第三千六百四十六話 絶望の中の希望(十)
聖皇ミエンディアを滅ぼす。
魔王は、そう宣言した。
魔王の宣言がどれほど大きな意味を持ち、どれだけ大きな衝撃となって百万世界を駆け抜け、イルス・ヴァレにまで届くのかはセツナにはわからない。わからないが、とんでもないことであるということくらいは理解できる。
魔王は、五百年前には動かなかった。
また、数年前の最終戦争時にも、魔界か地獄に在って趨勢を見届けていた。
この期に及んでも、みずからは動かず、セツナが動くに任せていた。魔王の杖の護持者たるセツナがするがままに任せていたのだ。
それが突如として動くといった。
聖皇を滅ぼすと。
セツナは、魔王に問おうとしたが、声が出なかった。魔王の前では発言権など持っていないとでもいうような、そんな迫力と威圧感に襲われている。
「なぜ、いまになって……と、おまえは考えている」
魔王は、セツナの顔を覗き込むようにして、いった。セツナの思考などお見通しだといわんばかりであり、実際そうなのだろうということは、魔王のみならず腹心たちの反応からも明らかだ。セツナ以上にセツナの心の内を理解し、真実を突きつけてきたのが腹心たちなのだ。
「理由はひとつ。おまえが失敗したからだよ」
魔王は、冷徹な声で、突き放すようにいった。
もはやセツナに興味はなく、なんの感慨もないといわんばかりの様子だった。
(失敗……?)
なにをいっているのか、と、セツナは想ったが、声に出して問えなかった。喉が縛られているように声がでない。呼吸すらままならないような感覚がある。いや、それどころか、立っていられるのがやっとという有り様だった。
なぜ、ここまで追い詰められているのか。
なぜ、ここまで切迫しているのか。
焦燥感や苛立ちといった様々な感情が綯い交ぜになっていく。
(ああ……)
と、セツナは、はたと気づいた。
これが、絶望というものなのかもしれない。
「だが、気にすることはない。これまでもそうだった。何度も、何度も……希望を見せては絶望に堕ちていったのだ。数え切れないくらいに何度となく……繰り返してきたことなのだ」
魔王は、セツナを見つめながらも、セツナ自身ではなく、その遙か彼方を見遣っているようなまなざしをこちらに向けていた。遙か悠久の彼方。こことは異なる時空の向こう側。いまや忘れ去られた遠い遠い過去に想いを馳せているような、そんな感覚があった。
そして、その瞳に映っているのはひとつの感情だった。
夜よりも深く、闇よりも昏い、底なしの暗黒――。
(絶望している……?)
魔王こそが絶望しているのではないか。
いや、だからこそ、魔王なのかもしれない。
百万世界と呼ばれる異世界群に蔓延る魔という魔の王にして、混沌と破壊の支配者、慟哭と絶望の権化であり、邪知暴虐の統率者――それが彼であり、百万世界の魔王と呼ばれる存在なのだ。
それほどの存在ならば、だれよりも絶望していたのだとしても、なんら不思議ではない。
むしろ、納得がいく。
納得し、理解できたからといって、状況は依然変わりようがないのだが。
「今度こそは、おまえこそはと想ったが……どうやら我の思い違いだったようだ」
彼は、心底無念そうにいった。もう少しで目的が果たせたとでもいうように。あと一押しで悲願を叶えることができたとでもいわんばかりに。
セツナに期待していたとでもいいたげに。
「おまえは絶望に堕ち、希望は潰えた」
魔王は、凍り付くような声で、断言した。
セツナに反論の余地はなく、意見をいえるはずもなかった。絶望している。絶望が、心の奥底から全体に広がり、なにもかもを蝕んでいる。
「故に、我は立ち上がろう。魔界の全勢力をもってイルス・ヴァレに侵攻し、聖皇とその輩どもを打ち倒し、攻め潰し、消し滅ぼそう。その結果、イルス・ヴァレは滅びるだろうが、致し方ない。前進には、犠牲が付きものだ。百万世界の調和のためならば、世界ひとつ滅びたところでどうということはない。そうだろう、セツナ」
