第三百五十九話 矛と盾(九)
心配なのは、セツナの状態のことだ。
彼はここにくるまで軽口を叩くことで、自分は平気だということを主張していた。体調は万全で、なにひとつ問題はないかのように振舞っていた。しかし、彼の言動を信じることはできなかった。
セツナはつい昨日まで、意識不明の重体だったのだ。ドラゴンとの戦闘で負傷してもおり、かなりの無理をしているのは間違いなかった。それでも戦わなければならないとはいえ、その無茶がいつまで続けられるものか。
彼の意識としては無茶でもなければ無理でもないのだとしても、肉体はそうではないだろう。蓄積した疲労と、負傷による身体への負担は相当なものだ。
クオンも出来る限りのことをしてあげたいのだが、シールドオブメサイアを召喚したいま、クオンの戦闘力は皆無に等しかった。相手が人間ならば、クオンの体術でなんとかなるかもしれない。
しかし、目の前に聳え立つのは黒き竜だ。黒き矛の能力を模倣したドラゴンにクオンの打撃が通用するはずもなく、彼は、セツナの無事を願うしかなかった。
上空、竜が両腕を盛大に交差させた。肩の上のセツナを掴もうとしたのか、払い落とそうとしたのかは不明だが、どちらにせよ、巨体からは想像もできないような速度で繰り出される腕は避けるのも至難の業だろう。もっとも、直撃したところで問題はないのだが。
(落とされはするかな)
そうなれば、セツナとしては困るだろう。また、ドラゴンの体を登らなくてはならない。盾の庇護下にある限り、自傷して空間転移するというわけにもいくまい。いや、それ以前にあんな方法を使い続けていては体が持たない。
ドラゴンが腕を解きながら大口を開くのが見えた。瞬間、紅蓮の炎が空を赤く染めた。竜が、炎を吐き出したのだ。おそらく、黒き矛の能力を模倣したものだ。黒き矛カオスブリンガーには空間転移以外にも、吸収した炎を放出するという能力がある。統一性のない多様な能力は、混沌をもたらすものという名称に相応しい。
(卑怯にも程が有るけどね)
自分のことを棚に上げているわけではないが、彼はそんなことを思った。無論、召喚武装ひとつにつき一能力という決まりがあるわけではないし、シールドオブメサイアの無敵ぶりに比べれば多様な能力などたいしたことではないともいえる。それでも、空間転移や火炎吸収といった多彩な能力を羨ましく想うのだ。
(それだけの力があれば、ぼくだって)
そこまで考えて、彼は思考を止めた。自分だって、どうだというのだろう。セツナのようにちやほやされたいというわけでもあるまい。いまでも十分以上に持ち上げられていたし、富や名声など、彼の人生にとって重要なものではない。
では、なんだというのか。
思考が停止している間にも、状況は動いている。空を灼いた炎は消え去り、熱気は大気に流された。かと思うと、声が落ちてきた。
「……うああああああああああああああああああああああ!」
いや、声だけではなかった。
耳を塞ぎたくなるほどの大声を上げながら、セツナが降ってきたのだ。クオンの前方、竜の尾が覗く大穴の手前の地面に、彼は顔面から激突したようだった。盛大な音がしたのだが、きっと彼は無傷だ。シールドオブメサイアはセツナを守護しているのだ。
竜の炎の息は、彼を撃ち落とすためのものだったのだろう。セツナは炎の勢いに押され、地上に落とされたのだ。もっとも、彼の全身が炎に焼かれているということはない。炎に包まれてもいなければ、焼け焦げたような痕も見受けられなかった。
セツナは、天に尻を突き出したような格好でしばらく沈黙していたが、顔を地面から引き剥がすと、勢い良く飛び起きた。
「いってええええええええ」
「いや、痛くないでしょ」
クオンが冷静に告げると、彼はこちらを振り返った。
「……うん」
セツナは、無傷だった。顔も髪も鎧も傷ひとつついていない。シールドオブメサイアの守護が完璧であることの証明に、クオンは満足感を覚えた。
セツナは、黒き矛を軽く振り回すと、頭上を仰いだ。クオンもそれに習う。竜の頭部は地上数百メートルの高度にあり、こちらを見下ろしているようだ。巨大な竜の顔面は、竜の肩に乗ったセツナを認識するよりはっきりと見える。赤く輝く無数の目が、黒き竜の特異性を示しているかのようだ。
