第三千六百三十八話 絶望の中の希望(二)
「魔王……俺が魔王か」
セツナは、マユラ神の言葉を反芻するようにつぶやいた。
セツナをそう呼んだのは、ミエンディアだった。ミエンディアによって定義づけられ、みずからもそう名乗るようになった。売り言葉に買い言葉のようなものだ。が、そもそも、魔王の杖の護持者であり、魔王の力を散々駆使してきたのだから、いまさらどうこういうことはない。ないはずなのだが、なんとなく反論したくもあった。
反論したところで、セツナの置かれている状況が覆るわけでも、変わるわけでもないのだが。
「そうとも。おまえは魔王だ。魔王の杖の護持者に過ぎなかったはずのおまえは、その大いなる力を我が物とし、まさに魔王に相応しい存在へと変わり果て、成り果てた。果てる事無き神と魔の闘争、その真っ只中に足を踏み入れたのだ」
「そんなつもりはないんだけどな」
「よくいう」
絶望の化身は、一笑に付した。
「この戦いもまた、神と魔の終わりなき闘争、その代理戦争に過ぎない。あれは、いささか神の理を超え、神々の思惑をも超越してしまったようだがな……」
マユラ神がいったあれとは、ミエンディアのことだろう。
聖皇ミエンディアは、異世界の神々との契約によって大いなる力を得た。つまり、神々の側の存在であるといっていいだろう。しかし、そんな聖皇は、神理の鏡を得、神々を遙かに凌駕する存在となったのだ。神々が自分の側に引き入れようとした結果がこれならば、皮肉としかいいようがない。
そんな風に発言するマユラ神に違和感を覚える。
「あんたは、聖皇に従っていないんだな」
「……おまえはなにか勘違いしているな」
「勘違い? なにをだよ」
「だれもかれもあれに従ってなどいないのだ。だれもがみずからの意思で、おまえと敵対し、おまえを止めようとし、おまえに立ち向かい、おまえに立ちはだかった。ファリア・ベルファリア=アスラリアも、ミリュウ=リヴァイアも、ルウファ=バルガザールも、ラグナシア=エルム・ドラースさえもが、己の意志に従ったまでのことなのだ」
「嘘だろ」
「わたしは嘘をつかない。それはおまえもよく知っていることだろう」
そう告げられれば、返す言葉もない。
マユラ神の言には、嘘がなかった。嘘を真実と想わせているわけでもなければ、神の力を使っているわけでもない。少年神は、事実を語っているのだ。そして、マユラ神が嘘をついたことがないのもまた、事実だった。かつてマユラ神が発したセツナの身を案じるような言葉も、行動も、なにもかもが真実だった。本当のことだったのだ。
絶望を司る神であるが故の言動だったのだ。
それこそ絶望的だと想わないではないが、セツナはその気持ちを表情にも言葉にも表さなかった。
「じゃあなにか、ファリアたちは皆、俺が裏切ったって本気で想っているってことか?」
「そういうことだ。そしてそれが彼女たちの真実になっている」
「真実……」
反芻することすら憚られるような言葉を紡いで、愕然とする。真実。その言葉の重みたるや、凄まじいものがあった。
いまや、ファリアたちの中では、セツナが裏切り者となったことが真実であり、ミエンディアの味方をすることこそが正義になってしまっているとでもいうのだろう。そしてそれは、ファリアたちの真に迫った声音や、態度からもはっきりとわかることだ。
思い出すだけで心の底から震えが来るような表情、言動。
だれもがセツナの裏切りを嘆き、哀しみ、絶望したような、そんな姿。
「あれの力によって、な」
「……ミエンディアは、なにをしたんだ?」
セツナは、マユラ神に問うた。
ミエンディアがなにかをしたことは疑いようがないし、マユラ神の発言によって裏付けされもした。
「アズマリアがおまえにしたことを利用したのだ、あれは」
「アズマリアが俺にしたこと……」
なるほど、と、セツナは得心した。
