第三千五百七十四話 神の目の瞬き(四)
彼がナルフォルンと接触を持ったのは、獅徒ヴィシュタルとして獅子神皇の元に返り咲いた後のことだった。
当時は、なぜ生かされ、なぜ許されたのかわからなかったものの、彼にとっては好都合だった。生き残り、時間を得た。ならば、確実絶対に獅子神皇を討ち滅ぼす計画を練り、実行に移すまでのことだ――と。しかし、その考えには、極めて大きな問題が立ちはだかっていた。
現状、彼の手持ちの戦力では、獅子神皇には太刀打ちできないことがわかりきっている。神理の鏡の力を完全解放しても、そこに獅徒全員の力を合わせても、獅子神皇を討ち斃すどころか、致命傷を与えることすらできなかった。
そして、敗れ去ったという事実がある。
その冷酷な現実を覆すには、力が必要だった。
神々の王たる獅子神皇を凌駕し、その絶対的な力を打破しうるもの。
そんなものは、この世界にひとつしかなかった。
ひとりしかいなかった。
セツナだ。
魔王の杖の護持者たるセツナがその真の力を発揮できるのであれば、獅子神皇打倒の悲願を果たすことができるかもしれない。
魔王の杖は、破壊の力だ。
その性質は、神理の鏡とは対極に位置する。
故に、力の総量が同じであっても、もたらす破壊力には多大な差が生じるのだ。
だからこそ、セツナが必要であり、彼が魔王の杖の全力を引き出せるようになっていてもらわなければならなかった。もし、彼が獅子神皇と対峙することになったとして、そのとき、魔王の杖の力を半分も引き出せていなければ、敗北は間違いない。
完全に引き出せていたとしても、だ。
そこに神理の鏡がなければ、最良最善の結果を導き出せたとしても、相打ちで終わる可能性が高い。
魔王の杖は、破壊の力。攻撃面こそ凶悪無比といっても過言ではないが、防御面では神理の鏡に大きく劣る。獅子神皇の攻撃にセツナの肉体が耐えられるかどうか。
斃すべきは獅子神皇だが、それがすべてではないのだ。
獅子神皇打倒後も、セツナには生き残って貰わなければならない。
そこで必要となるのが、神理の鏡だった。
シールドオブメサイア。
クオン=カミヤの召喚武装にして、獅徒ヴィシュタルの盾。
それさえあれば、獅子神皇との死闘を生き残ることができるはずだ。
ただし、ヴィシュタルは、獅子神皇の命令に従わなければならない。獅徒なのだ。獅子神皇の使徒。獅子神皇の命令を完全に無視することはできない。
獅子神皇は、ヴィシュタルにセツナの討滅を命じるだろう。
魔王の杖に対抗できるのは、獅子神皇を覗いて、神理の鏡だけだ。
故にヴィシュタルは、セツナと戦う羽目になる。
それはわかりきっていたし、むしろ都合がよかった。対峙した際、セツナが魔王の杖の能力を完全に引き出せていないのであれば、強引にでもそうなってもらおうと考えた。いわば、試練だ。セツナが獅子神皇打倒に相応しい力の持ち主であるかどうかを確かめる試練。乗り越えれば、そのとき、セツナは魔王の杖の真の使い手となるだろう。
ただし、その場合、ヴィシュタルは死ぬ。
魔王の杖の力の前に敗れ去り、滅び去る。
神理の鏡の使い手が消えてしまう。
それでは、意味がない。
セツナは、それでいいと想うかもしれない。
獅子神皇と相打ちに終わったとしても、満足するかもしれない。
少なくとも、この戦いを終わらせることになる。世界を滅亡の危機から遠ざけることにはなる。
けれども、それでは駄目なのだ。
完全にして完璧なる決着を。
この騒動に纏わるすべてを終わらせなければならないのだ。
それが、世界をこのような有り様にしたものの責任であり、義務だ。
彼は考えに考えた末、ナルフォルンと接触した。神の目たる神将ナルフォルンの心に問うたのだ。神理の鏡が生み出す守護結界の中ならば、獅子神皇に聞かれることも、悟られることもない。そして、ナルフォルンが目を閉ざしたならば、獅子神皇の目も、閉ざされる。
だからこそ、ナルフォルンを選んだ。
ほかの神将では、駄目だ。
ナルガレスでも、ナルノイアでも、ナルドラスでも、獅子神皇に筒抜けになってしまう。
なんとしても、神の目を逃れる必要があったのだ。
ヴィシュタルとふたりきりになったとき、ナルフォルンは、まるでこちらの考えなどすべてお見通しだといわんばかりだった。だが、その表情は、むしろこの状況をこそ待ち望んでいたというようなものであり、彼女の心労が窺い知れたものだった。
彼女は、疲れ切っていた。
「わたくしが陛下の元に馳せ参じたのは、かつて陛下が掲げられた未来を今度こそ実現するためでした。陛下は、ガンディアは、夢半ば、道半ばであのような最後を迎えてしまった。だれもが後悔と無念の中で死んでいったのです。それは、わたくしも同じ」
だから、獅子神皇の呼び声に応じたのだ、と、彼女は語った。その声音には、その理想とかけ離れた現状に対する苦心があった。神将ナルフォルンではなく、アレグリア=シーンの心の叫びであることは、いうまでもない。
「わたくしは、陛下とともにあの夢を見たかった。けれども、それはもう望むべくもなく、わたくしにできることは、陛下の御命令に従うことのみ。それが神将ナルフォルンのすべてなれば……」
そういって、彼女は、顔を俯けた。長い沈黙があった。ヴィシュタルは、彼女の心に土足で踏み入るような真似はしなかったし、彼女の心を惑わすような言葉も吐かなかった。そんなことをしたところで、神将の心を変えることはできない。
できることがあるとすれば、真実を告げることだけだ。
そして、それを知って、彼女は理解した。
「――では、お預かりしましょう。あなたの半身」
そうして、アレグリアは、ヴィシュタルがみずからの魂から切り取った半身を“真聖体”の内側に隠した。
最終決戦が始まる直前のことであり、そのことを知っているのは、クオンとアレグリアのふたりだけだった。
神の目の内側にあるものまでは、さすがの獅子神皇も見抜けなかったのだ。
「必ずや、陛下を」
「ええ、必ず」
救ってみせる、と、彼は彼女に約束した。
獅子神皇を討ち滅ぼすことがレオンガンド・レイ=ガンディアの魂を救うことになるという彼の言葉を彼女が信用したのは、獅子神皇が即ちレオンガンドではなく、獅子神皇がレオンガンドとなにかがひとつになった存在であると認識していたからだろう。
だからこそ、彼女は、絶望の中で生き続けるしかなかった。
獅子神皇はレオンガンドではない、と、完全に否定することも出来ず、逆に肯定することも出来ず、苦しみ続けていたのだ。
「そう……だったんですね」
エインが、もはやなにもなくなってしまった虚空を見遣りながら、つぶやいた。
クオンが説明してくれたことで、セツナたちは、アレグリアの真意を知り、覚悟を理解した。アレグリアがなぜクオンと共謀したのか。獅子神皇を裏切ったのか。納得のいく理由があり、理屈があり、意義があった。
「だから、アレグリアさんは俺を殺そうともしなかったんだ……」
「あなただけじゃない」
クオンもまた、いまは亡きアレグリアに想いを馳せるように、いった。
「全員がこうして生き残っているのも、きっと、彼女のおかげだ」




