第三千五百三十九話 神の声を響かせるもの(九)
「先程からなにをいっている」
ナルドラスの声は、鼓膜を突き破らんばかりに大きく、強く、激しかった。
ルウファの頭の中に入り込み、脳を激しく揺さぶるほどだ。それもまた、“神の声”の力といっていいのだろう。その大音声だけで意識を失うものもいるかもしれない。“神の声”ならば、それくらいのことがあったとしてもなんら不思議ではない。
「ついに頭も回らなくなったか、ルウファ」
「……ああ」
否定はしなかった。
実際、思考は明瞭ではない。全身を苛む痛みのせいで意識までもすっきりしない。瀕死といっても過言ではない状態なのだ。そんな状態でも頭が回るほど、賢くはない。
だが、だからといって絶望しているわけでもなければ、自棄になっているわけでもない。
むしろ、考える必要がないのだ。
やることはひとつ。
出来ることもひとつ。
ならば、それだけを考えていればよく、それだけをなせばいい。
「そうか……だが、しかし、ここまでよく耐え抜いたものと褒めておこうではないか」
「おまえがただの人間ではないことが証明されたのだ」
「いや、それどころはない」
「類い希なる戦士」
「古今無双の勇士」
「……そういうのは、いいさ」
ナルドラスの口々から発せられる賞賛の言葉の数々は、彼の本心ではあったのだろう。が、ルウファには、どうでもいいことだった。そんなことで揺さぶられるような安い心ではないのだ。なにより、そんなことを聞いている場合ではない。
死にかけている。
無為に時間を費やしている場合ではないのだ。
だから、彼は、告げた。
「俺は、あなたを斃すために立っている」
「……まだ、諦めぬか」
「諦める? ありえないな」
ルウファは、鼻で笑った。激痛が体中を駆け抜けているが、それすらも絶望に程遠い。生きているのだ。生きて、立っている。ならば、諦める理由にはならない。
「俺は《獅子の尾》副長ルウファ・ゼノン=バルガザールだぞ」
脳裏に浮かんだのは、《獅子の尾》時代の幾多の戦いであり、どんな地獄のような戦場であっても、決して諦めず、先陣を切る男の姿だ。黒き矛を掲げ、敵陣に突き進むその姿は、この世に存在する何者よりも頼もしく、勇ましかった。
その姿を思い出すだけで、奮い立つというものだ。
「どんな状況にあっても、絶対に諦めたりなんてしないんだ」
ルウファは、シルフィードフェザーを外套形態から飛翼形態へと変化させた。
ナルドラスが、うなるようにいった。
「……ならば、打ち砕くのみ」
「風刃よ」
「炎矢よ」
「岩槍よ」
「氷鎚よ」
胴体以外の四つの口が発したのは、“神の声”であり、魔法の言葉だ。風の刃が、炎の矢が、岩の槍が、氷の鎚が、四方八方を埋め尽くし、殺到してくる。
避けようがない。
避ける必要も、ない。
「翼よ、いまこそ目覚め、世界を覆え」
ルウファは、シルフィードフェザーの全力を解き放った。
それはまさに命を燃やすことと同義であり、彼は、能力発動においていままで感じたこともない反動を受けていた。まるで全身を巡る血が突如沸騰したかのような熱を帯び、痛みとなり、体の内側から外側に向かって灼かれていくような感覚があった。
「なにをしても無駄よ」
ナルドラスの大声が響く中、風の刃と炎の矢がルウファの視界を埋め尽くした。あっという間に距離が詰められ、もはや眼前に迫った――そのときだった。
羽が、舞った。
ルウファとナルドラスの攻撃、その狭間に真っ白な羽が舞い上がったのだ。
それもひとつだけではない。無数に舞い上がり、視界を埋め尽くさんばかりだったし、実際、ルウファの視界は、翼によって埋め尽くされていた。そして、視界を埋め尽くした純白の翼が、眼前に迫った炎の矢と風の刃を受け止め、ルウファを護った。
前方からの攻撃だけではない。
四方八方、上下左右、あらゆる方向から殺到した幾重もの攻撃からルウファを護ったのは、どこからともなく出現した無数の翼だった。頭上から降ってきた氷の鎚も、地中から飛び出てきた岩の槍も、翼が受け止め、ルウファへの到達を防いだ。
翼一枚では受け止めきれなくとも、二枚、三枚と犠牲になることで、ルウファは無傷で猛攻を耐え抜くことができたのだ。
幾千もの翼による防御障壁。翼の鎧。翼の結界。風の刃に切り裂かれ、炎の矢に焼かれ、氷の鎚に粉砕され、岩の槍に貫かれながら、それでもルウファを守り抜く。鉄壁の布陣。それは瞬く間に増強され、加速度的に拡充し、密度を増し、難攻不落の要塞へと変貌していく。
無数の翼に遮られた視界の遙か彼方、ナルドラスの姿が見えた。
もはや霞みきっていた目が力を取り戻し、聴覚も、嗅覚も、触覚も――あらゆる感覚が漲っていく。
翼の数だけ力が増す。
それこそ、シルフィードフェザーの本質にして、真価だ。
そしてその翼は、ルウファの周囲の地中から際限なく出現している最中だった。周辺だけではない。急速にその範囲を広げ、剥き出しの地面だけでなく、無傷の床をも突き破り、翼を大きく広げていく。
爆発的な翼の出現と増殖。
それによるルウファの身体能力や感覚器官の強化。
それが、この能力の肝。
「また翼を増やしたところで、同じこと。裂けよ!」
「爆ぜよ!」
「潰れよ!」
「捻れよ!」
「破れよ!」
ナルドラスの五つの口が発した“神の声”は、世界を震撼させるが如く響き渡り、地中より現れ、花のように咲き乱れた翼の数々を一瞬にして切り裂き、爆破し、押し潰し、捻り潰し、突き破って見せた。何千もの翼が、一瞬にして、だ。
翼が減っただけ、ルウファの能力は低下する。が、ルウファは、気にもしなかった。その程度では、もはや増幅した能力の足を引っ張ることにすらならない。
それに、だ。
「世界は、翼で出来ている」
“神の声”によって破壊された翼から散った羽の一枚一枚を苗床とし、新たな翼が誕生し、翼の数が一気に倍増した。散り散りになった羽の数だけ翼が増えたのだから、当然だ。そしてその結果、ルウファの能力もまた、増強される。
そして、増えた翼がルウファを覆う難攻不落の要塞に幾重にも重なり、増築と改造を繰り返し、やがて翼で出来た巨人と化した。
“真聖体”となり巨大化したナルドラスが小さく思えるほどの巨躯は、すべて翼で出来ていた。頭も、胴体も、肩も、腕も、腰も、足も、なにもかもが翼で構築された翼の巨人。背中から生えた巨大な翼も、無数の翼で構成されており、その翼の数だけシルフィードフェザーの力は増した。
翼の巨人が完成すると、ルウファは、ナルドラスを遙か眼下に捉えていた。ルウファと彼を包み込む翼の要塞は、翼の巨人の心臓部だが、ルウファの視点は、翼の巨人の頭部にある。すべての翼がルウファの感覚と繋がっており、故に視点を何処に置くかは自由自在だった。
たとえば、地上の半分を埋め尽くす無数の翼のうちのいずれかから見た視点に変えることもできた。
「……それがシルフィードフェザーの真の力か」
「そうだ。ナルドラス。これが俺とシルフィードフェザー最大の能力にして、攻撃だ」
肯定とともに歩き出した翼の巨人は、その一歩でナルドラスを踏み潰そうとした。
ナルドラスが破顔した。




