第三百六十話 光と闇(二)
「依然、ヴリディアは黒竜の形態を取っており、戦闘状態を維持している模様。なお、戦況は不明」
「野営地から進発したガンディア軍総勢七千は、本日正午にはヴリディアに到達します」
「龍府内の非戦闘員の避難は九割まで完了。五竜氏族の方々を残すのみとなりました」
「龍眼軍の配置は完了。各部隊、神将閣下の命令ひとつで動き出せます」
「把握。下がれ」
「はっ」
セロス=オードの一声に、伝令の兵士たちが一斉に返答し、ほとんど同時に司令室を後にした。
神将セロス=オードは、天輪宮双龍殿に設営された司令室にいる。伝令兵が引っ切り無しに出入りする司令室は、セロスの命令によって簡単な構造になっていた。中心に大きな机があり、彼と副官たちのための椅子だけがある。
四つある司令室の扉が開けっ放しになっているのは、伝令兵が出入りするたびにけたたましい音が鳴るからだ。扉の立て付けが悪いのだろう。天輪宮の一部である双龍殿に手を入れるのは、さすがの神将でもできないことだった。国主権限ならば可能だろうが、扉の音くらい我慢すればいいことで、セロスは進言するつもりもなかった。
司令室には、彼以外にも複数の軍人が待機している。まずは副官たち。セロスがみずから面倒を見てきた軍人たちは、顔つきからして、そこらの文官上がりとは違う。鋭く研ぎ澄まされた刃のような目つきは、前線にこそ相応しいのかもしれないが、彼らほどの立場になると、前線に出ることはない。
つぎに副官の部下たち。副官が選び抜いただけあって、だれもかれも素晴らしい面構えをしていた。彼らは部隊長として戦場に出ることもあるだろう。そのときには、顔つきに見合った活躍をしてくれるに違いない。
そして、セロスの供回り。彼が用意した精鋭五十名。彼らは龍眼軍の二千人には数えられない戦力であり、いわば神将の親衛隊といってもいい。もちろん、戦闘力は折り紙つきであり、あのグレイ=バルゼルグ麾下の猛者とも渡り合えるほどには鍛錬を積んでいる。
そして伝令兵。彼らは、各所との連絡係であり、龍眼軍の中から選び抜いた健脚たちである。疲れを知らぬその足が、きっと役に立ってくれることだろう。もっとも、その足が活かされるのは短距離であり、長距離移動には馬を用いている。
セロスは、机の前に立っていた。立って、机上に広げられた地図を見下ろしている。地図はふたつ。龍府の見取り図と、ザルワーン領土の地図が並べて置いてある。龍府は天輪宮を中心とする巨大な都市であり、その複雑かつ精緻な町並みが戦場になるのは想像したくもなかった。龍府が戦場になれば、この歴史的価値の高い都市から多くのものが失われるのだ。それだけはなんとしても阻止したいものだが、どうなるものか。
ザルワーン領土の地図に目を向ける。目が行くのは、龍府と五方防護陣の位置関係であり、龍府の南方に位置するヴリディア砦だ。もっとも、ヴリディアをはじめとする五方防護陣の五砦は、もはや砦ではなくなってしまっている。
オリアン=リバイエンの術によって、砦にはドラゴンが出現した。真なる五方防護陣などと、彼は嘯いているらしい。ミレルバス=ライバーンは、彼を大層信頼しているのだが、セロスはオリアンの底知れぬところが好きではなかった。
信用していないわけではない。彼の才能も実力も否定できるものではなかったし、オリアン=リバイエンは、多数の武装召喚師を輩出した魔龍窟の総帥でもあったのだ。彼は、ザルワーンに多大な貢献をしていたし、ミレルバスの精神安定には必要不可欠な存在でもあったらしい。
剣を手に取ることだけが取り柄のセロスには、到底真似のできないことだ。そして、真似をする必要はない。軍人として、武人として戦うことなど、オリアンにはできまい。それでいいのだ。人それぞれ、役目があり、役割がある。
