第三千六百十六話 悪しき夢の終わりに
戦いが、終わった。
この世界、イルス・ヴァレの根幹に深く刻みつけられた忌まわしい呪いとでもいうべきものが、いま、ようやく終焉を迎えようとしていた。
すべてが黒く染まっていく。
禍々しく、破壊的で、邪悪で、絶望的とさえいっても過言ではない、純粋な黒。
黒い光。
視界を塗り潰し、感覚を塗り潰し、天地を塗り潰し、世界を塗り潰し、なにもかもを黒く塗り潰していく。
莫大極まる魔王の力が、この異空間のみならず、イルス・ヴァレ全土を飲み込んでいく。急速に。加速度的に。あっという間に。
世界が黒い光に覆われれば、闇に包み込まれたのと同義だ。
獅子神皇の光に包まれていた世界が、今度は、魔王のもたらす闇に覆われたのだ。
状況は、逆転した。
だが、絶望感はなかった。
絶望的な暗闇は、むしろ、未来への希望に満ち溢れていた。
瞬く間に世界中に拡散した魔王の魔力は、イルス・ヴァレの全土に充ち満ちていた獅子神皇の神威を貪り喰らい、溶かし、消し去っていく。
どこまでも貪欲に。
どこまでも暴食に、どこまでも怠惰で、どこまでも憤怒に満ち、どこまでも愛欲に溢れ、どこまでも嫉妬深く。
そして、なによりも傲慢に。
魔王と六眷属の力は、セツナの制御の中でできる限りのことをして見せたのだ。それこそが世界中から獅子神皇の神威を食い尽くすことであり、銀獅子の巨躯を食い破ることだった。
闇が、晴れた。
天地を染め上げていた黒い光が消え去ると、いままで通りの空が頭上に広がっていた。どこまでも抜けるような青空。雲ひとつ見当たらず、太陽は遙か彼方に輝いている。風は穏やかで、世界の命運を賭けた戦いが行われていた戦場とは思えないほどの静寂が降ってきていた。
終わったのだ。
セツナは、確信とともに視線を落とした。
目の前には、レオンガンドが浮かんでいる。
レオンガンドの胸に穿たれた孔は、大きく、背後の景色が見えていた。貫通しているのだ。臓器の類は見えない。それはそうだろう。彼は神だ。獅子神皇として転生し、神々の王として生まれ変わったレオンガンドの肉体は、人間やその他生物のそれとは大きく異なっている。神に等しく、それ以上の存在であるものにとって、臓器など不要なのだ。
ではなぜ、人間に似た姿をしているのかといえば、そのほうが都合がいいからに違いない。また、状況に応じていくらでも姿を変えることができるから、というのもあるのかもしれない。
彼の胸に穿たれた孔は、一向に治る気配がなかった。獅子神皇の力を以てしても復元することが不可能であるということは、致命的だということだ。そして、その孔からは無数の亀裂が全身に広がっており、両手の指先などは崩壊を始めていた。
不老不滅、絶対無敵の存在と思われた獅子神皇だったが、やはり、そんなことはなかったのだ。
そんなものは、この世には存在しない。
神でさえ、滅びるときは滅びるものだ。
聖皇の力を受け継いだ獅子神皇とて、例外ではない。
しかも、神にとっての猛毒である魔王の力を大量に浴びたのだから、当然といえる。
当たり前の結末。
必然といって、いい。
もっとも、ひとつ間違えれば、滅び去っていたのはセツナのほうだ。
セツナが滅びずに済んだのは、カオスブリンガーのおかげであり、六眷属のおかげであり、仲間たちのおかげであり、クオンのおかげであり、アズマリアのおかげだった。そして、見知らぬひとびとのおかげでもあった。
世界中でこの戦いを見守っている名も知らぬひとびとの応援があればこそ、セツナは、通常の限界を遙かに超える力を発揮することが出来たのだ。
故に、レオンガンドとの戦いを終わらせることができた。
どれかひとつ欠けても、このような形で戦いを終えることはできなかったに違いない。
だから、完全な勝利、などという充足感はなかった。
「さすがは、我が英雄だな……」
レオンガンドは、その言葉に深い感嘆を込めていた。その体は、次第に崩壊をしながら、ゆっくりと地上に降下していく。
セツナも、それに合わせて地上に降りた。
「ちゃんと、終わらせてくれた……」
レオンガンドが嬉しそうに微笑んだようだった。しかし、その表情は、顔面に走る無数の亀裂のせいで、笑顔に見えなかった。髪の毛の一本一本にまで亀裂は及び、崩壊も始まっている。