アズマリアは、ゲートオブヴァーミリオンの力を最大限に発揮することで、世界中にネア・ガンディアとの最終決戦を中継して見せた。人間、皇魔、竜、神といったこの世界に生きるものたちにイルス・ヴァレの命運を懸けた戦いを見せつけることで、様々な感情を呼び起こした。
それは恐怖であったり、戦慄であったり、絶望であったりしたが、連合軍と突入組の戦いぶりを見守る内に変化していったのだ。
ひとびとは、救いを求めた。
だれもがイルス・ヴァレの未来を望み、求め、願い、祈った。
その祈りが救世神ミヴューラに集まり、ミヴューラ神に集まった力がセツナたちを祝福し、加護した。
ミヴューラ神が消失してからは、そういった祈りの声はセツナたちの力となったのだが、ある瞬間からセツナだけに集中するようになった。
おそらく、アズマリアがそう仕向けたのだろう。
セツナに祈りの力を集めることで、獅子神皇を打倒し、さらにミエンディアを討ち滅ぼそうとしたのだ。
だが、アズマリアの思惑は、失敗した。
獅子神皇こそ滅ぼせたものの、完全復活を遂げたミエンディアには逆に利用される羽目になってしまった。
そう、マユラ神はいった。
「このイルス・ヴァレの全土からおまえに集中していた意志が逆転したのだよ。善意は悪意に変わり、希望は絶望に変わった。愛もまた、同じだ。憎しみに変わったのだ。その想いが強ければ強いほど、反転した想いもまた、強く、深い。おまえに纏わる価値観のすべてが反転したといってもいい」
マユラ神の言葉から、ファリアたちが感じたであろう絶望が伝わってくるようだった。
セツナは、ファリアたちの愛を疑いもしない。どこまでも強く、どこまでも深く愛されているのだと感じているし、知っている。だからこそ、彼女たちには幸せになってもらわなければならないし、そのためにこそ戦ってきたといっていい。
そして、そんな彼女たちの想いの深さを知っているからこそ、許せなくもなった。
ファリアたちは、セツナに関するすべての価値観が反転したのであろうあの瞬間、だれよりも深く傷ついたのだ。
彼女たちの心に一生癒えない傷痕が残ったのだとしても、不思議ではない。
ファリアたちの心に拭いきれない傷を刻みつけたミエンディアを許すわけにはいかない。
それは、その瞬間、セツナにとってすべてに優先することといっても過言ではなくなった。
また、同時に納得もする。
なぜ、マユラ神がいまセツナの目の前に現れたのかについて、だ。
いまさっきまでマユリ神の中で眠り続けていたはずのマユラ神が現れたのも、つまりはそういうことなのだろう。
マユラ神は、いった。
セツナに纏わる価値観のすべてが反転したのだ、と。
「……だから、マユリ様は眠ったわけか」
「そうだよ。おまえに抱いていた希望が絶望に塗り変わったから、見ていられなくなったのだ。まったく、無責任な神様もいたものだ。そうは想わないか? セツナ」
「いいや、それは違うな」
セツナがはっきりと否定すると、マユラ神は冷笑した。
「なにが違う? マユリは、おまえたちに希望を与えると豪語しておきながら、この期に及んでおまえに絶望視、すべてに絶望し、閉じこもり、投げ捨てたのだぞ。これを無責任といわず、なんというのだ」
「仕方がないさ」
「なに?」
「仕方がないっていったんだよ」
セツナは、うんざりとした気分で、絶望の化身を見つめた。これだから、絶望というのは鬱陶しいのだ。
「マユリ様は、これまで散々俺たちに力を貸してくれたんだぜ。この暗澹たる世界で、希望の光明となってくれていたんだ。それがたった一度の失態ですべてが帳消しになるなんて、馬鹿馬鹿しいことはいわないんだよ、俺はな」
それに、ミエンディアの力に抗えなかったからといって、どうだというのだろう、とも想った。
たとえマユラ神のいうとおりだったのだとしても、マユリ神には一切の過失がないのではないか。
そこでマユリ神が悪いのだと断じることなどできなかった。
それは、セツナの敵に回ったものたち全員を――ファリアたちを悪いというのと同じだ。
そんなこと、できるわけがない。