ミレルバスにはミレルバスの、オリアンにはオリアンの、セロスにはセロスの役割がある。
その役割をやり遂げることに全力を注ぐだけのことだ。
「黒竜……か」
セロスは、地図上のヴリディア砦を指で叩いた。副官のひとりが口を開く。
「オリアン様の説明によれば、守護龍には召喚武装の性質を理解し、再現する能力があるということですが、おそらくそれでしょう」
「我々には想像のできない領域の話ですな」
「まったく……」
副官のひとりが、肩を竦めた。ザルワーンに武装召喚術を持ち込み、魔龍窟を地獄に変えた男の話など、軍人には想像できるはずもないのだ。守護龍を目の当たりにしたいまでも、信じられない気持ちでいっぱいだった。
天を衝くほどに巨大な五首の龍。
武装召喚術ですら理解し難いというのに、武装召喚術ですらない術によって出現し、この龍府を守護しているというのだ。そんなものを理解し、納得しろというほうがおかしい。だが、現実に、龍は一度、ガンディア軍を撃退している。守護龍の存在は、認めなければならなかった。
「しかし、守護龍がガンディア軍の武装召喚師と戦闘状態にあるということはわかった。いまはそれだけで十分だ」
「はい」
「そこから推測するに、ガンディア軍は部隊をふたつに分けた、ということだ」
「街道を北進中の本隊と、守護龍と戦闘中の別働隊……」
「おそらくガンディア軍はこう考えているはずだ。武装召喚師どもに守護龍の相手をさせている間に龍府を落とせば、問題はない、と」
そして、それが正解だということは、セロスもわかっていた。
ガンディアは、守護龍との勝敗に固執する必要はないのだ。ただ、突破さえできればいい。倒す必要はなく、戦う必要性すらない。彼らの目的は、龍府の制圧であり、ザルワーンの制圧なのだ。突如出現したドラゴンの討伐などではない。
「しかし、そううまく行きますか? 守護龍同士の連携は、龍牙軍の連携よりも密だと聞きましたが」
「あの男のいうことだ。それは間違いないのだろうな。だが、それは、ガンディア軍が守護龍と守護龍の間を通過するときにおいてのみ通用することだ。彼らはなんのために別働隊を使ったのだ? わざわざ守護龍の餌にするためか? 違う。彼らはただ街道を進み、ヴリディアを通過するつもりなのだ」
「まさか。いくら別働隊が守護龍の注意を引き付けているとはいえ、七千もの大軍勢ですよ? 守護龍が無視するとは思えませんが」
「当然、守護龍はガンディア軍の本隊を攻撃するだろう」
「どうだろうな」
突然割り込んできた声に目を向けると、司令室の入り口に痩躯の男が立っていた。いつも通りの皮肉げな顔つきが、今日はいつも以上に鋭かった。オリアン=リバイエン。司令室において話題に登ることも少なくない人物だ。
「これはオリアン様。なにようですかな?」
セロスが彼に敬称をつけるのは、彼が五竜氏族リバイエン家の人間だからだ。
彼がどれほど戦功を積み上げても、将の中の将となっても、覆しようのないものがある。それが生まれながらにして定められた階級だった。
ザルワーンにおける階級はふたつしかない。支配階級と、被支配階級だ。支配階級とは、五竜氏族そのものであり、被支配階級とはそれ以外のザルワーン国民すべてのことだ。当然、セロス=オードも被支配階級に含まれる。五竜氏族は生まれながらにして支配者として君臨し、それ以外の国民は、支配されることを許された存在であった。
セロスが天将となっても、状況は変わらなかった。
セロスが聖将となっても、変化はなかった。
セロスが神将となったいまでも、被支配階級と支配階級の立場に変化はなかったのだ。五竜氏族の連中は、いまでもセロスを顎で使おうとし、セロスもまた、五竜氏族の前ではついぞ緊張を覚える。体に染み付いた被支配者の感覚というものは、死ぬまで抜け切ることはないのかもしれない。
絶望的だが、希望がないわけではなかった。