第三千五百四十三話 神の涙(三)
(勝った……)
ルウファは、半ば茫然とその場に立ち尽くしていた。
天声の間と名付けられた戦闘領域には、彼以外だれもいない。あるのは広大な隔離空間であり、天と地を埋め尽くす無数の翼だ。それらが莫大な力を生み、シルフィードフェザーを強化し、ルウファを支えている。立っていられるのは、立ち尽くしていられるのは、そのおかげだ。
そのおかげで戦い抜くことができた。
勝つには、勝った。
けれども、同時にとてつもない喪失感を覚えていた。
(父……上……)
ナルドラスは、跡形もなく消え去った。
神将ナルドラスとして生まれ変わり、変わり果て、成り果てた男は、最期、アルガザードとしての心を取り戻したかのようにルウファに語りかけ、願いを託し、逝った。まるでそうなることを望んでいたかのような、どこか満足げな様子は、ルウファにはとても納得しがたいものだった。
(違う)
だれもいなくなった翼も大地を見つめながら、胸中、頭を振る。
(取り戻したんじゃない。最初から、そうだったんだ)
アルガザードのことだ。
アルガザードは、ナルドラスに生まれ変わってもなお、アルガザード・バロル=バルガザールのままだったのだ。
だから、レオンガンドに忠を尽くした。
だから、ネア・ガンディアに忠を尽くした。
だから、ルウファの前に立ちはだかった。
神将ナルドラスとして。
どうして、などとはいえない。
それは、バルガザール家の人間であり、アルガザードだからだ。
レオンガンドに選ばれ、呼ばれ、招かれれば、馳せ参じる以外に道はなく、馳せ参じた以上は全身全霊でもって忠を尽くすほかはないのだ。
それが、バルガザール家に生まれたものの使命であり、宿命といってもいい。
仮にルウファが死に、神将、あるいは獅徒として蘇らされたのだとしても、獅子神皇に忠を尽くしたことだろう。
バルガザール家の人間ならば、それが当然のことだ。
ロナンが獅徒として戦い抜いたように。
ラクサスが神将として生まれ変わったように。
アルガザードが、神将として生き抜いたように。
(ああ……そうか……)
ルウファは、このなにもかもすべてを失ったかのような感覚の理由を知った。
この戦いで、血の繋がった家族のすべてを失うのだ。
ロナンはとっくに死んでいて、アルガザードは、この手で殺した。ラクサスも死ぬだろう。突入組のだれとぶつかったのかはわからないし、相手次第ではラクサスが勝つ可能性も高いが、その場合、別のだれかとぶつかって、死ぬに違いない。
生き残れはしない。
神将なのだ。
獅子神皇の側近たち。
獅子神皇を斃す上での最大の障壁として立ちはだかるのだから、斃す以外に道はない。
生かす道理もなければ、たとえ、この場で生かすことができたとしても、獅子神皇を討ち斃せば、それも無意味となる。
神将は、獅子神皇を命の源としているのだ。
獅子神皇を斃せば、命脈が絶たれ、死ぬ。
だから、だれも生き残らない。
バルガザール家は、ルウファひとりになってしまった。
視界が揺れる。
真っ白に染まった世界で、まるでこの世のものではないかのような美しく咲き誇る翼たちも、次第に消えていく。ゆっくりと、静かに、音もなく、消滅していく。
それは、取りも直さずルウファの体を支えている力が消失していくということにほかならない。
命を削って作り出した翼の世界だが、無限に長く維持し続けられるわけもなかった。なにより、ナルドラスを斃したのだ。維持し続ける意味はない。
この領域がつぎの戦場になるというのであれば話は別だが、そんなことはありえないだろう。
(つぎの……戦い)
相手は、残る獅徒や神将のいずれかになるのか、それとも、獅子神皇との直接対決が待っているのか。
獅徒も神将も突入組のほかのだれかの手で斃されているとすれば、獅子神皇のみとなるが、そればかりは、いまのルウファには想像もつかない。
セツナやファリアたちが負けるとは想えないのだが、対峙する敵の能力次第では苦戦することは十分にあり得た。
そう考えていた矢先だった。
「うわあ、綺麗で奇妙で不思議な光景ねー」
「全部翼ですよ! 師匠!」
「翼が花のように咲き乱れておるのう」
「確かに直接目にすると、印象も変わるな」
「綺麗というか、なんというか」
「これを綺麗と呼ぶのですか?」
「まあ、ウルクちゃんが疑問を持つのもわからなくはないな」
「……えーと」
ルウファは、突如として押し寄せてきた言葉の洪水に対し、茫然とするほかなかった。それは突然、なんの前触れもなく耳に飛び込んできて、頭の中をかき回すだけかき回して、当然のようにそこに在ったからだ。
振り向けば、声の主たちが翼の大地を物珍しそうに見回していた。
ミリュウ、エリナ、ラグナ、シーラ、エリルアルム、ウルク、エスク、それにファリアとトワ。
突入組のうち、セツナとエイン、マユリ神を除く全員が、この場に集まった形になる。それがなにを意味するのかといえば、皆がそれぞれ対峙したであろう獅徒や神将を討ち果たし、生き残ったということだ。
その事実を理解した瞬間、ルウファは、喜びがわき上がるのを抑えられなかったが、同時に疑問も生まれた。
「皆さん、無事でなによりですが、どうやってここへ?」
ルウファが問うと、真っ先に反応を示したのは、ミリュウだった。彼女は、エリナを後ろから抱きしめたまま、こちらを振り返って、想わぬことを言ってきた。
「あ、ルウファ。いたんだ」
「ええ?」
「冗談よ、冗談。あたしたち、あんたの戦いぶりを見守ってたんだから」
「俺の戦いを見守って……って、どうやってです?」
予期せぬ返答に、ルウファは、混乱するしかなかった。
天声の間は、外界と隔絶された領域だった。どこまで飛んでも果てはなく、どれだけ翼の世界を広げても、限りがなかった。仮に翼の世界の全力を以てしても、外界に抜け出すことはできなかったに違いない。ナルンニルノル内にいることは確かなのだが、それがどこなのかはまったくわからなかったし、脱出方法も、見当もつかなかった。
ナルドラスを斃すことで道が開かれるのかと思いきや、そういうわけでもなかったのだ。
そんなところへミリュウたちが突如、どこからともなくやってきたのだから、ルウファも混乱するしかない。
ルウファの疑問に答えたのは、ミリュウの視線だった。ミリュウが意味深げに視線を向けた先には、見覚えのある異形の存在が立っていた。突入組の面々から少し離れたところに佇むそれは、ナルンニルノル突入直後に対峙した異形者に違いなかったが、妙な違和感があった。
「え……?」
ルウファは、すぐにその違和感の正体に気づき、凍り付いた。
異業者に顔があった。その美しい女性の顔立ちには、はっきりと見覚えがあった。見た瞬間、様々な記憶が呼び覚まされ、脳裏に溢れ、意識を掻き乱したのだ。
「王妃殿下……?」
ルウファは、信じられない気持ちで一杯だった。
「そんな……そんなまさか……」
ガンディア王妃ナージュ・レア=ガンディアは、“大破壊”を生き延びていたはずだった。セツナが直接会って話をし、ガンディア再興のために活動していたことも聞き及んでいる。その後、ネア・ガンディアに、獅子神皇の元へ行ったということも。
だとして、どうしてそのように変わり果てた姿になるというのか。
ルウファには、にわかには信じられなかった。




