第三千六百六十七話 異空を翔ける(十)
「させないよ。彼の命と力をもらうのは、ぼくだ」
柔らかな口調で、しかし冷厳に告げたのは、やはりセツナの同一存在なのだろう。
セツナと獣人女の間に割り込んだその男は、背中から光の翼を生やしていた。光の輪も背負っており、見た限り、天使そのものといっても過言ではあるまい。
こちらを一瞥してきたその目は碧く、白髪を合わせて、セツナというよりもクオンに似ているような印象を受けた。もっとも、顔立ちは、セツナのほうが近い。雰囲気が、クオンなのだ。
イーラ以来のセツナに似た同一存在ではあるが、むしろセツナからかけ離れているような印象を持つのは、クオンに近いからだ。
クオンは、セツナと対極に位置する人間なのだ。
しかし、これだけ同一存在もいれば、クオンに似ているものがいたとしても、おかしくはない。
奇妙な気分だったが。
「ぼくの名は、ダ・エボス。ぼくの世界の安寧のため、君には死んでもらう」
クオンに似た同一存在が手にした杖を翳そうとしたそのとき、セツナは、違和感を捉えた。同一存在たちもすぐに理解したようだった。
それは、セツナだけでなく、同一存在たちをも包み込む違和感であり、異空の異変だった。
直後、異空が震え、音にならない音が聞こえたかと想うと、無数の光がセツナたちを包み込んだ。
それら無数の光線は、複雑怪奇な軌道を描き、セツナと同一存在たちを一切区別することなく襲いかかってきた。
それは、セツナだけでなくそれ以外の同一存在も斃し、取り込み、より強大な力を得ようという意思の現れというほかなく、ほかのだれよりも欲深で傲慢であり、その分セツナに近い存在なのではないかと想えた。
が。
「あれも俺かよ!?」
セツナは、光をかわしながら光源を見遣り、その異様さに素っ頓狂な声を上げた。
それは、遙か遠方にいるのにもかかわらず、圧倒的な質量を感じるほどに巨大な存在であり、見るからに異形としかいいようのない外見をしていた。ぬらぬらと発光する純白の体表は、軟体生物のようであり、蛸や烏賊を想起させる。一方で竜のような厳つさを併せ持ち、大陸ほどもある巨躯は、最大時のラグナを連想させる。
しかし、その巨躯から生えた首の数からは、ラグナを関連づけることはできない。無数の首についた頭部、その口腔から光線を吐き出し、セツナたちを一斉に攻撃しているのだ。
頭部は、竜のようであって竜とは異なり、形容しがたい化け物としかいいようがなかった。
音にならない音は、同一存在の化け物が発する咆哮のようであり、それが人間の耳には聞こえない領域でありながらセツナが魔王態であるために、そのように感じとれていたのだろう。そして、その咆哮が意味するところは、明確な殺意であり、セツナを殺し、その力のすべてを取り込もうという意図の現れだった。
それはセツナ以外のだれもが想うところでもある。
同一存在の中でも最大規模の化け物による光線の嵐が吹き荒ぶ中、同一存在たちがセツナの命を狙って行動を開始した。協調性もなければ、協力しようともせず、むしろ敵意をぶつけ合い、殺し合いにさえ発展するほどの闘争は、収拾がつかなくなっていく。
セツナを取り込み、その力を我が物にしたいと願う同一存在たちが一堂に会したのだ。ひとりふたりくらいならばともかく、複数人が集えば、こうなることは火を見るより明らかだった。
異世界に於けるセツナたちなのだ。
我の強さ、欲深さは一級品だ。
異世界の自分と協力して事に当たろうとするものなど、ひとりとしていなかった。
セツナからしてみればなんともいえない状況だが、好都合といえなくもなかった。
彼らが協力してセツナを斃そうとしてきたのであれば、苦戦を強いられたかもしれない。なにせ、相手は、同一存在なのだ。セツナが彼らを殺すようなことになれば、合一が起こってしまう。
同一存在たちは、セツナとの合一を望んでいるのだが、それは自分が主となってのものであり、セツナに取り込まれることではない。そして、セツナも彼らのうちのだれひとりとして取り込みたくなどなかった。
ニーウェとの決戦に勝ったときも、そうだった。
同一存在との合一はしない。
そう決めた。
故に、セツナは、彼らのだれひとりとして殺す気はなかったし、そのために極端に手加減しなければならなかった。
同一存在たちは、実力者揃いではあった。半端な力の持ち主ではなく、おそらく、それぞれの出身世界においてはそれなりの立場にあると見ていい。しかも、それだけではなく、ミエンディアによって強化されてもいるようだった。
天使たちのように。
しかし、それでも、真なる魔王の前では、雑兵にほかならない。
彼らがどれだけ異世界の勇者たちなのであっても、ものの数にもならないのだ。
殺すのは、容易い。
だが、殺さずに倒すというのは、困難を極めた。
強大すぎる力は、多少手加減をしたところで、相手を死に至らしめてしまいかねない。
故に、ミエンディアは、彼らを召喚し、セツナにぶつけてきたのだろう。
(なんのためにだ?)
