第三千六百六十一話 異空を翔ける(四)
ミエンディアの力を消耗させるためとはいえ、だ。
異世界ひとつを滅ぼすのがこれほど簡単なことだったというのは、セツナにとっても意外としかいいようのない事実だった。想定外といってもいい。
全力でもなければ、多大な力を込めているわけでもなかった。
多少の力で、世界のひとつが滅びた。
軽く小突くような感覚に近い。
それは驚くべき出来事だ。
なぜならば、これまでセツナは、全身全霊の力を込めて敵を攻撃したことが何度となくあったからだ。それこそ、命を燃やすほどに力を注いだことだってある。しかし、それによって世界が滅びることなどなかった。確かに時空に風穴を開け、世界に影響を与えたことはあれど、そのせいでイルス・ヴァレが滅びの危機に瀕したことなどはなかったはずだ。
獅子神皇のほうが、世界に与えた影響は大きい。
もちろん、セツナが力を一点に集中させていたからというのはあるのだろうが、それにしたって異様としかいいようがない。
理由は、ふたつある。
ひとつは、セツナが黒き矛の本体たる百万世界の魔王と真に心を通わせ合ったからだ。地獄での最終試練だけでは理解しきれなかった魔王の心の深淵、意識の奥底に触れ、すべてを理解してしまった。そして、魔王もまた、セツナのことを理解した。
真に相互理解を深め合ったのだ。
故に、カオスブリンガーは、真価を発揮できるようになった。
ただし、それだけでは、真価を発揮できるようになっただけだ。
思う存分百万世界の魔王の力を振るうには、ひとつの条件を満たさなければならなかった。
たったひとつ、ほかには代えがたい絶対条件。
それこそ、イルス・ヴァレの外に出るということだ。
世界の外へ。
百万もの異世界が星の如く漂う次空の狭間。
異空へ。
そうしなければ、魔王の本領を発揮することは能わない。
無論、たとえイルス・ヴァレの内側であれ、魔王の力を阻害し、全力を発揮し得なくするものなど存在しない。魔王がその気になれば、イルス・ヴァレごと周囲の異世界群を消滅させることなど容易いのだ。聖皇が軽々と世界を改変するように、魔王にとって世界を滅ぼすことなど児戯に等しい。
ただし、魔王がその気になれれば、だ。
魔王は、イルス・ヴァレが滅びに瀕するような事態だけは避け続けた。
たとえセツナと真に理解し合えない状態であっても、魔王の力を用いれば、イルス・ヴァレに破局をもたらすことは可能だった。だが、そうはならなかった。セツナが制御できていたからではない。
魔王が制御していたからだ。
セツナは、その事実をいまになって理解し、心底、自分の傲慢さを恥じ入る気持ちになったりしてもいた。
そうなのだ。
黒き矛は、超一流の武装召喚師であるミリュウやマリクですら制御できず、セツナだけが制御できる代物であると、だれもが認めていた。並の召喚武装ではありえないことであり、武装召喚師としての技術や練度とは関係のない相性や、黒き矛自身が使い手を選んでいるからだと考えられていた。
魔王の杖の護持者と呼ばれる理由も、そこにあった。
魔王の杖自身によって使い手として選ばれ、故に莫大無比な力を制御できているのだと想われていたし、想っていた。
だが、違った。
いや、必ずしも間違いではないのだが、完璧な正解ではなかったのだ。
セツナは力を制御していたが、それ以上に黒き矛自身が、カオスブリンガー自身が、セツナに明け渡す力の総量を制御していたのだ。
セツナに預けてもなんら問題が生じず、暴発することもなければ、セツナにとって大切なひとたちを巻き込むことのない程度に抑えられていたのだ。
常に。
常に、魔王は、セツナにどの程度の力を扱わせるべきか慎重に吟味し、検討に検討を重ねていたのだ。
一歩間違えれば、周囲に甚大な被害をもたらしかねず、それどころかセツナ自身を殺しかねないのが黒き矛の、魔王の力なのだ。
それ故、最終試練を終え、地獄から現世へと帰還を果たした後ですらも、最初から全力全開で戦えるようなことはなく、徐々に力を解放していくことになったのだ。
すべては、魔王の厳正な審査の結果だ。
セツナの肉体が、精神が、魔王の力に耐えうる器となっているのかどうか、魔王の力を振るうに値する状況かどうか、周辺はどうなっているのか、カオスブリンガーを通して常に魔王は気に懸けていた。
絶望を乗り越え、真に理解し合ってからであっても、聖皇を凌駕するだけの力を発揮できなかったのも、そのためだ。
セツナが聖皇を打倒するためにイルス・ヴァレを滅ぼしてはなんの意味もないのだ。
だから、ミエンディアがイルス・ヴァレの外へと飛び出すのを待ち侘びていた。ミエンディアとて、イルス・ヴァレを滅ぼすわけにはいかない以上、イルス・ヴァレを戦場にするわけにはいかないのだ。当然、イルス・ヴァレの外が、次空の狭間が、この異空が戦場となる。
すべては、セツナが魔王の力を手にしたときから決まっていたことなのだ。
そして、異空に飛び出たが最後、魔王は出し惜しみをする必要がなくなった。
いま、セツナは、これまでとは比較にならないだけの力を感じていたし、それに比例するようにして五感が研ぎ澄まされているのを認めた。
圧倒的としかいいようのない力だ。
聖皇ミエンディアを一撃の下に屠るだけの力はあるだろう。
まさに一撃必殺といっていい。
だが、それ故にこそ、ミエンディアを攻撃できないという現実に直面していた。
ミエンディアは、シールドオブメサイアに護られている。
絶対無敵の盾にして、神理の鏡たるシールドオブメサイアは、セツナが繰り出す一撃必殺の攻撃さえも跳ね返すのだ。そして、跳ね返されれば、その瞬間、セツナの肉体は千々に砕け散り、魂までもが粉々に消し飛ぶだろう。
軽く撃ち込んだ攻撃でさえ、全身が消し飛びそうになるほどの衝撃となって反射されたのだ。
全身全霊の攻撃など、神理の鏡に叩き込むことなどできるわけもない。
魔王の力が、カオスブリンガーの力が強大であれば強大であるほど、神理の鏡もまた、凶悪極まりないものとなって立ちはだかるのだ。
だからこそ、と、セツナは悪辣に笑う。
「あなたはなにを考えているのですか!」
ミエンディアが猛火のような怒りを込めて叫び、姿を現した。その狼狽ぶりには、明らかな動揺が見て取れたし、焦りを隠そうともしていなかった。いや、隠せなくなったのだろう。
ミエンディアの目的が目的である以上、セツナの凶行を目の当たりにして、焦らずにはいられないのだ。
「世界を滅ぼすなどと……魔王にでもなったつもりですか!」
心底非難するようにいってきたミエンディアだったが、セツナは冷ややかに笑い返しただけだった。
「そうしたのはどこのだれだよ?」
セツナは、黒き矛の切っ先をミエンディアとはまったく異なる方角に向けながら、問うた。
百万世界の魔王の如く。




