第三千六百四十三話 絶望の中の希望(七)
「セツナは……」
ファリアは、遙か眼下を睨み据えていた。
視線の先にはセツナがいるはずだった。
この世界における最大の悪にして、憎き大敵たる魔王セツナ。彼は、聖皇ミエンディアに力を分け与えられた聖天使の軍勢に取り囲まれ、身動きが取れなくなっていた。そこへ、やはり聖天使となったファリアたちが最大威力の攻撃を叩き込んだのだ。
圧倒的な力を誇り、防御障壁もまた強靭無比であろう魔王だったが、ファリアたちが力を合わせて繰り出した一撃は、魔王の防御障壁を突き破り、割って見せた。
その直後だった。
魔王の全身が闇に包まれていく光景を見た。
そして、ファリアたちの繰り出した攻撃が空を切り、彼方の海面に突き刺さった。凄まじい力の塊の衝突によって、海に巨大な穴が開く。海水が蒸発し、あるいは渦巻き、海が荒れに荒れた。
そのころになって、ようやく視界は正常化し、魔王の所在を確認できたのだが。
「いない?」
魔王がいたはずの空間には、影も形も残っていなかった。先程の攻撃によって消し飛ばしていないことは、はっきりとわかっている。となると、考えられることはそう多くはない。
「消えたみたいですね……空間転移でしょうか?」
「どうかしらね……」
ファリアは、疑問を持った。
カオスブリンガーによる空間転移は、血を触媒にしなければならない。しかし、防御障壁の向こう側にいた魔王は、そんな素振りさえ見せていなかった。まるでファリアたちの攻撃を受け入れるかのように待ち構えていたのだ。
だとすれば、どうやって魔王は姿を消したのか。
ファリアたちの知らない能力、技術を隠し持っていて、それを使ったのだとしてもおかしくはない。なにせ、魔王なのだ。ファリアたちの信頼を裏切り、心を踏みにじり、感情を蹂躙したあの魔王ならば、隠し事のひとつやふたつあるだろう。ないと考えるほうがどうかしている。
「もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないわ。探しましょう」
「そうですね。それがいい」
「わかったわ」
「うむ、よかろう」
ファリアの提案に、だれひとりとして反対しなかった。
だれもが心に傷を負っていて、やり場のない激情を収める方法を探している。
その方法のひとつが、魔王を止めることだ。
魔王セツナ。
彼の暴挙を止めなければ、この世界は終わる。
やっとの想いで復活を果たし、この世に安寧をもたらそうとしている聖皇の悲願を叶えるためにも、魔王の暴走だけは止めなければならないのだ。
そのためならば、自分の命など惜しくもない。
いや、むしろ、自分の命を擲つことで魔王を止められるのであれば、喜んでそうしよう。
魔王を信じ、身も心も委ね、すべてを捧げた結果がこのザマだ。
魔王は、自分の手で止めなければならない。
そう、ファリアは想っていたし、ファリア以外の皆もまたそう信じているのだ。
そうして散開し、魔王捜索に動き出そうとしたときだった。
ファリアの目の前に少女が現れたのだ。
「トワちゃん……?」
その少女は、少し前にファリアたちの前から姿を消した女神トワだった。トワは、痛ましい表情でこちらを見つめているのだが、なぜ、そのような顔をしているのかはわからなかった。むしろ、ファリアたちのほうがトワに対し、そのような表情にならざるを得ないというのにだ。
「……どうして、セツナと一緒に行動していたの?」
「兄様が可哀想だったから」
想像していた通りの答えを、少女神はいった。
まあ、そうだろう。
トワは女神だが、セツナの妹なのだ。邪悪なる神によって変容させられたセツナの母、その臓器より誕生したのが、彼女なのだ。母なる願いと祈りが生み出した奇跡の存在。それがトワであり、彼女は、セツナを兄と慕っていた。
トワにしてみれば、セツナはたったひとりの兄なのだ。たとえ魔王に身を堕とそうとも、彼を信じ、彼を助けようとする気持ちもわからなくはない。
「でも、セツナは魔王よ」
告げるだけで、心が軋んだ。まるで心の形を自分の力でねじ曲げているような、そんな感覚に陥る。激しく傷つき、痛み、震える。
「兄様は、兄様だよ?」
トワの真摯なまなざしは、彼女が心底そう信じているからこそなのだろうが。
ファリアは、そんな彼女が羨ましく想えたし、同時に哀れにも感じた。
ああ、この子はまだ、騙されているんだ――ファリアは、そのように考えざるを得なかったのだ。
長年――魔王がこの世界に現れてからほとんどずっと一緒であり、寄り添い、協力してきたはずのファリアでさえ騙されていたのだ。ほんの少し前に誕生したばかりの女神には、魔王の本質など理解できようはずもない。
だからといって、トワの気持ちを汲んでやることなどできないのだが。
「そうね。でも、魔王は斃さなきゃならないのよ」
諭すように、いう。
「邪魔だけはしないでね、トワちゃん」
「……しないよ」
トワは、なにかを諦めるかのように、いた。
「できるわけがないもの」
そういってトワが見下ろしたのは、セツナがいたはずの空間であり、そこにはやはりだれもいなかった。
視界を覆ったのは、闇だ。
光なき暗黒の闇であり、それが禍々しくも獰猛にセツナの目の前を覆い尽くしていく過程で、周囲の音も聞こえなくなっていったし、あらゆる感覚が断絶されていくのがわかった。
まるで空間転移のようだ。
しかも完全に安定した空間転移ではなく、不完全で不安定な空間転移だ。
きっとそれは、強引に空間転移を引き起こしているからこそのものなのだろう。
やがて、空間転移が終わる。
失われたすべての感覚が復活した――はずなのだが、なんだか物足りなかった。聴覚も触覚も嗅覚も、そして視覚も、はっきりとしている。だが、物足りない。なにかがおかしい。
(なんだ……?)
この違和感の理由を考えている暇は、しかしながら、まったくといっていいほどなかった。
視覚が復活したのだ。
空間転移した先の光景にこそ注目しなければならなかったし、注目せざるを得なかった。
見たこともない景色が眼前に広がっていたのだ。
なんといえばいいのだろうか。
禍々しくも幻想的な光景が、目の前に広がっている。
前方には、黒々とした大地が横たわり、その上を異様な形状の造形物が乱立している。それらがいったいなんなのかまったくわからなかったし、想像のしようもなかった。そして、造形物が立っている地面には、なにかが蠢いているのが遠目にもわかった。それらもまた、なんなのかはわからない。わかるのは、造形物とは違い、動いているということだけだ。
生き物かもしれないし、別のなにかかもしれない。
頭上は遙か彼方まで赤黒い闇に覆われており、その闇もまた激しく蠢動していた。闇が動いているのではない。空と地上の間をなにかが飛び交っているのだ。
(なんなんだよ……いったい……)
セツナは、想像もつかない事態に驚くよりも先に呆然とした。
想定していた状況とはまったく異なるからだ。
つぎに感じたのは、空気の重さだ。全身にのし掛かるような重圧があり、並の人間では立ってさえいられないのではないかと想った。
常日頃から鍛えに鍛え、魔王の杖と眷属たちを身に纏っているからこそ、自分は無事なのだ――
そう考えた矢先、セツナは、愕然とした。
「ない!?」
見れば、カオスブリンガーも、メイルオブドーターも、ほかの眷属たちもすべて、セツナの身の回りから消失していたのだ。




