第三千六百二十九話 完全なるもの
聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンは、微笑している。
悠然と、至極当たり前のように。
ありきたりといっていいほど単純に。
素直に。
ただ、心の底からの感謝を述べている。
その光景を目の当たりにしたとき、セツナは、心の表層が波立つのを感じた。心がざわつき、ざわめき、揺れ動き、震える。それは静かで、しかし、なによりも激しく、苛烈な感情であり、衝動といっても過言ではなかった。
そこには、完全があった。
絶対といってもいい。
なにひとつ欠けることのない、完全無欠の存在。
それが、立っていた。
獅子神皇としてのレオンガンドにも、レオンガンドとしての獅子神皇にも、アズマリアと統合され、魔晶人形の躯体を依り代としたミエンディアにも欠けていたものが、いま、この瞬間、完璧な状態となって顕現してしまったのだ。
もはや、クオンの面影など何処にもない。
容貌も姿形も性別も格好も、なにもかもが変わり果てている。
クオンの肉体は、聖皇の魂の器となり、依り代として乗っ取られ、取って代わられ、変わり果てた。
天使そのものといっても過言ではなかった青年の姿は、神々の王として、いや、百万世界の神々を統べるものの名に恥じない神々しさと荘厳さを体現しており、清廉さや慈悲深ささえ、一目見て感じ取ることができた。
身の丈はクオンよりは低く、大人の女性の平均値くらいだろうか。アズマリアよりも余程低いところを見ると、アズマリアは所詮ミエンディアの魂の一部が作り上げた存在であり、ミエンディアとはかけ離れた存在だったのだということがわかる。身長だけでなく、体格もアズマリアとは違う。アズマリアの主張の激しい胸は、ミエンディアのそれとは大きく異なるものだったからだ。
とはいえ、ミエンディアの胸も立派すぎるくらい立派ではあるのだが、どうでもいいことだ。
そんなどうでもいいことも頭の中に叩き込まれるのは、ミエンディアの圧倒的な存在感故、というものだろうか。
クオンが身に纏っていたものはすべて作り替えられており、ミエンディアは白を基調とする装束に包まれていた。まるで王者が身につけるような装束は、絢爛たる光を放ち、背後に輝く光輪と無数の光の翼によってさらなる光輝を纏っているように見えた。
白髪はクオンの頃と変わらない。燃え盛る炎のような赤に染まったりしないのは、アズマリアではないからだろう。
そして、両目。
深い睫に縁取られた左右の目には、金色の瞳が輝いていた。
そこに感じるのは、絶対的な神性であり、強大無比な力だ。
「嘘でしょ……」
「そんなこと……」
「クオンが聖皇の器になったっていうのか?」
「そんな……」
だれもが愕然とするのは、当然だった。
クオンが器になっただけならばまだしも、ミエンディアの手には、彼の代名詞ともいえる召喚武装シールドオブメサイアが厳然として存在していたのだ。真円を描く純白の盾は、依然、絶対無敵の盾としてその力を発揮し、ミエンディアを護っている。
絶望的な気分にならざるを得ない。
獅子神皇との戦いからここに至るまで、どれだけシールドオブメサイアに助けられたのかわかったものではないのだ。
クオンがいなければ、シールドオブメサイアがなければ、セツナたちが全滅していたとしてもなんら不思議ではなかったし、だからこそ、クオンは己の半身をアレグリアに託したのだ。仮に自分がセツナに斃されたとしても、獅子神皇を打倒し、さらに聖皇を滅ぼせるように。
「そういうことかよ……」
ミエンディアの透明なまなざしを見つめながら、矛を握り締める。
「ああ、そういうことだったよな……!」
わかりきっていたことだ、と、彼は、唾棄するように叫び、飛んだ。
「そういうことです」
なぜか、ミエンディアは、セツナの言葉を反芻するようにいった。そして、セツナを待ち受け、盾を翳す。シールドオブメサイアの円環が展開し、守護結界が拡大した。
見えない力場が、戦場全体を包み込んでいく。
セツナは、ミエンディアを間合いに捉えた瞬間には、全力で矛を振り下ろしたが、それが無駄に終わることを悟っていた。激突音とともに反動が両手を伝い、腕を貫く。
「セツナさん、あなたにも感謝しているのですよ」
「だったら俺に斃されろよ!」
叫び、さらに何度となく矛を叩きつける。
「それはできませんよ。それでは復活した意味がないでしょう?」
「いいや、あるね」
「はて……どんな意味があるというのですか?」
「あんたの……聖皇の力を完全に滅ぼすことができるんだよ!」
「笑えない冗談ですね」
「冗談じゃねえからな!」
力場の壁に弾かれるたびに、矛に加わる力が増す。カオスブリンガーの、魔王と眷属たちの怒号が伝わってくるようだった。
「わたしの力を滅ぼす? なぜです?」
唐突に、ミエンディアが疑問を発した。純粋な疑問だった。
「わたしは、この世界のため……いいえ、百万世界に属するすべての世界のために存在するというのに」
「それこそ笑えねえよ」
「本気ですから」
ミエンディアは微笑し、姿を消した。
黒き矛が空を切るが、虚空に裂け目さえ生まれない。時空に影響を与えるほどの魔王の力を込めているというのにだ。
なぜか。
単純な理屈だ。
ミエンディアが、シールドオブメサイアでもって守護結界を展開しているからだ。
咆哮が聞こえた。ラグナだ。
「己が死である六将を呪い、世界を呪い、すべてを呪ったおぬしがいう言葉なぞ、だれが信じるというのじゃ」
見遣れば、おそらく空間転移したのであろうミエンディアの出現地点にラグナが竜語魔法を炸裂させたようだった。凄まじい爆発が起きたが、その余波がセツナたちにさえ伝わってこなかった。
シールドオブメサイアの能力は、防御障壁を生み出すというものだ。見えざる力場の盾は、その庇護対象を自由自在に変える。自分自身だけであったり、味方と認識している不特定人数の対象であったり、空間そのものであったり、と、様々だ。
いま、ミエンディアが展開中の守護結界は、この空間全体に作用している。
つまり、ミエンディアは、どういうわけか自分だけでなくセツナたちまで護っているのだ。
「ラグナシア……竜王の中で最初にわたしの声に耳を傾けてくれたあなたならば、この想い、わかってくれると想ったのですが……残念です」
「よくいうわ! アズマリアに契約を譲渡し、わしを扱き使わせおってからに!」
「おかげで彼と出逢えたのではありませんか?」
近接戦闘に移ったラグナの猛攻を軽々と捌きながら、ミエンディアが微笑する。
「それは……そうじゃが」
「ラグナ! なに納得してんのよ!」
「むう……!」
「ラグナシア。あなたは随分と人間に絆されたようですね。わたしたちと一緒にいたころは、人間の姿になろうなどとはしなかった。竜王としての誇りと矜持がそうさせていたのでしょうが……」
「ふん! アズマリアの下僕に成り果てたわしに竜王としての誇りなぞあろうはずがなかろうが!」
「それもそうですね。そして、それでいいのですよ」
ミエンディアは、再び姿を消すと、今度はセツナたちの頭上に出現した。
「じきに……そういったものは、すべて、消えて失せる。なにも心配しなくていいのですよ。なにもかもが、等価値となる。すべてが等しく、すべてが正しく、すべてが必要不可欠で、完全無欠のものとなる。わたしは、そのために存在する」
ミエンディアの声が、幾重にも響き、跳ね返る。