「陛下……」
「まだ、わたしをそのように呼んでくれるというのか」
レオンガンドが、多少の驚きと、喜び、哀しみを込めて、いった。
「まったく……君はとんだお人好しだな……。いや、だから、そう……君の周りにはひとが集まるのだろうな……」
セツナは、レオンガンドを見つめつつも、ファリアたちの無事を確認していた。魔王の力によって拡張された感覚が、ファリア、ルウファ、ミリュウ、レム、シーラ、エスク、ラグナ、ウルク、エリナ、エリルアルム、エイン、マユリ神、トワ、クオン、アズマリアの無事を認識し、把握させてくれる。
皆、銀獅子の体内、体外での戦いを生き延びたのだ。
それはそうだろう。
クオンがいて、シールドオブメサイアの庇護下にあったのだ。
死ぬわけがない。
だからこそ、セツナは、安心して、レオンガンドに挑むことが出来た。
「君は、ひとりじゃなかった。わたしとは、違う」
地上に降り立ったとき、レオンガンドの体は上半身の一部を残すのみとなっていた。下半身は完全に失われていたし、腕もほとんど消滅している。頭部も徐々に失われていた。
「わたしは、どうだ? 結局、ひとりだった」
レオンガンドは、嘆くようにいったが、セツナは、頭を振った。
「それは違います、陛下。ナージュ様も、アルガザードさんも、アレグリアさんだって、陛下のことを案じたからこそ……」
「わかっている。わかっているよ、セツナ」
レオンガンドが悲しげな声音で、いった。
「わたしにもわかっているのだ。だが、だからこそ、わたしは、ナージュや彼らになにもしてやれなかったことを悔いるのだ。愚かなわたしの悪い夢に付き合わせてしまった……。すまない……本当にすまなかった……」
「陛下……」
「ああ、わかっているとも。謝って済む問題ではないことくらい、理解しているよ。だが、いわずにはいられぬのだ。わたしには、わたしを想い、慕ってくれるものたちがいたというのに、わたしは、夢に囚われ、力に溺れ、我を忘れてしまっていた」
それがあの獅子神皇なのだろう。
獅子神皇は、レオンガンドのようでありながら、レオンガンドとは根本的に違っていた。聖皇の力とレオンガンドの様々な想いが生み出した化身。だが、それもまた、レオンガンドであることに違いはない。獅子神皇が為したことは、レオンガンドが為したことでもあるのだ。そこを否定してはいけない。
「あのとき、君の声が届かなければ、わたしは最後まであのままだったのだろうな。ありがとう」
そういうと、口だけを残していたレオンガンドの頭部も完全に失われた。
「君のおかげで、ようやく、目覚めることが出来た」
声は、虚空から聞こえていた。
見上げれば、光となったレオンガンドの姿があった。それは、獅子神皇レオンガンドではなく、セツナが最後に見たガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアの姿だった。
セツナは、その姿を見ただけで涙が零れてくるのを止められなかった。もはや永遠に失われてしまった過去の幻影。栄光に満ちた日々の名残がそこにあるのだ。
「君はやはり、わたしの夢見た英雄だ」
「陛下……」
「だから、これ以上、頼み事をするのは心苦しいのだが……」
「なんでしょう? 陛下」
セツナは、レオンガンドの最期の頼みならば、なんだって聞くつもりだった。それがどんな願いであれ、叶えてあげたかった。
結局、セツナは、レオンガンドになにもしてあげることができなかったのだ。
斃すことしかできなかった。
レオンガンドがそれを望んでいたとはいえ、家臣としては、あまりにも辛い仕打ちだった。
「わたしはこれで終わる。だが、まだ、終わりではないぞ」
「はい?」
「まだ、止めを刺していないだろう」
レオンガンドは当然のように、いった。
セツナは、ああ、と、思った。
「……そう、でしたね」
「止めを刺し、この悪夢の元凶を断ち切り、イルス・ヴァレを救ってくれ。頼んだぞ、セツナ。君だけが頼りなのだ……」
「はい、陛下。お任せください」
セツナが力強くうなずくと、レオンガンドは、目を細めて笑ったようだった。
そして、虚空に溶けて消えた。




