第三百六十五話 刃、胸に秘め
ミリュウはファリアの背後から、再びドラゴンを見遣った。白と黒の翼から、まばゆい光の雨が降り注いでいる。それは、破壊の雨にほかならない。ドラゴンの周囲の樹海は、もはや原型を留めてはいないだろう。
ヴリディア周辺の景色など、覚えてもいないのだが。
(なにもかも色褪せた……。あなたのせいで)
魔龍窟の暗闇の中で、ミリュウは、オリアンに救いを求めたこともあった。優しい父ならば、即座に救出してくれると信じていた。マーシアスの暴虐にも屈しないのだと、心の底から思っていた。
けれども彼女の愛しい父親は、悪魔のように笑い、死神のように告げてきたのだ。
『救いが欲しければいますぐ死ぬといい。死にたくなければ、敵を殺せ。そうすれば、いつかは陽の光も拝めるかもしれんぞ』
父親の冷え切った目は、実験動物に向けられるそれであり、少なくとも愛娘に注がれる視線ではなかった。
ミリュウは絶望し、父を憎悪した。救いのない日々の中で、父への殺意だけを募らせていった。オリアン=リバイエンを殺す。でなければ、自分が救われない。いや、自分を救いたいわけではなかった。ただ、恨みを晴らしたいだけなのだ。狂った感情の行き着く先でしかない。
理性など、働くはずもなかった。
すべて、あの地獄で壊れてしまったのだ。
「ちょっと、ミリュウ、苦しい」
「……え?」
ファリアの苦しそうな声に、ミリュウははっとした。夢想から現実に引き戻されるような感覚とともに、自分の現状を把握する。人馬の群れの真っ只中、視界に映る景色は急速に流れている。馬に乗っている、ということを思い出したころ、すぐ目の前から再び苦情が聞こえてきた。
「恐いのかしらないけど、力み過ぎよ!」
「あ、え、ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて」
ミリュウは、自分がファリアの腰を強く抱きしめていることに気づいて、慌てた。緩めすぎると落馬する危険もあり、咄嗟のことでもあり、どの程度力を抑えればいいのか、即座には判断できなかった。
彼女の腰にミリュウの腕が食い込んだのは、ミリュウが用意した鎧の腰回りが無防備だったからだ。その上、ミリュウは彼女に肌の露出を求めた。任務に赴くセツナを応援するためだった。
出陣間際、ファリアのその格好を見たセツナは喜んでいるように見えた。ミリュウの策が当たったのだ。ファリアは当初凄く嫌がっていたし、ミリュウがやればいいといって聞かなかったのだが、セツナの反応を見る限り、ミリュウでは駄目だったに違いない。
セツナはまだ、ミリュウに気を許してはいないのだ。
それがわかるから、ミリュウは本来自分がやるような役割をファリアに押し付けた。ファリアには悪いが、そうでもしてセツナを応援したかった。彼に与えられたのは、過酷な任務だ。クオン=カミヤが同行するとはいえ、精神的な支えであろうファリアが側にいないということは大きいはずだ。
彼の心を支えるようななにかが必要だ。
生きて帰ってきたいと思わせるようななにかが必要なのだ。
それがファリアのいまの格好に繋がるのは、我ながらおかしいと思わないではないが。
「考え事?」
「ええ。別に怖かったわけじゃないの」
ミリュウは、腕の力を弱めながらつぶやいた。ファリアの綺麗な腰は、ミリュウが力を込めなくても折れそうに見えたが、実際は簡単に折れるものでもあるまい。彼女は、ミリュウほどとは言い切れないにせよ、鍛えあげられた武装召喚師だ。武装召喚師は、筋肉の鎧を纏うものだ。
(落ちるのは怖くない)
言い訳ではなく、実感だった。
落馬して、後続の軍馬に踏み潰されて死ぬのも悪くはない。きっと痛いだろう。しかし、苦痛にのたうち回る暇もなく死ねるかもしれない。激流のような勢いだ。捕虜ひとり落馬したからといって、行軍を止めることはできまい。間違いなく、死ねる。それもいい。
そう思うほどに、彼女はいま、死を恐れてはいなかった。むしろ、死こそ救いというオリアンの言葉に同意してもいいくらいだった。別に死にたいわけではないが、生きてどうする、とも思うのだ。
(生きて、なにができるというの。生きて、なにをするというのよ。わたしはすべてを失ったのよ)
ガンディア軍に敗れ、クルード=ファブルネイア、ザイン=ヴリディアというたったふたりの仲間を失ったとき、ミリュウは、天涯孤独の身となったのだ。
ガンディア軍に囚われたからではない。
たとえガンディア軍に捕らわれておらず、無事にザルワーンに戻れていたところで、彼女の居場所などあるはずもなかった。仲間と呼べるものはひとりもいない。ともに地獄を見たものたちは死んでしまった。ミリュウたちが殺してしまった。魔龍窟のわずかばかりの生き残りがミリュウたちであり、先に日の目を見たジナーヴィたちなのだ。孤独が待ち受けているに違いない。
いや、居場所は用意されたかもしれない。魔龍窟の武装召喚師、ただひとりの生き残りとしての居場所が、作られたかもしれなかった。ただし、そこに彼女が求めるようなものは存在しないだろう。温もりや安らぎといったものは、一切。
(温もりや安らぎ……か)
ミリュウは自嘲気味に笑った。いつから、そんなものを求めていたのだろう。いつから、そこまで弱っていたのだろう。
