第三百六十一話 光と闇(三)
セロスたち被支配者階級の希望とは、ミレルバス=ライバーンそのひとのことだ。
五竜氏族ライバーン家の当主であり、支配階級の頂点とでもいうべき国主の座につく男は、どういうわけか、ザルワーンの改革を行っていた。血による支配を否定し、才能と実力による社会を作り上げようとしていた。
もっとも、ミレルバスもまた、血統の恩恵を受けた人間だ。五竜氏族の一家の当主だったからこそ、国主の座につくことができたのだ。彼が被支配階級の出身ならば、改革を夢見ることもなかっただろう。セロスや多くの国民のように、この国のかたちに疑問を感じることもなく、唯々諾々と従っていたかもしれない。
それでも、彼が五竜氏族の、支配階級の、特権階級のすべてを擲つ覚悟で行動を起こしたのは紛れも無い事実だ。気が狂ったのかと呆れるものもいれば、くだらぬ夢想だとあざ笑うものもいた。マーシアスの次に彼が国主の座についたのは、ザルワーンにとって絶望でしかないと嘆くものもいた。
しかし、セロスたちにとっては、彼の登場は、光明以外のなにものでもなかったのだ。被支配階級からの解放など、夢に見ることもなかったのだ。それが、ミレルバスによってなされようというのだ。ミレルバスが辛抱を集めていったのは、当然の帰結だった。
夢は実現しかけていた。
彼が神将位を与えられた事自体、夢の様な出来事だ。以前のザルワーンならばありえない。どれだけ武功を積み上げようとも、五竜氏族ですらないセロスに栄達の道などあるはずもなかった。精々、上り詰めても翼将止まりだったに違いない。
龍府の中心で龍眼軍の指揮を取るなど、まさに夢のようなものだ。
その夢も、いまや水泡に帰そうとしている。
(まだ、終わらぬ。終わらせぬ……)
ミレルバスが健在であり、龍府が存在し、ザルワーンという国が実在し続ける限り、この夢は終わらないはずだ。守護龍は一度、ガンディア軍を退けた。今回も同じだ。同じ結果になるはずだ。ならないはずがない。
しかし、オリアンが告げてきたのは、彼の考えを否定しかねないものだった。
「セロス神将。ミレルバス様からの命令だ。龍眼軍の全部隊を南門に集めよ」
「ミレルバス様直々の御命令?」
セロスが眉を顰めたのは、オリアンほどの人物が国主の命令を伝えに来るなど、聞いたこともなかったからだ。同時に、まるでガンディア軍が龍府に到達することを見越した命令だったからでもある。
「同じことを何度もいわせるものではないよ。貴様は神将なのだろう。国主様は気が短い。さっさと兵を動かす準備をしたまえ」
「はっ……」
言葉少なに応じると、セロスは副官たちに目線を送った。オリアンの登場に呆気にとられていたらしい副官たちだったが、セロスの視線に気づくと、即座に動き出した。三人は顔を突き合わせて相談を始めた。
龍府各所に布陣している部隊に配置転換を伝えなければならない。どういった手順で部隊を動かすのか相談しているのだろう。南門に向かわせるだけのことだが、なにごとにも順序というものがある。
「納得できないといった表情だな」
「いえ、そういうわけでは」
セロスが否定すると、オリアンは鼻で笑った。こちらの心情など見え透いているとでもいいたいのだろう。セロスは、オリアンのそういうところが嫌いだった。もっとも、オリアンとてセロスに好かれたいとも思ってはいまい。
「貴様を納得させる必要もないが、ひとつだけ、伝えておこう。守護龍はガンディア軍の本隊を黙殺する可能性がある」
「黙殺? なぜです」
「おそらく彼が守護龍となり、同時に、人間でありすぎたからだ」
「意味がわかりかねます」
「何度も死に、何度も生き返ったのだ。理解のできないことだって起こるさ」
オリアンの言葉は、セロスにはほとんど理解できなかったが、彼がセロスになにひとつ理解させる気などないことははっきりとわかった。セロスが混乱することを愉しんでいる、というわけでもなさそうな辺りも、彼の言動の気持ち悪いところだと、セロスは思った。もちろん、口にも態度にも出さない。
オリアンは、こちらの反応の薄さに気を悪くしたのか、口早に続けてきた。
「ともかく、貴様も南門へ急ぐことだ。国主様も向かっている」
これには、セロスも素直に驚いた。
「ミレルバス様が?」
驚かざるを得なかった、というべきだろう。
