第三千五百六十四話 大いなる矛盾の果て(一)
「本番は、ここじゃない」
「なにを――」
ヴィシュタルが眉根を寄せ、頭を振った。シールドオブメサイアが輝き、周囲で起きている事象をそのままにセツナへと跳ね返す。
「君がなにをいっているのか、まったく理解できないよ、セツナ」
鏡の“反射”能力によってセツナの全周囲の時空が歪み、空間の崩壊が加速していくが、それもカオスブリンガーを振るだけで対処してしまった。つまり、破壊したのだ。硝子細工のように砕け散った時空の歪みは、さらなる歪みを生み、混沌の波動となって周囲に拡散する。
破壊が破壊を生み、混沌が混沌を生む。破滅の連鎖。犠聖の間という隔絶された時空間は、いまや一方的な破滅へと突き進んでいた。
それが魔王の力だ。
そして、それに対抗し得るのは、神理の鏡くらいのものであり、だからこそ、ヴィシュタルは無傷なのだ。
「矛盾している」
「矛盾か」
「そうだよ、矛盾さ」
破滅的な混沌の波動すらものともしない結界の中で、ヴィシュタルは、多少、苛立たしげにいった。ついに、ようやく、彼の余裕に満ちた表情にひびが入ったのだ。
「君はいったはずだ。ぼくを斃すと。ぼくを殺し、滅ぼし、消し去ると。先へ進むためには、そうする以外に方法はなく、道もない。この最強の獅徒ヴィシュタルを斃す以外にはね」
「……俺も、そう想っていたさ」
矛を振るえば、その矛先の動きに合わせて、混沌の波動がうねり、震え、旋回し、ヴィシュタルの守護結界を包み込んでいった。時空間に壊滅的な打撃を与え続ける混沌の奔流に絡みつかれて、ようやく、神理の鏡の結界に亀裂が生じる。だが、それだけでは結界を破壊するには至らない。つぎの瞬間には“反射”されているからだ。
「おまえを斃す。それだけが唯一の道だと、思い込んでいたんだ」
混沌の奔流が、逆再生映像のようにセツナに向かってくる。莫大な破滅の力が、時空間にさらなる打撃を与えながら、崩壊と破滅を拡散させながら、迫ってくる。
頭を振る。
「でも、違った。そうじゃなかった」
混沌の奔流に飲み込まれながら、セツナは、いった。
「本当はわかっているんだろう、クオン」
「セツナ……君は」
「俺は、やっとわかったよ」
破滅的な痛みの中で、それでもセツナの意識は途絶えない。肉体が徹底的に破壊され、損なわれ、失われていく感覚は、死に等しい痛みといっていい。しかし、セツナの意識が消滅することはなかったし、だからこそ、この絶望的な痛みさえお感じなければならないのだ。そして、その痛みの中に希望がある。
絶望の先にこそ、希望は輝くものだ。
「ようやく」
落ちていく。
「わかることができた」
混沌の奔流とともに地上に向かって真っ逆さまに落ちていくのがわかる。
「俺のこの力がなんのためにあるのか。なぜ、俺はいまここでおまえと戦っているのか。どうして、俺は生まれてきたのか。その意味を。そのすべてを」
地面に激突してもなお深く落ちていく。墜ちて、沈んでいく。闇の中へ。墓穴の底へ。奈落の果てへ。地獄へ。
破壊され尽くした体が朽ち果てて、意識を保っていられるのが不思議なくらいだが、しかし、なんの不可解さも感じなかった。当たり前のように肉体が再生していくのを認める。
擬似的な死。
擬似的な再生。
「なあ、魔王」
セツナは、混沌の闇に覆い尽くされた視界の彼方に見知った地獄の風景を見ていた。死で覆い尽くされた魔王の領土。しかし、その広大な世界のどこにも魔王はいない。なぜならば、魔王は、いまセツナの手の内にいるからだ。黒き矛として、カオスブリンガーとして、魔王の杖として。
