第三千五百六十五話 大いなる矛盾の果て(二)
「使徒になればいい」
事も無げに言い放って、セツナは、トワのほうを見遣った。生まれ立ての女神は、セツナがなにをいっているのか、いまいちよくわかっていないようで、小首を傾げている。しかし、生まれながらの女神でもあるのだ。神にどのようなことができるのか、多少なりとも理解しているはずだ。
「トワちゃんの?」
「そうだ。そうすれば延命できるだろ」
「……わかったよ。それで君の気が済むというのならね」
「気が済むとか済まないとか、そういうことじゃねえよ」
セツナは、嘆息するよりほかはなかった。
クオンの心情も理解できないわけではない。セツナとの勝負は、セツナの圧倒的勝利に終わったといっても過言ではないともいえるのだが、彼が心底納得の行く決着でもなかった。故に彼が渋々といった様子を見せるのも無理のない話だったが、致し方のない話だ。
セツナとしては、彼を失うわけにはいかなかったのだ。
だからこ、殺さなかった。
生かす方法を考え、実行に移した。
それが、獅子神皇との繋がりを破壊するということであり、トワと契約を結ばせるということだった。そうすれば、彼を延命できると考えたのだ。本当にできるかどうかは賭けだったが、ほかに方法はなかった。ただ生かすだけではどうにもならない。獅子神皇の使徒なのだ。獅子神皇に支配されている間は、彼を味方として迎え入れることなどできないし、彼も反発するだろう。
「いまおまえに死なれたら困るのは、俺たちのほうなんだからな」
「困る?」
「わかりきったことを聞くなよ」
「……ああ、そうだね」
クオンが静かにうなずいたのは、セツナのいいたいことを理解していたからだろう。
そして、彼は、トワの前で跪いた。臣従の誓いを立てるとでもいわんばかりに。
すると、トワは、その小さく細い手でクオンの頭に触れる。トワにはなにもいっていないというのに、セツナの思考をまるきり理解しているかのようだった。実際、彼女はセツナの考えを読み取っているのかもしれない。神には、そういった力が備わっている。
つぎの瞬間、クオンの肉体の崩壊は止まった。それどころか急速に再生を始め、あっという間に元通りになった。無論、人間としての姿ではなく、使徒としての姿だ。
「俺とおまえが殺し合った結果、どちらかが勝者となったとき、もっとも利を得るのはだれか。そんなのはわかりきったことだ。わかりきったことだったんだ。だのに、俺は、おまえの幼稚な挑発に乗ってしまった。危うくおまえを滅ぼし、この世から消し去ってしまうところだった」
クオンは静かに立ち上がると、トワからこちらに視線を移してくる。
「……それでいい、と、想っていた」
クオンの両目は、金色のままだ。百万世界の神々、その代行者たる彼のまなざしには、先程まで存在していた敵意はなくなっていた。柔らかく、しかしどこか切なげな光が宿っている。穏やかで、いまにも消えてしまいそうなほどに儚げな光。
「ぼくはね、セツナ。君に滅ぼされたかったんだ」
クオンの告白は、セツナにとって予期せぬものではなかった。想像通りといっていい。だから、なにもいわず、耳を澄ませた。
「ぼくは、この世界を護りたかった。この世界に召喚され、この世界のひとびとと触れ合い、この世界を知り、この世界を理解していく中で、想ったんだよ。この世界を護るために生まれ落ちたんだとね。それがぼくの生まれた理由で、生きている意味で、死ぬ意義なんだと、そう考えていた。信仰していたといってもいい。単純だけど、それがぼくのすべてだった」
彼のその想いがいかに強烈で純粋だったのかについては、彼がみずからの使命を全うしたことからもわかる。眩むほどの光を放つくらいに真っ直ぐだったからこそ、命を燃やし尽くすことができたのだ。不純物のひとつでも混じっていれば、あのようなことはできなかっただろう。
「……ありがとう」
「なぜ?」
クオンが自嘲するように笑った。
「なにをぼくに感謝するというんだい? ぼくは結局、なにも護れなかった。世界も、周りのひとびとも、大切なひとたちも、全部……守り切れなかったんだ」
「それでも、おまえが率先して行動してくれたおかげで、世界は滅亡を免れることができたんだ」
それこそ、重大極まりない事実だ。
「あの日、あのとき」
大陸最後の日。
「おまえが行動を起こさなければ、おまえが命を賭して立ち向かわなければ、この世界は滅亡していた」
あの瞬間、いままさに聖皇復活の儀式が成就しようとしていたのだ。
それを食い止めることができたのは、クオン率いる《白き盾》とベノアガルドの騎士を筆頭とする協力者たちが行動を起こし、儀式を打ち破ったからだ。結果として大陸は破綻し、世界は崩壊した。多くの命が失われ、世界は致命的な事態に陥った。だが、しかし、彼らの行いを責めるのはお門違いも甚だしいのだ。むしろ、感謝するべきだった。
彼らが命を賭して儀式を止めなければ、聖皇の復活を阻止しなければ、いまごろ世界は滅び去っていたかもしれない。
復活したミエンディアによって、事も無げに滅ぼされ尽くしていた可能性は極めて高いのだ。
こうして世界が存続していることそれ自体、奇跡といっても過言ではなかった。
その奇跡を起こしたのがクオンであり、彼とともに世界に立ち向かったものたちだ。《白き盾》の団員たちもそうだし、救世神ミヴューラと十三騎士たちもそうだ。ほかにも多くの協力者が、聖皇復活を阻止するために集い、クオンとともに立ち向かい、儀式を失敗に終わらせた。
だからこそ、世界はいまも存在している。
「感謝以外の言葉があるとでも?」
「……でも、ぼくたちは獅徒として生まれ変わり、ネア・ガンディアの、獅子神皇の尖兵となったんだよ」
「それも、このときのために、だろ?」
彼らが、ただ無闇に生に縋り付いたわけではないことくらい、わからないセツナではなかった。そんな卑しい心の持ち主が、みずからの命を犠牲にするような行動を起こすわけがないのだ。
「……まったく、君には敵わないな」
「よくいう。敵わないのは俺のほうさ、クオン」
セツナは、肩を竦めて自嘲するほかなかった。
「おまえはなにもかもすべてお見通しで、俺はおまえの思惑通りにここに至ることができた」
ここ、とは場所のことではない。
状態というべきか、境地というべきか。どちらにせよ、セツナ自身のいまの状況を指し示している。そしてそれがわからないクオンではあるまい。
「でも、だからといって、おまえがもう一度死ぬことはないだろう」
「そうかな。ぼくにはぼくの罪があり、罰を受けなくてはならない。生きていては生けない存在なんだよ」
「俺はどうなる」
セツナが嘆息すると、クオンは小首を傾げた。
「おまえよりも余程多くの命を奪ってきたんだぞ、俺は」
それこそ、罪の軽重でいえば、セツナの罪のほうが遙かに重いはずだ。
「君はこれからより多くの命を救うんだ。それでいいだろう?」
「そういう問題じゃあない」
「まあ、そうだね」
クオンは、自分の意見に拘らないようだった。彼自身もそう想っているからだろう。罪がなにかしらの方法で贖うことができるというのであれば、それでいい、というような、そんな考え方ではないのだ。拭いきれないから、抱えて生きていくしかない。
「それに、だ。いったはずだぜ。おまえに死なれたら困るんだよ」




