第三千五百三十七話 神の声を響かせるもの(七)
武装召喚術に手を出したことは、なんら間違いではなかった。
グロリア=オウレリアとの出逢いがあり、彼女に師事し、彼女のすべてを叩き込まれたことが、ルウファのその後の人生にとって、どれほどの影響があったか。
もし、グロリアと、師と出逢わなければ、ルウファの人生はもっと惨めなものになっていただろう。バルガザール家の二男でありながら、家名に相応しい生き方もせず、ただ無意味に時間を過ごしているだけの愚か者に成り果てていたに違いない。
師と出逢えてよかった。
故に、こうして、ここに立っている。
立っていられる。
グロリアの教えを守り、常に心の中心に置いているからこそ、揺るぎないのだ。
「俺は、ルウファ=バルガザールとして生まれたことをいまでも誇りに想っている」
バルガザール家に生まれたから、アルガザードの二男に生まれたから、いまの自分がいる。それもまた、事実だ。アルガザードという厳格極まりない父がいて、ラクサスというとにかく出来の良い兄が居て、ロナンという自由な弟がいた。
だからこそ、ルウファは、ルウファで在り続けられたのだ。
これが別の家の別の人間として生まれたならば、当然、まったく異なる人生を歩んでいただろうし、セツナたちと出逢うこともなかったはずだ。
そこには別の幸せがあったのかもしれないが、それがどのようなものなのかまったく想像もつかない。
いま、この人生こそがルウファ=バルガザールという人間のすべてなのだ。
「ならばなぜ、そちらにいる」
「バルガザール家の人間ならば、こちらに来るべきではないのか」
「陛下の御側に仕え、忠勤に励むのだ」
「それこそ、バルガザール家の人間に生まれたもののさだめ」
「我も、ラクサスも、ロナンも、そうした。ただひとり、おまえだけが、主君に逆らい、抗っている」
ナルドラスの五つの口から紡がれる言葉の数々は、鋭い刃のようだ。ルウファの心に刺さり、心からは血が流れて落ちる。
「おかしいとは思わぬのか」
「……ああ、そうだな」
肯定、する。
バルガザール家の人間として生まれ、育てられ、生き、歩んできたそのすべてを否定しているのは、いまここにいる自分自身だ。そればかりは、否定できないし、否定する必要もない。
「俺はきっと、バルガザール家の人間として失格なんだろう。アルガザード・バロル=バルガザール――いや、神将ナルドラスよ」
ルウファは、完全なる怪物と化したかつての父を真っ直ぐに見据え、告げた。父を父とも想わぬようにするのはそれだけの覚悟と決意が必要であり、まさに心を鬼にするようなものだったが、そうするよりほかはなかった。
ナルドラスは、アルガザードではない。
そして、アルガザードではないものに、自分の在り様を非難される謂われはないはずだ。
「俺は、それを間違っているとは想わない」
むしろ、正しい道を歩んでいる、と、そう想い、確信している。
バルガザール家の人間ならば、ロナンの誘われるままネア・ガンディアに入り、ラクサスやアルガザードとともに獅子神皇に忠を尽くすべきだったのだろう。しかし、ルウファは、それを断った。
獅子神皇は、ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアの生まれ変わりであり、ネア・ガンディアは、ガンディアの生まれ変わりなのだとしても、それを素直に受け入れ、聞き入れるほど、純真でも無垢でもなかった。酸いも甘いも噛み分けて、幸も不幸も様々に受けてきた人生だ。ガンディアとネア・ガンディアがまったく同じ存在ではなく、レオンガンドと獅子神皇もまた、同じ存在とは思えなかったのだ。
だから、ルウファは、実弟の誘いすら断った。
