第三千六百六十五話 異空を翔ける(八)
異空に出てからというもの、セツナには時間感覚がなかった。
おそらく、イルス・ヴァレや地球とはまったく異なる時間の流れをしているのだろうし、もしかすると、時間や空間、次元を超越した領域であるかもしれない。だからこそ、百万もの異世界を隔絶し続けることができるのだ。
そんな異空に生じた流れに乗るのは、ミエンディアの思惑通りに進むということであり、面白くもなんともないのだが、セツナの目論見もまたその先にある以上は、それも悪くはあるまい。
加速していく流れの中から外を見れば、無数の光点が遙か彼方へ流れ去っていく光景が飛び込んでくる。
まるで異世界群から遠ざけられていくかのようであり、そうすることでセツナの異世界破壊を封殺しようというつもりなのだろうか。だが、そんなことをしても、なんの意味もないのだ。
異空は、ある種、宇宙のようなものだ。
宇宙に漂い、太陽光を反射して輝く星々のように、あるいはみずから光を発する恒星のように、異空に瞬く無数の光点――そのひとつひとつが世界なのだ。つまり、どこまで押し流されようとも、破壊する異世界に困ることはない。
異空である限りは。
(なるほど……)
セツナは、ミエンディアがなにを企んでいるのかわかったような気がした。
百万世界にとっての宇宙たる異空。その果ての果てまで押し流してしまおうというのではないだろうか。
異空にも果てはある。
セツナの脳裏にその光景が過ぎった。異空の果て。なにもない虚ろなる領域。すべての終端。無限の彼方。
そこまで追いやれば、セツナが異世界を破壊するのも多少困難になるかもしれない。なにせ、異世界までの距離が限りなく遠くなるのだ。いくら百万世界の魔王の力を以てしても、異空の果てから異世界群まで到達するには、多少の時間がかかってしまう。
それがミエンディアの狙いなのではないか。
そのわずかばかりの時間さえあれば、百万世界の完全なる統合を果たせ似る違いないのだ。
そうとわかると、セツナは矛を振り回した。異空の流れを断ち切り、慣性をも破壊し、その場に留まる。すると、異空の流れが濁流となって襲いかかってきたのだが、それらは瞬時に生み出した重力場の渦の中に滞留し、さらに繰り出した蹴りの一撃によって自壊を始めた。
その直後だった。
禍々しくも懐かしい殺気を感じ取って、その場から飛び離れた。
黒々とした光の奔流が視界を掠め、異空を歪めていった。
「こっちが本命かい」
セツナは、“真・破壊光線”が飛んできた方向を一瞥し、苦笑した。
それを目の当たりにした瞬間、セツナは自分の推理が明確に外れであり、ミエンディアが実力行使に出てきたということを一目で理解したのだ。
異空の果てに押し流すつもりなど毛頭なく、その途上でセツナを討ち斃し、この戦いに勝利するつもりだったのだ。
いや、あるいは時間稼ぎかもしれない。
だとすれば、推理の一部分は当たっていたということにはなるのだが。
セツナは、再び撃ち込まれてきた“真・破壊光線”を大きく飛んでかわすと、相手を値踏みするように見た。
“真・破壊光線”を撃ってきているのは、セツナそのものだった。
外見からしてセツナ以外のなにものでもない人間の男であり、まるで鏡を見ているような錯覚に包まれそうになった。
実際、鏡写しなのだ。
神理の鏡でもってセツナという存在そのものを反射したとでもいうのだろう。
(いや……違うな)
セツナは、さらに異空を打ち砕きながら迫ってきた黒き光の奔流の攻撃範囲から逃れながら、その男が鏡に映った自分とは多少異なることに気づいた。
顔立ちや背格好は、同じだ。
そこだけは、鏡を見ているようだといっても差し支えがない。寸分違わずそっくりそのままだ。
しかし、身につけているもの、身に纏っているものの形状が微妙に違っていたのだ。
手にしているのは、黒く禍々しい戟であり、身につけているのは、暗澹たる黒さを誇る長衣だった。髑髏の王冠も、魔王の尾もなく、見るからに物足りなさを感じずにはいられない。
完全なる魔王態なのだ。神理の鏡の能力で完璧に再現できなかったとしてもなんら不思議ではない気がするのだが、魔王の力すら完全無欠に反射して見せた神理の鏡がそのような失態を犯すだろうか。
どうにもきな臭くなってきて、セツナは目を細めた。
すると、セツナの顔をしたそれが口を開いた。
「おまえが俺の同一存在か。確かによく似てやがる」
ぶっきらぼうな口調で紡がれた言葉を聞いて、セツナは瞬時に悟った。
「同一存在だって?」
「そう、聞いているぜ」
夜空を覆う闇そのもののような長衣をはためかせ、男は、異空を舞った。間合いを一瞬で詰めるなり、斬りかかってくる。
「あの女にな!」
漆黒の戟を黒き矛で受け止めると、さながら共鳴するかのように互いの魔力が響き合い、炸裂した。衝撃波が全身を駆け抜け、異空を貫く。
(あの女……)
ミエンディアのことだろう。
「だとしたら、ミエンディアに利用されているだけだぞ!」
「それがどうした」
男は、にやりと狂暴な笑みを浮かべた。その笑みは、セツナのよく知る戦闘狂を想起させた。最後まで戦場に行き、戦場に死んだ男の狂気に満ちた笑顔。
「俺はおまえを殺して、その力を奪い取れればそれでいいんだよ!」
それが男の本心であることは疑いようがなかった。
とてもただの人間とは想えない力でもって、情け容赦なく戟を叩きつけてくるのだ。その一撃一撃の重さは、並の相手ではない。
無論、魔王態には遠く及ばないのだが、だからといって軽々しく手にかけていいはずもあるまい。
受け流そうとすれば食らいつき、弾き返せば間髪入れず叩きつけてくる。
力量の差をまったく理解していないからなのか、それとも、この機会を逃すまいとしているからなのか。いずれにせよ、男は、セツナをなんとしてでも殺したくてたまらないようだった。
彼は、同一存在といった。
百万世界には、稀にそのようなものが存在するという。
同じ魂を持つ、異世界に於ける自分。
イルス・ヴァレにおいては、ニーウェハインがそれだ。同じ魂を持つものは、同じ世界にひとりしか存在することが許されず、故に世界によって決戦を余儀なくされたのがセツナとニーウェだ。セツナがイルス・ヴァレに召喚されたせいで、ニーウェはセツナと決戦を行い、どちらがイルス・ヴァレにとって正しい存在なのかを示さなければならなくなったのだから、とばっちりもいいところだっただろう。
しかも、ニーウェの場合は、エッジオブサーストの召喚者であり、複数の眷属を従えてもいた。
カオスブリンガーの召喚者であるセツナは、なんとしてでも討ち斃し、そのすべてを我が物とするほかなかったのだ。
が、ニーウェは、セツナに負けた。
しかも、エッジオブサーストの能力によって魂に変化が生じたために、消滅も合一も免れ、存在することが許されるという結果に終わった。
それはセツナにとっては最良の結末だったのだが。
まさか、異なる同一存在が敵として立ちはだかるとは、想定外もいいところだった。
しかし、ミエンディアの能力を考えれば、できないことではなかっただろう。
ミエンディアは、ゲートオブヴァーミリオンの召喚者でもあるのだ。