闇の底にいたとき、ミリュウが求めたのは光だった。地上に出て陽の光を浴びたかった。ただそれだけだった。それだけだったはずだ。報復したいという気持ちもあるにはあったが、二の次だった。
あの日、陽の光を浴びた彼女は、世界に色彩が戻ったような感覚に震えた。感動すらしたものだ。ここは地上で、自分は生きているのだ、と叫び声を上げたかった。
けれど、地獄を生き抜いて、得られたものなどなにもなかった。
得たはずの仲間たちは戦争で失い、ミリュウは、再びひとりになってしまった。孤独を埋め合わせるようにして、彼女はセツナに縋った。セツナに縋りつくことができたのは、彼の記憶に触れたからだ。触れてしまったからだ。
(そうよ。全部あなたのせいよ)
毎度のことながら、勝手な言い草だとは思う。しかし、ほかに言いようがなかった。ほかに理由が思いつかないのだ。なぜ、自分が温もりを求めるような人間になってしまったのか。なぜ、自分が安らぎを求めるような人間になってしまったのか。
彼の記憶に触れ、彼の実体を知り、彼と言葉を交わし、彼の肉体に触れてしまったからだ。
セツナ・ゼノン=カミヤという、一見するとなんということもない少年に、気を許してしまった。心を開いてしまった。夢を見てしまった。彼とともに歩む未来を、夢想してしまった。
(セツナの馬鹿。決意が鈍ったらどうしてくれるのよ)
遥か前方で、ドラゴンと戦っているのであろう少年の姿を脳裏に描き、彼女は頬を緩ませた。
黒き矛を手にした少年の姿を想像するのは難しいことではない。最初に戦ったときに網膜に焼き付いている。
殺せたはずの、殺せなかった相手。それはミリュウだけではない。セツナからしても、そうだった。彼は、ミリュウを殺せたはずなのだ。しかし、セツナはミリュウを生かし、心を虜にしてしまった。彼の意図したところではないのだろうが。
胸が鳴る。心地よい響きだ。甘く、儚い音色。これまでの人生の中で、聞いたこともなかったような音。
だから、だろう。
ミリュウは、ファリアの耳元に口を近づけて、囁くようにいった。
「ねえ、ファリア」
「なに?」
「あたしね、セツナが好きよ」
「……うん」
ファリアがこくりとうなずいたのを見て、ミリュウは慌てた。伝えたいのは、彼への想いだけではない。
「ファリアのことも好きよ。大好き。ふたりに逢えて良かった。本当に」
「どうしたのよ。いきなり、なんなの?」
「いま伝えないと、伝えることができなくなりそうだもの。だから、ね」
「どうして? 戦いが終われば、いつでも伝えられるでしょう? それに、セツナへの気持ちなら、本人に伝えないと駄目じゃない」
ファリアは、当然のようにいってきたのだが、ミリュウは彼女の言葉に顔を真赤にした。
(そんなことできるわけないじゃない)
きっと、気恥ずかしさで死にたくなるに違いない。それも、伝えようと少しでも考えた瞬間にだ。
ファリアだからいえるのだ。ファリアにならすべてを打ち明けてもいい。そう思えるのも、全部セツナのせいだ。セツナの記憶の中で、ファリアの存在があまりにも大きかったから、ミリュウもまた、ファリアに対して安心していられるのだろう。
逆流現象以来、ミリュウは自分というものを見失いつつあるのかもしれなかった。逆流の瞬間、自分の記憶とセツナの記憶の境界が曖昧になった。その後遺症が、いまも残っている。そして、後遺症が消えることはなさそうだった。いや、たとえ後遺症が消えてなくなったとしても、いまのミリュウの想いが消え去ることはないのだ。
「戦いが終われば――」
ファリアの言葉を反芻するようにして、口にする。
「ガンディア軍の勝利で、この戦争が終われば、なにもかもうまくいくのかしらね」
「引っかかる言い方ね」
「ガンディアがザルワーンを滅ぼして、それで終わりっていうわけにはいかないでしょ」
いいながら、ミリュウは自分でもなにがいいたいのかわからなくなっていることに気づいた。伝えたい気持ちは既に言葉にしてしまっていて、これ以上言葉を付け足せば、自分の想いが安っぽく飾り立てられていくだけだ。
「そうね。でも、そんなことはわたしたちには関係のないことよ。少なくとも、《獅子の尾》に求められるのは戦果だけ。結果だけよ」
そして、セツナがヴリディアのドラゴンを沈黙させることができれば、要求される戦果は満たされるだろう。これまでの戦果でも十分すぎるほどなのだ。駄目押しになる。
セツナもファリアも、ルウファとかいう青年も、論功行賞を楽しみにしているに違いない。輝かしい未来が待っているに違いない。
その栄光に満ちた世界に自分の居場所を見出しかけて、ミリュウは冷笑した。そこに捕虜の居場所などあるはずもない。戦後、ザルワーンが消滅すれば、彼女も捕虜という身分からは解放されるかもしれない。だが、そもそも、ミリュウに戦後の風景を見ることができるのかどうか。
「そうね。あなたたちには、関係のない話だったわ。忘れて」
「ミリュウ?」
怪訝そうな顔でこちらを振り返ってきたファリアに対し、ミリュウは満面の笑顔で応えた。
「さあ、セツナの戦場まであと少しよ。ちゃんと応援してあげなさいよ」
「な、なにをいっているのよ」
ファリアが妙に恥ずかしそうにしたのは、自分の格好を思い出したからかもしれない。