実の父の成れの果てすらも、敵と見定めた。
「ふむ……」
ナルドラスが大戦斧を静かに構え直した。胴体の獅子の顔の表情が変化したところを見ると、そこが“真聖体”ナルドラスの顔なのかもしれない。異形の獅子は、獅子を象徴とするガンディアがネア・ガンディアとして変わり果て、成り果てたことを如実に現しているように思えてならない。
獅子の国の大将軍アルガザード、その成れの果てがナルドラスなのだ。
「……よい面構えになったな、ルウファ」
そういってきたナルドラスの声は、いつになく柔らかく、優しかった。感慨に満ちていて、とてもいまさっきまで命のやり取りをしていた相手のものとは想えなかった。
「よかろう。ならばその覚悟をいまここに証明して見せよ。我を斃し、その屍を踏み越えて見せるがいい」
ナルドラスが吼えるようにいった。大戦斧が唸りを上げ、斬撃が神威の竜巻となって吹き荒れる。
「元よりそのつもりだ」
ルウファは、物凄まじい勢いでその暴風圏を広げる神威の竜巻から距離を取りながら、告げた。
「俺はあなたを斃し、獅子神皇を斃し、この戦いを終わらせ、エミルの元に還る」
そう、約束したのだ。
約束は護るものである、と、セツナから教わった。セツナの教えは、ルウファにとって人生訓のようなものだが、セツナ自身がそう語ったわけではない。セツナがその態度と生き様で教えてくれたのであり、彼が約束を破ったことがないという事実が、ルウファに強い影響を与えていた。
エミルの元に生きて還らなければ、嘘だ。
約束したのだ。
必ず、エミルの元に生きて還る、と。
(約束を果たせよ、ルウファ)
自分自身に言い聞かせるようにつぶやくと、翼を羽撃かせた。無数の翼の羽撃きが生み出すのは、やはり、巨大な竜巻であり、それはナルドラスの竜巻と激突し、相殺し合った。逆回転の竜巻による相殺。もはや手慣れたものだ。
だが、そこで調子に乗ってはいけない。
ルウファは、慎重に相手の出方を窺った。
ナルドラスに全身全霊の攻撃を叩き込んだことで、ルウファはいま、かなり消耗していた。あのとき、出し惜しみをしなかったのだ。斃すつもりだったのだから当然だが、それが通用しなかったいま、別の方法を考えなくてはならない。
そして、その方法にも心当たりがあったし、先程、その方法を使わなかったのにも理由があった。
(あれは――)
「雷よ」
ナルドラスの声が戦場に響き渡れば、つぎの瞬間、周囲が暗転した。かと思えば、閃光が視界を灼き、轟音が耳朶を貫いたときには、凄まじい衝撃がルウファの背中を貫いていた。電熱が体中を駆け抜け、一瞬、意識を失いかける。
「炎よ」
透かさず聞こえた声とともに目の前が真っ赤に染まった。物凄まじい熱量が膨張し、炎の渦となってルウファを飲み込みかけたが、彼は、咄嗟の判断で飛び退き、翼をいくつか灼かれた程度で済んだ。しかし。
「風よ」
突如吹き荒れた暴風が下降しようとしたルウファの体を空高く打ち上げた。大気を操り、制御することで空を飛び回るのがシルフィードフェザーの能力である以上、より強力な風圧の前では無力にならざるを得ない。その際、全身をずたずたに切り刻まれ、無数の痛みが生じる。
「氷よ」
不意に周囲の気温が急激に低下したかと思うと、一瞬にしてなにもかもが凍り付いた。ルウファの周囲の空気そのものが氷結し、ルウファは氷の塊に閉じ込められたのだ。わずかでも判断が遅れていれば、ルウファ自信もまた、氷漬けになっていたことだろう。
素早く大気の制御を取り戻し、風の結界を再度張り巡らせたからこそ、自分と身の回りだけは氷結を免れたのだ。
だが、これではどうしようもない。
そう思ったつぎの瞬間、氷の牢獄が崩壊した。
同時に、ルウファは地に叩きつけられていた。