ミレルバスは、戦場に出るというつもりなのだろうか。南門に集った兵士たちを鼓舞するためだけに向かっているのだろうか。後者であって欲しいと願うのだが、前者の可能性も低くはない。
龍府に迫るガンディア軍七千に対抗するには、少しでも多くの戦力が必要だった。龍眼軍の二千では、龍府に籠城したとしても、対等に戦えるものかどうかも怪しいところがあった。
ミレルバスが参戦することで、龍眼軍の二千人は奮起するだろう。それこそ死に物狂いで戦うはずだ。そこに勝機を見出すつもりなのかもしれない。
(それならば、あるいは……)
二千対七千。
覆しうるのだろうか。
「国主様は、この戦争を終わらせる唯一の方法を用いるつもりだ」
「唯一の……」
「ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアを討つ」
オリアンが口にした言葉に、セロスは息を止めた。衝撃があった。レオンガンド・レイ=ガンディアがガンディア軍と行動を共にしているという情報は、彼の耳にも入っていた。レオンガンドを討ち、ガンディア軍から戦う意味を奪うということも考えたのだ。しかし、実行には移せなかった。龍眼軍は龍府防衛のための戦力であり、不確実な作戦のために戦力を捻出することはできなかった。
それをミレルバスがやろうというのか。
「ミレルバス様、御自らが?」
「そうだ」
馬鹿げている、とはいえなかった。いうべきだったのかもしれない。実際、馬鹿げた策だ。レオンガンドを討てば、ガンディア軍は潮が引くように撤退するだろう。
王を失えば、戦い続けることなどできるはずもない。特にレオンガンドは結婚してもいなければ、子を設けてもいない。王位継承者が不在なのだ。
大将軍アルガザードがレオンガンドに代わって指揮を取るにしても、龍府を攻め落とす勢いが失われるのは間違いなかった。ザルワーンから奪った領土の維持すら困難になるかもしれない。
ガンディアが荒れるからだ。王位継承者の不在は、レオンガンドの存在によって抑えられてきたあらゆる意志が噴出し、ガンディアを混乱の渦に飲み込んでいくだろう。
その点、ザルワーンは国主に実子がいなくても、なんら問題はなかった。国主は五竜氏族の持ち回りだったからだ。国主が死ねば、すぐにつぎの国主が指揮を取った。そうやって、この国は続いてきたのだ。ミレルバスはその悪習を否定し、国を変えるために奔走していたのだが。
とはいえ、それを為すべきは国主ミレルバスではない。当然、神将セロスでもない。前線で戦い、敵軍の指揮官を討つのは、兵士の役目なのだ。国主は天輪宮で報告を待っていればいい。神将は本陣に構えて居ればいい。
とは、思うのだが。
「国主様みずからがこの戦争の終止符を打つといっておられるのだ。貴様らも奮起せよ」
オリアンが、司令室の一同を見回した。一瞬にして、司令室の空気が変わった。セロスが視線を巡らせると、副官も彼の供回りも緊張感に満ちた顔つきになっていた。軍人としては望ましい表情ではあるのだろうが。
不意にオリアンがセロスに歩み寄ってきた。耳元で、囁くようにいってくる。
「安心したまえ。国主様が死んだところで、この国の変革は終わらんよ。後継者たちがなんとでもするさ」
「そういう問題では……!」
「貴様は余程ミレルバスが好きと見える」
「お言葉が過ぎますぞ」
セロスが静かに告げると、彼は涼しい顔をした。
「……なに、わたしも彼が好きだ。だからこそ、彼の想いを優先することにしたのだよ」
「ミレルバス様の、想い……」
セロスに背を向け、司令室から出て行く彼を呼び止めることはできなかった。オリアンが嘘をついているとは、とても思えなかったからだ。ミレルバスとオリアンは長い付き合いだった。少なくとも、セロスよりもミレルバス=ライバーンという人物のことを知っているし、ミレルバスの考えや想いを知っている。オリアンはミレルバスの影と評するものもいる。ミレルバスに影のように寄り添い、付き従っているのだと。
影ならば、人知れぬミレルバスの心情を悟ったとしても、不思議ではなかった。
そして、セロスは、なぜ自分が彼を嫌っているのか、心の底から理解した。ミレルバスはセロスにとって偉大なる光だったのだ。光に寄り添う影を嫌うのは、当然であろう。
セロスは、見えなくなったオリアンの背中に向かって敬礼した。