった。ワーグラーンと名付けた大地は、それから五百年余り、平穏とは程遠い闘争の歴史を刻み続けてきたのだが、その結末が大陸を千々に引き裂き、再び世界を分かつ“大破壊”になるとは、さすがのミエンディアも想像だにしなかった。
もっとも、“大破壊”が起きたのは、ミエンディアの復活が阻止されたせいであり、ミエンディアが復活を果たしていれば、このような有り様にはならなかったのだが。
星の地表を覆う大海原、その各所に浮かぶ島や大陸といった陸地では、だれもが困難に喘ぎ、絶望に呻いている。
この時代、この世に希望はなく、故に終末の様相を呈していた。
(そろそろ……でしょう)
ミエンディアは、ひとつの小さな島に目をつけると、そのちょうど真上へと移動した。遙か高空。地上の人間の姿など、芥子粒のようだ。しかし、だれもが懸命に生きようとしていることはわかる。その島に生きるひとびとは、とにかく前向きに足掻いていた。
やがて、空が曇った。
地上と、ミエンディアのいる高空の間の空。現実に曇ったわけではなく、曇ったように感じたのだが、そう感じるのも無理はない。それは、この世には決して似つかわしくない気配であり、そのむせ返るような血と死の臭いは、まるでこの世が終わりを迎える前兆のようですらあったからだ。
つぎの瞬間、虚空に門が生じ、地上に向かって門扉が開いた。
それはゲートオブヴァーミリオンであり、開いた門扉の向こう側から地上に向かって飛び出していったのは、だれあろう、セツナだった。
それは、セツナが地獄から現世へと帰還した瞬間であり、ミエンディアは、その瞬間を待っていたのだ。
セツナを斃すのは困難を極めるといったが、それは異空へ至った時間軸に於けるいま現在のセツナの話だ。百万世界の魔王と眷属の力を完全無欠に使いこなすセツナだからこそ、これだけの力を以てしても苦戦を強いられ、死闘を予感させる。
だからといって、セツナを放置することはできない。
いくら時間稼ぎをしたとして、その間に世界統合を完遂できるかといわれると、そんなわけがないのだ。世界統合を始めたが最後、セツナはどのような時間稼ぎであろうと捨て置き、ミエンディアを阻止しにくるに違いなかった。そしてそうなれば、ミエンディアの目的は果たせなくなるだろう。
セツナは、なんとしてでも斃さなければならない。殺し、滅ぼし、この百万世界の因果律から完全に消し去らなければならないのだ。
なにせ、彼は百万世界の魔王に選ばれた存在なのだ。
そこまで徹底しなければ、安心はできない。
そして、そのためならば、どんな方法だって構いはしなかった。
この不完全な世界を完璧な状態へと回帰させるという大目的のためならば、手段を選んでいる場合ではないのだ。
ましてや、相手が魔王ならば――。
次元を超え、時空を超え、ミエンディアが過去のイルス・ヴァレへと翔んできたのも、そのためだった。
ゲートオブヴァーミリオンが消失すると、遙か地上に向かって自由落下を始めたセツナの背中が見えた。黒き翼を広げ、ゆっくりと落ち行くその姿は、さながら地獄へと堕とされていく魔王のようであり、おおよそ人間が見せる後ろ姿などではなかった。
彼がただの人間であれば、このまま地上に落下するだけで死ぬのだが。
そんなことは、ありえない。
なぜならば、彼は、この後も生き続けたからこそ、ミエンディア最大の敵として立ちはだかったのだ。
だから、容赦はしない。
ミエンディアは、音もなく飛翔すると、一瞬にしてセツナの背後へと迫った。
セツナは、気づかない。
気づくわけがなかった。
この時代のセツナの感知能力では、ミエンディアの気配を感知することなど不可能なのだ。次元が違いすぎる。見ることも、聞くことも、知ることも不可能であり、このまま剣を背中に突き立てられたことも理解できないまま死んでいくだけだ。
(あなたがいけないのですよ)
ミエンディアは、セツナの背中を見つめ、ソードオブミカエルを翳した。
セツナが魔王の杖の護持者でなければ、セツナが魔王の力を完全につかいこなしていなければ、セツナがミエンディアの協力者になってくれていれば、殺す必要はなかったし、滅ぼすことも、消し去ることも、このような終わりを迎えることもなかったのだ。
すべては、百万世界に生きるものたちのため。
(さようなら、セツナさん――)
ミエンディアがソードオブミカエルを振り下ろそうとしたその瞬間だった。
痛みが、左脇腹を貫いた。
(えっ……!?)
ミエンディアは、皮を突き破り、肉を引き裂き、臓腑を蹂躙する激痛に愕然とした。なんの前触れもなければ、突拍子もなかった。なにが起こったのかもわからなければ、なにかが起きるはずもないのだ。この時代において、ミエンディアを知覚できるものなど存在せず、当然、攻撃されるいわれもない。
ましてや、セツナは、ただ落下していくのみであり、彼がミエンディアを迎え撃ったわけではなかったのだ。
剣を振り下ろせぬまま、左脇腹の傷口に目を遣った瞬間、ミエンディアは頭の中が真っ白になるのを認めた。
(これは――)
脇腹に突き刺さっていたのは、禍々しくも破壊的としか形容しようのないもの。
黒き矛だ。