「せっかく登りつめたのにな」
セツナは悔しそうにいった。
「残念だったね」
「まったくだ。これじゃあ戦闘にもならねえ。足を攻撃したってしょうがないっていうのに」
「相手も同じ気分だろうね」
「そうか? 俺には余裕綽々って顔に見えるけどな」
「そりゃあ余裕はあるだろうけどさ」
そういって、クオンは、竜の巨躯を眺めた。全長数百メートルと推測するものの、精確な数値はわからない。少なくとも東京タワーよりは高く感じるのだが、それも感覚的なものでしかない。
複眼が特徴的な頭部に、長い首を支える隆々たる四肢。全身を覆う闇色の外皮は、まるで流動しているように見えた。広げられた一対の翼の内側には、夜空が展開しているかのようだ。両手両足には鋭い爪があり、都市の城壁など一撃で切り裂いてしまいそうだった。黒き矛の能力を模倣した姿がそれなのだろう。混沌とした矛をよく表現しているというべきか。
首だけの時より小さくなっているのは間違いないのだが、それでも東京タワーより高いと感じるのは、いかに竜の首が巨大だったかということを物語っているのだろう。
そんな巨大な怪物と戦おうというのだ。
生半可な戦力では、戦いにさえならないのはわかりきったことだ。だからこそ、ガンディア軍はクオンとセツナのふたりに任せたのだ。
ドラゴンの持つ圧倒的な力は、この戦場と樹海の惨状を一瞥すれば、だれだって理解できるだろう。大地は破壊し尽くされ、無数の木々が薙ぎ倒されている。それだけの力を振るったにも関わらず、ドラゴンの動きに変化はなかった。疲労が見えないのだ。これほどの破壊を起こすほどの力を発散すれば、普通、消耗するはずなのだ。
武装召喚師ならば、精神を消耗し尽くしてしまうに違いない。立っていられなくなるどころではなく、意識を保っていられなくなるほどに。
(ドラゴンに普通もないか)
クオンは、改めて、相手にする存在が化け物であるということを思った。無尽蔵ではないにせよ、人間の武装召喚師とは比べ物にならない精神力を持っていると考えるべきなのだ。
質量自体、比較にならない。
その質量に保持される力の総量が、クオンやセツナと比べ物にならないのは、当然の話だった。数倍、数十倍などという生易しいものではない。数百倍、あるいは数千倍の生命力を保有していたとしても、不思議ではないのではないか。
だが、それが、そんなものが勝敗を決定づけるわけではない。
「……余裕は、こちらにだってある」
クオンはセツナに目線を戻した。彼は、クオンの発言に少し驚いたような顔を見せたが、クオンは構わず続けた。
「ぼくがいて、君がいる。負ける要素は皆無だ。ぼくが君を守り続ける限り、君は無敵だ。無敵の君は、だれにも手を付けられない存在になる。そうだろう?」
「うん」
セツナがこくりとうなずく。
セツナのそういう素直なところがクオンはたまらなく好きなのだが、いまはそんなことを考えている場合ではない。
(余裕はある、か)
とはいったものの、言葉にしたこととは別のことを憂慮している自分に気づく。
クオンもセツナも、ドラゴンではない。怪物ではない。人間なのだ。精神力は無尽蔵ではないし、体力にも限界はある。無限に近く戦い続けられるわけではない。永久に長く召喚武装を維持できるわけではない。いずれ精神は消耗し尽くし、無敵の防壁は失われ、無防備な存在へと成り果てる。それはドラゴンも同じだと思いたいところなのだが、ドラゴンの正体がわからない以上、可能性を考慮するべきではない。
倒すならば、短期決戦を仕掛けるしかない。もちろん、倒す必要性は少ない。ガンディア軍の本隊が通過するまでの時間稼ぎをすることが、セツナとクオンに与えられた任務だ。それだけならば、決して難しいことではなかった。セツナが適度に攻撃し、ドラゴンの注意を引きつけておくだけでいい。現状、ドラゴンはセツナに熱中しているのだ。この調子で戦い続けるだけで、この任務は完遂できるだろう。
(でも、それじゃあ、君は納得しないんだろう?)
