第三百六十三話 矛と盾(十一)
黒き竜が吼えたとき、セツナは再び空間転移を行っていた。竜の脳天に叩きつけた一撃は血を見せ、竜の血はセツナに無数の風景を見せた。その風景のひとつに飛び込むような感覚とともに、彼の肉体は竜の首元に転移した。すかさず斬撃を叩き込もうとしたものの、竜の全身から溢れる力の奔流がセツナを吹き飛ばした。シールドオブメサイアの防壁もろとも吹き飛ばされては、どうしようもない。
「なんだあれ……?」
上空に投げ出されたセツナが見たのは、黒竜の全身に走る光の模様だった。古代文字の羅列のようにも、複雑な紋章が無数に浮かび上がっているようでもある。
セツナは竜の身に起きた変化を見届けることもできず、地上に落下していった。光が発散していく様が見えた。大気が震撼し、戦場と樹海までも震えたようだった。嫌な予感がした。地面が迫る。着地。痛みもなく、衝撃もない。まるで夢の中にいるような感覚ではあったが、目や口に入り込んでくる砂埃の存在は、これが現実であることを示している。
(これは防げないのか?)
その場で立ち上がりながら、どうでもいい疑問をつぶやく。口の中の砂を唾と一緒に吐き出したころには、忘れてしまうようなことだ。そのころには、セツナの意識はドラゴンに向いている。
落下したのは、樹海の手前だった。竜の攻撃によって倒壊した木々の数々が、荒廃した大地を演出しているかのようだ。黒き竜の攻撃がいかに苛烈で破壊的なのかが一目でわかるのと同時に、クオンの協力がなければまともに戦えていなかった事実も認識する。シールドオブメサイアの防壁がなければ、セツナは、この木々と同じような運命を辿っていたのかもしれない。
もちろん、盾が有ったからこそ、クオンの、シールドオブメサイアの能力を信用したからこそ、無謀な戦い方をしたというのはある。防御を捨て去ったような戦い方など、常に出来るはずもなかった。盾がなければ、別の戦い方をしたに違いないのだが、かといって、その戦い方でドラゴンに致命的な攻撃を叩き込めたものかどうか。
(無理かもな)
黒き竜に接近する手段といえば、血による空間転移しか思いつかなかった。自分を傷つけることで敵に接近するという手法は、何度も使えるものではない。体が持たない。いまも、最初に切りつけた部分が痛みを訴えてきているのだ。二度も三度も切りつけられるはずもなかった。
そうなると、数少ない機会であのドラゴンを撃破しなければならなくなる。
(クオンさまさまだな)
シールドオブメサイアあってこその無謀な戦闘、無茶な発想であり、クオンの手助けなしでは、この短時間でドラゴンの腕を切り裂くということすらできなかったかもしれない。
そのドラゴンは、腕を斬り裂かれたことで激昂したのか、力を拡散し、セツナを弾き飛ばしたのだが。
竜を見遣り、セツナは愕然とした。
「またかよ!」
黒き竜は、肉体を変化させていた。黒き矛の能力を模倣するだけでは、セツナとクオンに対抗できないと判断したのかもしれない。数百メートルの巨躯を誇るドラゴン。右半身は黒き竜そのままであり、左半身は純白に輝く外皮に覆われていた。
左腕も純白の外殻に覆われることで復元したように見える。右半身と左半身では形状が大きく異なっていた。歪な右半身と、円を描くかのような左半身。頭部、特に顔面はまったく違う。右半身は相変わらずの複眼で、左半身の目はひとつだけだった。
「シールドオブメサイアも模倣したのか」
セツナが驚愕したのは、シールドオブメサイアの模倣にではない。ヴリディアのドラゴンがクオンの盾を模倣したという話は聞いている。彼が驚いたのは、黒き矛と白き盾を同時に模倣したことだ。考えたくもなかったことを平然と実現するあたりに、ドラゴンの性格の悪さが窺える。
「どうやら、そうみたいだね」
あきれたようなクオンの声は、左前方から聞こえた。セツナの落下地点に駆け寄ってきたのだろう。戦場は広く、彼の立っていた場所からセツナの落下地点までは相当な距離があったはずだが、彼は呼吸ひとつ乱していなかった。さすがは武装召喚師といったところか。
傭兵団長として身体を鍛えているという話だったが、見た目にはわからないものだ。特にクオンのような優男の場合は。
「しかも、君のカオスブリンガーも模倣したままだ」
対照的な白と黒の半身を持つ竜の姿は、まさにシールドオブメサイアとカオスブリンガーの関係を表しているようでもある。破壊的な黒と、保守的な白。対立する色彩は、しかし、反発しあっているようにも見えない。むしろ、ドラゴンによって調和がもたらされている、そんな雰囲気さえあった。
「俺たちに喧嘩を売ってるんだな」
「喧嘩かどうかはともかく、向こうも全力を出してきたというのは間違いなさそうだ」
「はっ、さっきまでのは全力じゃなかったのかよ」
「どうだかね。どちらにせよ、相手は鉄壁の防御力を得たわけだ」
「ただでさえ硬いっていうのにな」
「でも、君の斬撃は通った」
「その分、俺も疲弊してるさ」
告げて、セツナは大きく息を吐いた。
竜の左腕を切り裂くためだけに、多大な力を絞り出したのだ。通常程度の斬撃では竜の外皮を傷つけることすらできないというのはわかりきったことだったし、ならば、と力を振り絞ったのがさっきの一撃だった。全力といっていい。全身全霊の力を込めたカオスブリンガーの一撃は、見事に黒き竜の外殻を切り裂き、筋肉を、骨を鮮やかに両断した。血が噴出した。その血を利用して、彼は竜の頭部に転移したのだ。左腕を切り裂くための斬撃で力を使い過ぎた。頭部への攻撃が疎かになった。結果、竜は再び変容した。
