第三千六百三十九話 絶望の中の希望(三)
「それに、だ」
セツナは、目線をマユラ神から外すと、トワを一瞥した。トワは、セツナを癒やしてくれたようにミエンディアの力の影響下にはない。
「俺に対する価値観がすべて反転したっていうんなら、トワはどうなんだ? それにあんたもだ。別段、変わったようには見えないんだけどな」
「そうだとも」
「なに?」
「そうだといったのだよ、セツナ。トワも、わたしも、反転してはいないのだよ。それぞれ理由は異なるがな」
マユラ神に視線を戻せば、少年神は、冷然とした表情でこちらを見下ろしてる。絶望を司る神に相応しくないくらいに眩く神々しい光も、凍てついたもののように感じられた。
「反転したのは、好意や親愛を始めとする肯定的な感情であり、価値観だ。その反転した感情を元に記憶をねじ曲げられたようではあるが、元よりおまえに好意を抱いていないものが逆に好意を抱くようなことはなかったのだ。つまり、わたしは、おまえに希望を見出さないし、絶望を見ているだけだよ」
「だったら、トワはなんなんだよ」
「特異点」
「特異点? なんだそりゃ」
「……生まれたばかりの神だからだろうな。ミエンディアは、トワとおまえの繋がりを見過ごしてしまったのだ。故に、おまえとトワの関係は反転しなかった。おそらく、だがな」
「憶測かよ」
吐き捨てるようにいったものの、マユラ神でさえ憶測でしか判断できないのがミエンディアの力なのだろうということはわかった。
あの一瞬でセツナと繋がっているすべての存在の価値観が変わったというのだ。だれも抗えず、神々までもが巻き込まれ、影響下に組み込まれてしまった。いまやミエンディアの力は、絶対的といっても過言ではないのではないか。
無論、だからといって諦めるつもりは毛頭なかったし、絶望している場合でもなかった。
「だが、事実だ。マユリとは違い、わたしはわたしのままであり、トワもまた、トワのままだ。それはおまえが一番よくわかっていることだろう?」
「……ああ」
静かに肯定する。
否定しようがないし、そんなことで言い合いをしている場合でもない。
そこに現状を覆す手がかりがあるとも思えない。
「要するに、だ。いまや俺は、この世界に生きるすべてのものの敵となったわけだ。トワを除いて、な」
「そういうことだ。よく理解しているじゃないか」
マユラ神が小さく笑った。その笑みに不穏なものを感じずにはいられないし、空気そのものが張り詰めていくのを認めるほかない。
「……そういや、ひとつ、聞いていないことがあった」
「なんだ?」
「レムは、どうなったんだ?」
セツナは、ようやく先程から感じていた疑問を口にした。
ミエンディアによる反転現象とでもいうべき事象が起こったときからというもの、レムは存在そのものが消え失せてしまったかのようだった。気配も感じられなければ、命の、魂の繋がりさえも見失ってしまっている。まるでレムが消滅してしまったかのようであり、そのことは、セツナに多大な不安を与えていた。
レムは、セツナの命をその力の源としている。いうなれば、神の使徒のようなものであり、使徒などと異なるのは、“核”を持たず、セツナが生きている限り、不老不滅の存在だったということだ。どれほどの重傷を負ったとしても、たとえ肉体を真っ二つに断ち切られるような致命傷を受けたとしても、立ち所に復元するのが死神レムだったのだ。
それなのに、いま、レムの気配も感じられない。
レムのセツナへの感情が反転し、ファリアたちとともに敵に回ったというのであればわからなくはないし、受け入れようもあるのだが、レムの存在そのものを感じ取れなくなるのは、如何ともしがたい気分だった。
「レムか。あの娘は、おまえとの繋がりを反転されたことで存在できなくなって消滅した」
「消滅……だと」
「そうだ。消滅だ。この世から跡形もなく消えて失せたのだ。おまえが殺したも同然だな」
冷酷に告げてくるマユラ神をセツナは睨んだ。矛を握る手に力が籠もれば、矛もまた、強く反応する。
「……なんだと」
「おまえがあれに挑まなければ、このような状況にはならなかったといっているのだよ」
その瞬間だった。
マユラ神の光背が輝き、空間がねじ曲がった。衝撃波が来る。轟音とともに休息所の広間が崩壊したかと思った直後、屋根が軋む音がした。
一瞬だった。
凄まじい熱量の光が、セツナを中心とする周囲一帯を蹂躙し尽くしたのだ。天井を吹き飛ばし、壁や柱を打ち砕き、床に大穴を空け、休息所に存在していたありとあらゆるものをひとつ残らず灼き尽くしていく。
「兄様!?」
愕然としたトワの悲鳴を聞いたのは、彼女を“闇撫”で包み込んだのとほとんど同時であり、セツナ自身は、閃光の奔流の中で飛んでいた。幸い、マユラ神の攻撃を想定して防御障壁を張っていたこともあり、セツナは掠り傷ひとつ負わずに済んだ。
(だれだ?)
セツナは、光熱の嵐によって蹂躙される領域から離脱しながら、空の彼方を睨んだ。
休息所を一瞬にして消滅させたのは、マユラ神の攻撃ではなかったのだ。
遙か上空から休息所を狙い撃ちにした攻撃。
それも凄まじい精度と威力、範囲を誇る攻撃であり、並大抵の力の持ち主ではないことは明らかだった。
すると、漂う陽炎の向こう側、蒼穹の彼方に光り輝く七つの目を発見する。
「あれは……」
言葉にするのも億劫になるのは、その七つの目のように見える存在に見覚えがあったからだったし、心底信頼してもいたからだ。
ベノアガルド神卓騎士団幹部ロウファ・ザン=セイヴァスの真躯セブンスヘブンズアイ。高空からの超長距離射撃を得意とする真躯であり、その火力は、いましがた目の当たりにした光景からもわかるとおりだ。
マユラ神がいっていたことが現実になったのだ、と、理解する。
騎士団幹部たちもまた、セツナへの敵意や憎悪を募らせ、みずからの意志によって襲いかかってくるようになったのだ。
だから、セブンスヘブンズアイが攻撃してきたのだ。
そして、セブンスヘブンズアイが攻撃してきたということは、だ。
「おらああああっ!」
背後から猛獣の雄叫びにも似た大音声とともに殴りかかってきたのは、ベインだった。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートが駆る真躯ハイパワードレッドの巨腕が唸りを上げ、迫り来る。
いや、それだけではない。
ハイパワードレッドに対応するべく振り向くのと同時に、背後から殺気だ迫ってきたのだ。その場の気温が急激に上昇するほどの温度を伴って飛びかかってきたのは、シド・ザン=ルーファウスの真躯オールラウンドオーバーだ。
二体の真躯による挟撃に対し、セツナは、怯むことなく反応する。
ハイパワードレッドの巨腕は、カオスブリンガーでいなし、雷火の如きオールラウンドオーバーの突貫は、魔王の尾で捌く。
二体の真躯を自分を中心とする反対側に弾き飛ばすようにして窮地を脱すると、透かさず上空に飛び上がる。
その瞬間、さっきまでセツナがいた空間が凍り付き、巨大な氷の牢獄が完成した。
気配を見遣れば、極彩色の真躯がこちらを見つめていた。
ルヴェリス・ザン=フィンライトの真躯ダブルフルカラーズ。
ここベノアガルドの地に、騎士団幹部の生き残りが勢揃いしたというわけだ。