ようやく、すべての同一存在を沈黙させると、ミエンディアがなにを企んでいるのかと考えた。
やはり、どれだけ考えても、時間稼ぎ以外の答えは出ない。
それも世界統合のための時間稼ぎだ。
しかし、だとすれば、その時間稼ぎは失敗に終わった。
なにせ、すべての同一存在を昏倒させてなお、異空と百万世界に変化がないのだ。それはつまり、統合が進んでもいないということにほかならない。
異空に浮かぶ同一存在たちを見回しても、なんの意味もない。彼らは確かに死力を尽くし、セツナに挑んできたのだが、セツナにしてみれば他愛のない相手に過ぎなかった。問題なのは、ちょっとでも力加減を間違うと殺してしまうというところであり、そのために時間がかかったというだけのことだ。
不意に、光が視界に差し込んできた。
(なんだ?)
光が差し込んできた方向に目を向ければ、そこには多重同心円を描く盾が浮かんでいた。シールドオブメサイアだ。
その周囲にミエンディアの姿はなかった。
(なにを……)
企んでいるのか。
ミエンディアにとって神理の鏡は、極めて重要かつ必要不可欠な存在のはずだ。セツナを、魔王の力を封殺するには、神理の鏡がなければならない。故にミエンディアが神理の鏡を手放すことなど考えられないのだ。にもかかわらず、現実にそうなっている。
周囲を見回しても、異空全域に感覚を走らせても、影すら見つからず、気配さえ感じ取れないのだ。
まるでこの異空から完全に消え去ったかのようであり、セツナは呆然とした。
(どういうつもりだ……?)
セツナは、訝しむ以外になかった。
ミエンディアが神理の鏡を捨てて逃げるわけもなければ、世界統合を諦めるはずもなかった。セツナの打倒もだ。
百万世界の勇者が、そのような真似をするはずもないのだ。
だからこそ、おかしい。
なぜ、ミエンディアは、盾だけを残していったのか。
しかも、セツナを放置して、だ。
複数の同一存在をぶつけたからといって、それでセツナを斃せるなどという甘い考えは持ってはいまい。いくらミエンディアでも、そんなものでどうにかなるなどと想うわけがないのだ。
時間稼ぎにしかならないことくらい百も承知でけしかけてきたのだ。
だったら、その時間でなにかをしているに決まっている。
でなければ、同一存在たちを打ちのめしたセツナが、セツナに異世界を破壊して回るかもしれず、そうなればミエンディアの大目的が、悲願が、百万世界の完全なる統合が叶わなくなるではないか。。
異世界が破壊されるたび、ミエンディアは、自身の力の消耗を気にすることもなく、復元に全力を注いできた。それは即ち、世界がひとつでも欠けることがあれば、統合が不完全となり、失敗するからだ。だから、ミエンディアは血眼になって、セツナの攻撃を阻止しようとしたのだし、破壊後は瞬時に世界を復元した。
だというのに、これでは、いくらでも異世界を破壊できてしまう。
(いや……違うか)
セツナは、シールドオブメサイアの鏡のような表面が明滅していることに気づき、目を細めた。神理の鏡は展開したままであり、その状態で輝き続けている。それがなにを意味するのかといえば、神理の鏡の反射能力が周期的に発動しているということにほかならないのではないか。
しかも、先程、無数の異世界を復元したのと同じだけの輝きを放ち続けているのだ。
つまり、異世界を破壊した瞬間に事象の反射が起こり、復元されるということだ。
無論、事象の反射が発動するたびにミエンディアの力が消耗されることに違いはないのだが、問題もあった。
ミエンディアがどこに消えたのか、ということだ。