魔王は、恐るべきことを口にすると、同意を求めるようにいってきた。
「おまえも、そうやって邁進してきたはずだ」
魔王の目から視線を逸らすことはできなかったし、彼の言葉から耳を塞ぐこともできなかった。見て、聞いて、感じて、考えなくてはならなかった。真正面から受け止めなければならなかった。
魔王の言葉は、まるで強力無比な呪文のようにセツナの心に浸透し、絶望の闇に沈んでいく。
絶望に絶望が溶けて、より深く、より昏い闇へと変容していくのがわかった。
けれども、止められない。
「我が手を取り、我が杖を、黒き矛を振り翳し、立ちはだかる敵はすべて、一切の情け容赦なく打倒し、殺戮し、殲滅してきたはずだ。そして、そうやって得た血まみれの勝利こそ、おまえに栄光と未来を与えてきたのだ」
脳裏に光芒が煌めく。
輝かしい黄金時代。
ガンディアに栄光をもたらす英雄としての日々。
しかし、それは裏を返せば、血塗られた日々でもあったのだ。
セツナの居場所は、戦場に在った。戦場で敵を斃し、敵を屠り、敵を滅ぼし、屍の山を築き、血の河を作ることでこそ、セツナの存在意義は生まれ、存在価値があった。戦わなければならなかった。戦い続けなければならなかった。
敵を殺し続けること。
それだけがセツナの存在理由だったのだ。
だから、殺し続けた。
不要なまでに殺戮を続けた。
虐殺といっても過言ではないくらいにひとを殺し、気がついたときには、もう戻れない領域の深奥へと足を踏み入れていた。
この手は血にまみれ、魂は怨嗟と呪詛に覆い尽くされている。
「数多の敵を斬り殺し、数多の屍を踏み潰し、数多の勝利を掴んできた。それがおまえだ。我らが勝利のための犠牲は例外だとはいうまいな?」
「……いわないさ」
やっとの想いで、声が出た。たぶん、魔王が発言を許可したからだろう。だから、言葉を発することができたのだ。
だからといって、いえるはずもない。
「あんたのいうことに間違いはない。全部、正しいよ。俺はそうやって生きてきたからな。あんたの力に頼りっぱなしで、あんたの力の大きさに、その恐ろしさに気づかないまま、いや、気づかない振りをして、戦って戦って戦い抜いて……それで数え切れない命を奪ってきたんだ」
数え切れない屍の上に立っている。
その事実を忘れたことは一度だってない。
だから、許されるべき存在ではないということも、理解している。
「いまさらさ、なにもかも。なにもかもいまさらなんだ」
セツナは、肯定した。
前に進むために払うべき犠牲を払ってきたからこそ、いま、自分がここにいるのだということをだ。ガンディアの黄金時代も、“大破壊”以降の日々も、仲間たちと再会できたのだって、必要な犠牲を払い、斃すべき敵を斃してきたからこそなのだ。それによって涙を流したものもいるだろうし、傷つき、倒れたものたちも数知れないはずだ。
そういった犠牲者の存在から目を瞑ってきたからこそ、いまがある。
無論、“大破壊”以降は、殺さずに済むのならばそれに越したことはないという考え方の元で戦ってきており、できるかぎり犠牲者を出さない方法を取ってきたつもりだ。しかし、それでも万全ではなかった。セツナは、全能の神でもなんでもないのだ。
手の中にあるのは、破壊の力だ。
手加減こそできても、それだけなのだ。
犠牲者を完全になくすことはできなかった。
それでも、前に進まなければならなかった。
そして、多少の犠牲はやむを得ない、と、言い訳をしてきたのだ。
魔王の場合は、それが世界規模だったというだけのことだ。
セツナたちとの違いは、犠牲の大小に過ぎない。
魔王の言を否定することは、自分たちのやってきたことを棚上げする行為にほかならない。
だから、否定はしない。けれども。
「でも、だからこそ、俺は、ここであんたを止める」
セツナは、震える拳を握り締めて、魔王を睨み据えた。