第三千六百四十二話 絶望の中の希望(六)
シグルド=フォリアーは、刀身が半ばで折れた剣グレイブストーンを構えていた。
湖面のように碧く透き通った剣は、セツナが師と仰いだ天才剣士ルクス=ヴェインが愛用した魔剣にして召喚武装だ。折れたことで本来の能力こそ失っているようだが、武器として使う分には十分すぎるほどの性能を発揮している。
だからこそ、シグルドは、折れた剣を使用しているのだ。なにも弟のように可愛がり、また部下として信を置いていたルクスの愛剣だから、折れたままの剣を使っているわけではない。無論、そういった感傷が一切ないとはいわないが。
「やってくれたもんだな、おい」
シグルドは、絶望的な表情の中に憤怒を覗かせ、セツナを睨み付けてきた。彼の心の中に渦巻く複雑な感情が怒りとなって迸り、殺意となって噴き出している。
セツナは、またしても痛みとやりきれなさを覚えたが、だからといってどうすることもできない。
そんな表情と感情をぶつけてくる相手は、なにもシグルドだけではないのだ。
いまや数百人、数千人規模に膨れ上がった天使たちは、全員がセツナに同じような表情を向け、感情をぶつけてきていた。哀しみや嘆き、怒りや失意が入り交じった絶望の波動。
シグルド率いる《蒼き風》からはジン=クレールやそれ以外の団員たちが天使の軍勢に参加しており、シグルドの攻撃に続こうとしている様子が窺い知れる。
「この期に及んで裏切りたぁ、師匠に申し訳が立たないとは思わねえのかよ!」
慟哭とともに斬りかかってきたシグルドは、その凄まじい勢いでもってセツナに肉薄した。もちろん、セツナはシグルドの斬撃を軽々とかわしたのだが、迫力に飲まれそうになったのも事実だ。真正面からぶつけられる負の感情のあまりの巨大さにたじろいだのだ。
辛くも喰らわずに済んだのは、魔王の力のおかげというべきだろう。
魔王の力と天使の力の差はあまりにも大きく、たとえ天使たちがなんらかの加護や祝福によってその身体能力を大幅に強化されているのだとしても、相手にならなかったからだ。
そうなのだ。
シグルドたちは、ただ見た目に変化しているだけではなかった。
神々の加護や祝福を受けたもののように、その戦闘に関する能力が飛躍的に向上しているのだ。彼らが平然と空を飛んでいるのも、加護と祝福の影響に違いない。
ただし、彼らは使徒ではないようだった。
使徒ならば光り輝いているだけでなく、姿形までもが変わっているはずだからだ。
その点だけは、ほっとする。
「想っているさ。想っているから、こうしているんだろう?」
「だったら大人しく降参しろよ! そうすりゃ、悪いようにはしねえ! 俺が約束する!」
「あんたが?」
「ああ、そうだ! 俺が聖皇様に掛け合ってやる! なんたっておまえは、ルクスの弟子だからな! たったひとりのあいつの弟子だ……!」
シグルド率いる《蒼き風》の戦士たちが、団長と息の合った連携攻撃を繰り出してくるのだが、セツナはそれらを捌き続けた。
その間もセツナとトワの周囲には、どこからともなく転送される天使の数が増え続けている。いまや五桁を超えているのだが、増加傾向に終わりは見えない。
「俺は、あんたたちを裏切ったんだぜ」
そう嘯けば、胸がちくりと痛んだ。
シグルドが思わず手を止めたのは、そんな言葉を聞く羽目になるとは思っていなかったからなのか、どうか。すると。
「なぜ、裏切ったんだ」
聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
烈しい殺気とともに襲いかかってきたのは、天使ではなかった。
天使よりも眩くも神々しい光を放つそれは、まさに神そのものだった。
「セツナ」
「……ニーウェ」
頭上から殺到してきたのは、ザイオン帝国の守護神ニヴェルカインと合一したニーウェハイン・レイグナス=ザイオンであり、彼のまなざしにはやはり怒りの炎が燃えていた。
元より強力な神であるニヴェルカイン神だったが、神でありながら天使たち同様の強化措置を受けているらしく、その一撃は強力無比といってよかった。しっかり受け止めなければ、いまのセツナであっても重傷を貰いかねない。
それくらいの攻撃を一瞬の内に連続的に叩き込んできたのがニーウェハインであり、ニヴェルカイン神だった。
一挙手一投足が、殺意に満ちている。
「なぜだ! 答えろ!」
ニーウェハインの怒号が空間を揺さぶり、神威がいくつもの光の刃となってセツナに襲いかかる。
セツナは、四方八方から襲いかかってきたそれら光刃に羽弾をぶつけることで相殺すると、ニーウェハインの剛力を撥ね除けて見せた。
ニーウェハインの質問には答えず、彼の視線を振り切り、飛ぶ。
そこへさらなる殺気が怒濤の如く押し寄せてきた。
天使のような竜の群れがつぎつぎと咆哮すれば、また天使のように輝く皇魔たちも同じく魔法を放つ。そこへ天使のような武装召喚師たちが続き、天使のような魔晶人形や、天使のような人間たちがセツナひとりに攻撃を集中させる。
既に百万は軽々と超える戦力がセツナを包囲しており、それら百万の天使のうち、遠距離攻撃を得意とするものたちの一斉攻撃が始まったのだ。
竜語魔法に召喚武装、皇魔の魔法にただの弓射が入り交じっているのだが、ただの矢とは思えないほどの速度で飛来するそれらがまったく脅威にならないかといえば、嘘になる。万全な防御態勢を取らなければならないし、油断は命取りとなる。
だから、セツナは、一切油断しなかったし、護りを固めることに専念した。
魔力でもって防御障壁を構築し、自身に襲いかかるすべての攻撃を遮断する。
「そんなことをして、いったいなんになる?」
マユラ神の声が聞こえたのは、背後からだった。
まるでセツナの影に寄り添うようにして、絶望の化身は現れたのだ。
「この世界には、もはや、おまえの居場所などどこにもないというのに」
「……そうかい」
マユラ神の絶望的な声を聞きながら、セツナは、笑った。笑うしかなかった。
これほどまでに絶望的な状況は、生まれて初めてだ。どんなときだってどこかに希望があり、光があったのではないか。たとえそのとき絶望に追い詰められたのだとしても、後から見返してみれば、そこまで落ち込むようなことではなかったはずだ。
ここまで追い詰められたことなど、あっただろうか。
あるわけがない。
「そいつぁ……よかった」
セツナは、マユラ神にそう言い捨てると、頭上を仰ぎ見た。
闇の塊のような分厚い防御障壁の遙か彼方、上空に一層強い輝きを放つ天使たちの姿があった。
それがファリアであり、ルウファであり、ミリュウであり、シーラたちであることは、セツナの視力をもってすれば一瞬で認識できたのだが、故にこそ、セツナは、より絶望的なものを感じざるを得ない。
ファリアたちは、それぞれに武器を構えていた。
オーロラストームが、シルフィードフェザーが、ラヴァーソウルが、ハートオブビーストが――それぞれの武器が閃き、同時に攻撃が繰り出されたかと思うと、空が震撼し、セツナの防御障壁が割れた。
そのときだ。
昏い闇が、セツナの視界を覆った。