クオンは、セツナがこちらに背を向けるさまを見ていた。
彼は、軽装の鎧を纏い、手には漆黒の矛を握っている。髪は黒く、眼は赤い。鎧の下の服は赤で、彼を構成するのは黒と赤の二色といってもよかった。死の黒と血の赤。ガンディアの黒き矛にはお似合いの色なのだろうが。
(君には似合わないよ)
言葉になど、出来るはずもない。
そんなことを口にしたところで、セツナは取り合ってくれもしないだろう。心にも響かないかもしれない。
それでも、クオンは考えてしまうのだ。
(どうして、君が戦わなくてはならないんだろうね)
どうして、セツナのような普通の少年が、こんな化け物と戦わなくてはならないのか。目付きの悪さだけが特徴のような少年だったはずだ。喧嘩になればいの一番に負けるような、そんなひ弱な少年だったはずだ。
そんな少年が、偶然にも異世界に召喚されてしまったがために、血で血を洗う戦場の最前線に送り込まれる立場になってしまった。
(ぼくは、いいさ)
どこでだって生きていける自信があり、自負がある。そういう人間になるために自分を作り上げていったのがクオンだ。異世界に投げ出されても、絶望はなかった。還る方法がないというのなら、この世界で生きていくことを決めた。
(君は、どうだ?)
セツナは、こちらに背を向けたまま、竜を仰ぎ見ている。黒き竜もまた、セツナだけを注視している。クオンなど眼中にないようだ。当然だろう。クオンは攻撃を行ってはおらず、ドラゴンにとっては脅威ですらないのだ。
シールドオブメサイアの能力を模倣したということは、その能力の意味するところも理解しているのだろうが、とはいえ、真っ先に倒すべきはセツナのほうだろう。セツナの黒き矛は、ドラゴンの肉体に多少なりとも傷をつけている。
とはいえ、盾の防壁がある限り、セツナを傷つけることはできない。ドラゴンはその事実を認識した上で、セツナに集中しているのだろうか。いや、わかっていたとしても、セツナの排除を優先するのは仕方のないことだ。盾の主であるクオンを倒すためにセツナを放置するということは、多大な出血を覚悟するということにほかならない。
(君は、この異世界でなにを想うのかな)
クオンは、セツナの背中が一回りも二回りも大きく見えていることに気づいて、目を細めた。この異世界で、彼は変わった。クオンが手を差し伸べなければ生きていけなかった傷だらけの子犬は、もういないのだ。
いや、傷はいまのほうが多い。常に満身創痍といっても過言ではないような戦い方をしてきたらしい。それが黒き矛の黒き矛たる所以なのだと力説するガンディア兵がいたが、そんな戦い方では身がもたないのは自明の理だ。
だからといって、クオンに彼のやり方を変えられるはずもない。彼には彼の生き方があり、戦い方がある。そこにクオンが介入する余地はない。なぜならば、彼はもはやクオンのものではないからだ。
(喜ぶべきことだよ、クオン)
セツナは、この世界で、ようやく自分を見つけたのだ。自分の居場所を、自分の生きる道を、自分という存在を。
「クオン、防御は任せた」
「あ、ああ」
突然名を呼ばれて、クオンは慌てた。声が上擦っていたが、セツナには気付かれなかったと信じたい。
「攻撃は俺に任せろ」
そういって、彼は、吼えた。