力とは精神力という目に見えないもののことだ。召喚武装の力を引き出すには、相応の精神力を費やす必要がある。でなければ、召喚武装は応えてはくれないのだ。召喚武装は生きている。生き物といっていい。彼らは力を貸す代価として、使用者の精神力を求めるのだ。使用者の精神力が、召喚武装たちの糧となり、力となるのだ。
いままで数多くの戦いが終わると、セツナが気を失うように眠ることが多かったのはそれが原因だった。精神力を消耗し尽くすような戦い方をしてきたからだ。そういう戦い方しか知らなかったというのもあるが、召喚武装を使うこと、黒き矛を振るうことになんの疑問も、疑念も抱かなかったのが問題なのだろう。
いまならわかる。
制御するという意識を強く持たなければ、力は止めどなく溢れていくのだ。いままではそれを無意識に行っていた。感覚だけで召喚武装を振り回すという危険極まりないことをしていたのだ。それで、黒き矛を制御している、などとはいえまい。ミリュウが知れば、唖然とするか、憤激するかもしれない。彼女ほどの武装召喚師が制御できなかったのが黒き矛だ。それだけの力を秘めている。
力を制御し、上手く操ることができれば、黒き竜とも対等以上に戦えると思ったのだが。
黒き竜の腕を切り裂くだけで、凄まじい疲労を覚えている。予想以上に消耗が激しいのだ。竜の外殻がすべて同じ硬度ならば、あと一、二箇所くらいは切り裂くこともできそうだったし、急所でも衝くことができれば、なんとかなったかもしれない。
そんなおりだ。黒き竜は黒白の竜へと変貌してしまった。シールドオブメサイアの防御力を得たドラゴンを打倒するには、どれだけの力がいるというのだろう。少なくとも、腕を切り裂く程度の力では足りないのは間違いなかった。
想像するだけでげっそりとする。
そもそも、無敵の盾の防壁を突破することなどできるのだろうか。
シールドオブメサイアの守護の力は、黒き竜との戦いで余すところなく実感した。まさに無敵の盾だ。傭兵団《白き盾》が不敗の軍団だの、無敵の傭兵団などといわれる所以をまざまざと見せつけられた気がする。
見えざる盾は、黒き竜が繰り出してきた攻撃のことごとくを防ぎ、セツナに傷ひとつつけなかった。光の暴圧も、炎熱も、落下の衝撃も、セツナは感じなかった。まるで夢でも見ているかのような錯覚さえ抱くほどの奇妙さの中で、彼は、クオンの力を理解した。彼の庇護がなければ、セツナはとっくにドラゴンに殺されていた。その事実も認める。
あのとき、竜の尾から頭付近まで浮上したセツナを待ち受けていたドラゴンの攻撃を防いだのも、おそらくクオンの力なのだろう。彼が干渉してくれなければ、セツナは竜の左手で掌握されていたのだ。
「さっきのあれで、ドラゴンの動きを封じることはできるか?」
「どうかな。さっきのあれって、咄嗟の思いつきだったんだ」
クオンは、胸元に抱えている盾を見下ろした。真円を描く盾は、黒白の竜の左半身と似ていなくもない。盾の表面がわずかに発光しているのは、防壁を展開しているからだろう。見えざる障壁は、セツナとクオンを包み込んでいる。
「握り締められたら、さすがの君でもどうしようもないだろう?」
「ああ」
竜の手は巨大だ。
いくら盾の防壁で護られていたとしても、全身を包み込むように掌握されては、どうすることもできない。当然、クオンの精神が続く限り、セツナが握り潰されることはない。
が、セツナが身動きできない状況では、そんなものはなんの慰めにもならない。竜の力が尽きるより、クオンの精神力が消耗され尽くすほうが早いだろう。じりじりと近づいてくる死を待つよりほかないのだ。
もちろん、クオンが力尽きるまでにガンディア軍の本隊がここに到着するのは計算ずくだ。でなければ、セツナとクオンにこんな作戦を任せたりはしない。
(俺は保たないだろうけどな)
そのことについてエインに伝えたのだが、彼も了承済みの様子だった。
セツナより半年も先にこの世界に召喚され、武装召喚術に慣れ親しんだクオンと、三ヶ月ほど前に召喚されたセツナでは、武装召喚術への理解度が違うということだ。クオンはセツナよりも召喚武装を長く使い、武装召喚術を深く理解しており、力の配分というものを計算できるということでもある。
だから、セツナとクオンのふたりなのだ。セツナが疲弊しきっても、クオンが護ってくれる限り、セツナが死ぬということはない。本隊が通過するための陽動がセツナたちだ。無理に倒そうとする必要はなかった。
「だから、守護防壁を拡大してみたんだ。その間、ぼくは無防備だったけどね」
「無茶をするなあ」
「君ほどじゃない」
「……むう」
ぐうの音も出ない正論に、セツナは顔をしかめた。
口をへの字に結びながら、黒白の竜を見遣る。中心で見事に色分けされた竜の巨躯は、雄々しく、圧倒的だ。ただ見ているだけで気圧されるし、息を呑まずにはいられない。あんな化け物を相手に戦えるのだろうかという不安が過るのだが、即座に、戦うこと自体に問題はないという結論に至る。
問題は、倒せるかどうかだ。