第三千五百四十二話 神の声を響かせるもの(十二)
純白の翼に覆われた天声の間の天地は、まるでルウファの勝利を祝福するかのように柔らかな光と穏やかな風に包まれていた。
先程までの苛烈極まりない戦闘からは考えられないほどの空気の変化は、シルフィードフェザーが勝手にやったことだろうし、ルウファは、それを彼なりの気遣いだと想った。己の肩に手を置き、シルフィードフェザーに触れる。触れずとも感じられることではあるが、ふと、触れたくなったのだ。
心が、揺れている。
いまのいままで無風状態といっても過言ではなかったはずだというのに、いまこの瞬間は、嵐が訪れるのではないかというような精神状態だった。
なぜか。
(……俺は)
ルウファは、地上に沈んだナルドラスの巨躯に向かって降下すると、無数の翼に囲まれた神将の上半身を見た。上半身だけだ。腕や足といった上半身以外の部位は、“核”を破壊する直前の攻撃によって粉砕されていて、“核”を失ったことで再生できなくなり、そのまま消滅したようだった。
残った上半身も、ぼろぼろと崩壊を始めている。
神兵や使徒と同じだ。
獅徒レミリオンと。
“核”を失ったものは、崩壊するしかない。崩壊は止まらない。崩壊した肉体は二度と元には戻らない。それは、完全なる死であり、絶対の結果だ。
(俺はまた、家族を失うんだな)
ルウファは、そのとき、ようやく自分の心に降り出した雨とその理由に気づいた。
ナルドラスが、胴体の獅子の顔でこちらを見ていた。力なく、しかし、確かに。
変わり果てたその姿を父アルガザードと認識するのは困難だ。
神将ナルドラスとして敵対し、主張をぶつけ合い、命のやり取りをしたのだ。ただ斃すべき敵として戦い抜き、その結果がこの状況なのだ。
己の手を見下ろす。
レミリオンの、ロナンのときとはわけが違う。
あのときは、ルウファの代わりをセツナが務めてくれた。セツナが、すべての責任を請け負い、レミリオンを斃してくれた。滅ぼしてくれた。ルウファが苦しまないように。苦しんでも、その矛先をセツナに向けられるように。そうして、少しでも心の痛みや哀しみを欺瞞できるように。
そんなセツナに怒りや恨みをぶつけられるわけもなかったし、ただただ、感謝したものだった。
そして、いままた、セツナの思い遣りの深さを感じ入る。
変わり果てたとはいえ、ナルドラスは、アルガザードなのだ。アルガザード・バロル=バルガザールだったのだ。ルウファの敬愛する父そのひと。
その命脈を絶った。
この手で、だ。
その重みは、想像を絶するほどのものだった。胸を締め付け、心を締め付け、意識を締め付けていく。目眩がして、吐き気がした。散々ひとを殺し、皇魔を殺し、神兵を殺戮してきたというのに、だ。
実の家族、実の父を手にかけることは、やはり違うのだ。
「さすがは……《獅子の尾》副長よな」
不意に降ってきた声に顔をあげれば、ナルドラスと目があった。胴体と一体化した異形の獅子の頭部は、やはり、“真聖体”ナルドラスの顔だったのだ。そのまなざしには、先程までの敵意はなかった。
「格好よかったぞ……」
どこか満足げなナルドラスの声音に、アルガザードを感じずにはいられなかった。そうなると、もうナルドラスとしては見れなくなる。
「父上……俺は……」
ルウファは、喉を詰まらせた。なんといっていいのか、わからなかったのだ。アルガザードが驚いたようにいう。
「まだ、わたしを父と呼んでくれるか」
「なにを仰っておられるのです、当然でしょう。あなたは俺の父上で、だから、俺は……」
「……なにも悲しむことはない」
アルガザードの声は、威厳と慈しみに満ちている。それは、在りし日のアルガザードの声そのものであり、それ故に、ルウファは、全身が震えるようになった。
「これでよかったのだ。おまえは、なにも間違ったことはしておらぬ。ルウファよ」
「父上……」
「わたしは、死んでいたのだ」
アルガザードが、静かに告げてきた。
「世界が破局を迎えたあの日、陛下やガンディオンにいた皆とともに命を落とした。それですべては終わったはずだった。終わるべきだったのだ。だが……なあ」
アルガザードが何処か遠くを見るようにして、いう。
「陛下から直接声をかけて頂いたのであれば、否やはあるまい」
「……バルガザール家の人間ならば、そうでしょう」
アルガザードの選択をルウファは否定しなかったし、むしろ、肯定した。
「俺も、同じ選択をしたかもしれない」
バルガザール家の人間として、王立親衛隊《獅子の尾》副長として、ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアに招かれれば、応じないわけにはいかないだろう。
「だから、よかったのだ。おまえだけでも生きていてくれて、本当によかった」
アルガザードは、心の底から、そう想っているかのようにいった。いや、実際、そう想っているのだろう。この期に及んで嘘をつく理由はない。
「この夢を、悪しき夢を終わらせてくれたのは、ほかならぬおまえなのだ。ルウファよ。我が誇りよ」
「誇り……俺が……?」
ルウファは、想わず問うた。
「そうとも」
アルガザードの間髪を入れぬ肯定は、ルウファの心に突き刺さる。
「おまえは、騎士にはなれなんだが、しかし、それでも諦めることはなかった。ラクサスのようにはなれずとも、別の道、別の方法で、国に、王家に忠を尽くそうとした。そのために武装召喚術を学び、地獄のような修練を乗り越えたのだろう。おまえの師から聞いたよ。おまえがどれほどの想いで術を学んでいたのか」
「師匠から……ですか」
ルウファが驚いたのは、アルガザードとグロリアの間に交流があったことであり、グロリアがアルガザードにルウファの修業時代の話をしたという事実にだ。グロリアがわざわざそんなことをいうとは考えにくく、アルガザードが頼み込んで聞き出したことは想像に難くない。
つまり、アルガザードがそれほどまでにルウファのことを気に懸けてくれていたという証左なのだ。
「そのときに想ったよ。やはり、おまえは紛う事無きバルガザール家の人間なのだ、と」
その言葉だけで、ルウファは、報われる想いがした。
先の戦いでは否定したが、結局の所、根っこの部分では、自分がバルガザール家の人間であることを否定することなどできるわけがなかったのだ。バルガザール家に生まれ育てば、だれであれ、そうなるものだ。
「故に、おまえにしか頼めぬ」
アルガザードが、態度を改めた。
「獅子神皇を討ち果たし、この悪夢を終わらせてやってくれ」
想わぬ発言に、ルウファは耳を疑った。しかし、聞き間違いなどではないことは、続く発言からも明らかだった。
「これは長い夢の続きなのだ。悪しき夢の。だれかが終わらせなければならぬ。ならぬのだ……」
そういって、ナルドラスの体は完全に消滅した。
その場に残されたのは、ルウファと無数の翼だけだ。
ほかにだれもいない。なにもない。
真っ白な領域。
心まで、意識まで真っ白になってしまいそうだった。