その絶対的といっても過言ではない力が、教えてくれたことだ。
矛を振り上げ、天を仰ぎ、睨む。
地獄よりの飛翔。
混沌の奔流を掌握し、制御し、支配すれば、元いた世界に戻ることも容易かった。なぜ地獄にまで墜ちたのかといえば、混沌の奔流が時空間に穴を開けたからなのだ。地獄に通じる穴を開けた。ならば、その穴を通っていけば、犠聖の間に戻ることも容易い。
そして、犠聖の間に戻れば、ヴィシュタルが待っている。
神理の鏡を構え、絶対無敵の守護結界を再構築した彼の表情は、セツナの発言に対する疑問に満ちていた。
「君がなにをいっているのか、ぼくにはわからないよ」
「なら、わからせやる。いますぐにな」
告げたときには、セツナは、ヴィシュタルの背後を取っていた。全身を覆い尽くす混沌の奔流、その時空間に干渉する力を制御すれば、どこへだってひとっ飛びに移動できるものだ。それはまさに空間転移そのものであり、ヴィシュタルの守護結界の中の空間にすら干渉してしまえるのだから、凄まじい。
ヴィシュタルがはっとこちらを振り返ろうとしたときには、もう遅かった。
セツナは、カオスブリンガーの切っ先をヴィシュタルの背中に突き刺していたのだ。
しかし、切っ先から流れ込んだであろう破壊の力がヴィシュタルの肉体を粉々に打ち砕くようなことはなかった。
ヴィシュタルがこちらを振り返ったときには、すべてが終わっていて、だから、彼は愕然とした表情にならざるを得なかったのだろう。一瞬、なにが起こったのかわからなかったはずだ。しかし、すぐに理解した。彼ほどの頭脳を持っていて、理解できないわけがないのだ。
「これは……」
ヴィシュタルは、自分自身の体を見下ろすようにして、いった。自分の身に起きた異変を実感しているのだ。
「軛はもうないぞ。破壊したからな」
セツナが告げると、ヴィシュタルが顔を上げた。なにをどういえばいいのかわからないとでもいいたげな表情は、戦闘中の余裕に満ちていた彼の顔からは想像もつかないほどに情けなく、頼りないものに見えた。人間の表情といってもいいだろう。
「これで、俺とおまえが戦う理由はなくなったな」
「……はは、確かにそうだね。そうだけど、でも、これじゃあぼくは」
ヴィシュタルは、すべてを理解したのか、どこかさっぱりとした表情になっていた。
「このまますぐに死ぬだけだよ」
「そうだな」
それも否定はできない。
確かにこのままでは、彼は死ぬだけだ。
なぜならば、彼は、獅徒だったのだ。獅子神皇の使徒。獅子神皇より無限の生命力を供給されていたからこその命であり、その繋がりを断つということは、死に直面するということにほかならないのだ。
事実、彼の肉体は、崩壊し始めていた。
だから、セツナは、その名を呼んだ。
「トワ」
「はい、兄様」
すると、どこからともなくトワが現れたものだから、ヴィシュタルが瞠目した。
「……トワ? アニサマ……?」
「そうか。クオンは知らないか。彼女はトワ。俺の妹だ」
セツナがトワのことを紹介すると、ヴィシュタルはさらに驚いたようだった。
「イモウト?」
「まるで初めて聞いた言葉みたいにいうなよ」
「いやだって君の妹って」
「妹だ」
「でも、その子は」
「神だが、妹だ」
「あの」
「妹だ」
「……わかった、わかった。そういうことにしておこう。それで、その妹ちゃんがなんだって?」
ここにどうやって現れたのかについては、なんの疑問も持っていないようだった。それはそうだろう。魔王の力を持ってすれば、異空間にいる存在を呼び寄せることくらい、造作もない。
獅子神皇の力による隔離処置も、もはや意味をなさないということだ。




