第三千六百四話 獅子の尾
視界を白く染め上げたのは、際限なく膨張する獅子神皇の肉体であり、神兵や使徒を想起させる肉塊だった。爆発的な勢いで膨れ上がり続けるそれは、戦場を飲み込み、大気を飲み込み、ナルンニルノルの残骸さえも飲み込んで、さらに巨大化を続けていた。
セツナたちも危うく飲み込まれるところだった。
助かったのは、クオンとシールドオブメサイアのおかげといっていい。
爆発するように膨れ上がってきた肉塊との間で空間が弾け、セツナたちを遙か上空に吹き飛ばしたのだ。それがシールドオブメサイアの能力であるということは、クオンに問い質すまでもない。
「皆、無事のようだな……」
セツナは、だれひとりとして無傷であることを確認すると、胸を撫で下ろした。それがクオンとシールドオブメサイアの活躍であることの証だ。セツナたちを完璧に護り、安全な場所に避難させてくれたのだ。
「ええ、なんとかね」
「クオンに感謝しなきゃね」
「まったくその通りですな」
「それもそうじゃが、これは……」
「なにが起こっているのでしょう?」
皆が疑問に想うのは、自然だろう。
獅子神皇がなにを考え、なにを企み、なにを謀ったのか、想像もつかない。追い詰められたが故の行動なのか、それとも、セツナたち全員を飲み込み、食い殺すなり、圧殺するなり企んでいたのか。突拍子もなければわけのわからない行動は、セツナたちに意図の推察さえさせなかった。
「さてな」
神々しさの欠片もない不気味で巨大な白い肉塊は、未だ膨張を続けている。その膨張速度は凄まじく、既にガンディア小大陸の半分は飲み込んでしまっていた。つまり、ナルンニルノルを中心として繰り広げられていた連合軍対ネア・ガンディア軍の一大決戦、その戦場もとっくに肉塊に押し潰され、取り込まれてしまっているのだ。
連合軍将兵の無事が気にかかるが、いまは、彼らの心配をしている場合ではない。
「ただひとついえることは、獅子神皇は生きているということだ」
「だろうね」
クオンが小さくうなずいた。息も絶え絶えといった彼の様子は、彼がいまにも力尽きようとしているようにさえ見えたが、セツナはできるだけ気にしないようにした。クオンがそのような気遣いを喜ぶわけもないし、そんなことを話し合っている時間もない。
一瞬、白い肉塊が動きを止めた。
「……膨張が終わったのかしら?」
「いや、まだです」
「今度はなんでしょう?」
「あれは……」
肉塊の表面が大きく隆起した思うと、巨大な獅子の頭部を形作っていく。頭部だけではない。ただの不気味な肉塊だったそれは、瞬く間に銀毛の獅子へと形を変えていったのだ。まばゆく輝く鬣を備えた偉容は、百獣の王者と呼ぶに相応しい雄々しさと獰猛さを併せ持っており、隆々たる筋肉に覆われた全身が白銀の体毛に包まれていた。
「またあ!?」
ミリュウが素っ頓狂な声を上げた。
ナルンニルノルの変身態である獅子神像の再来なのではないか、と、危惧したのだろう。
セツナも、一瞬、そう考えた。
だが、だとすれば、なんの意味があるというのか。
獅子神像は、ミヴューラ神の前に撃ち倒された。ミヴューラ神は、獅子神皇によって斃れたが、その力は失われてはいない。セツナたちの力となり、いまも充ち満ちている。この力があれば、獅子神像を撃ち倒すことなど難しくはないのだ。
いくら獅子神皇が追い詰められているとはいえ、その程度のことが理解できないわけがない。
「いえ、どうやら違うようですよ」
エインが否定材料としたのは、銀獅子の尾だった。
最後に出現した尾は、銀毛の獅子らしからぬ漆黒の尾であり、そこだけが破壊的なまでに禍々しく、異様な雰囲気を放っていた。
まるで黒き矛のように。
「黒い尾……?」
それは確かに、獅子神像とは異なる部分だ。そしてその異物感は、セツナの脳裏に懐かしくも輝かしい日々を閃光のように駆け巡らせる。
「……《獅子の尾》……か」
「ああ……」
「なるほど……」
「そういうこと……」
ファリアやルウファ、ミリュウが、セツナの言葉の意味を理解し、呆然とした声を上げた。
ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》。
セツナが隊長を務め、ルウファ、ファリア、ミリュウが所属したその部隊の隊章に用いたのが、黒い尾だった。
ガンディアを示す獅子の顔を囲む黒い尾の隊章は、やがて、ガンディア躍進の象徴としても知られるようになっていった。
《獅子の尾》こそが弱小国ガンディアを小国家群最大規模の強国へと押し上げていった原動力なのだから、そうなるのも当然だろう。
そしてそれは、レオンガンドがもっとも理解していたことであり、彼自身が誇らしく語っていたことでもあった。
『セツナ。《獅子の尾》は、本当によくやってくれている。《獅子の尾》があればこそのガンディアだということは、だれもが知っていることだ。わたし自身もそうだ。《獅子の尾》がなければ、君がいなければ、ここに立っていられなかっただろう』
レオンガンドが懐かしむように語ったのは、いつの日だったか。
いまや遠い昔の出来事のようであり、思い出すことすら困難なのではないかと想えた。だが、レオンガンドが語った内容は、色褪せず記憶している。
『君がいて、《獅子の尾》があって、わたしはここにいる。ガンディアは、ここにある。これから先、どのような困難が立ちはだかったとしても、君たちがいてくれさえすれば乗り越えられる。そう、信じている』
レオンガンドの信頼は、三大勢力によって引き起こされた最終戦争の前に打ち砕かれた。
セツナと黒き矛がどれだけ強くても、《獅子の尾》がどれだけ強力でも、それを上回る圧倒的な戦力の前では為す術もなかったのだ。
三大勢力の途方もない軍事力によって容易く蹴散らされ、蹂躙されていく小国家群の実情を知れば、レオンガンドも、《獅子の尾》の力でもって絶望的な状況を打破できるなどとは思わなかったのだろう。事実、そうだった。当時の《獅子の尾》が全力を注いだところで、三大勢力に痛手を負わせることすらできなかったことは明白だったのだ。
それでも、セツナは、抗いたかった。
抗って、抗って、抗い抜いて、その上で死ぬのならば本望だと、本気で想っていた。
でも、死ねなかった。
ガンディアは滅び、レオンガンドは死んだ。アルガザードやラクサス、ミシェルらとともに死んでしまった。
(だから、俺は……)
セツナは、矛を握り締める手に力を込めて、銀獅子の黒き尾を見つめていた。
銀獅子の神々しさとは正反対といってもいいくらいに禍々しい黒い尾の存在は、異物としか言い様がなかった。黒い尾さえなければ、銀の獅子は神そのものとしかいいようがないくらいに完全無欠な神々しさがあり、故にその異物感がどうしようもないくらいの違和感を覚えさせるのだ。
それには、なんらかの意味があるはずだった。
なんの意味もなく、獅子神皇がそのような真似をするとは思えない。
しかし、だとすれば、どんな意味があるというのか。




