第三千五百三十話 神の涙(二)
「状況は飲み込めたわ」
ファリアは、トワの頭を撫でながら、ゆっくりと息を吐いた。
盾神の間には、突入組のうち、セツナとルウファ、エイン、マユリ神、それにアズマリアを除いた全員が集まっている。
ファリア、ミリュウ、レム、シーラ、エスク、ウルク、エリナ、ラグナ、エリルアルム、トワの十名。
各人は、ナルンニルノル突入直後の空間転移によって、それぞれが隔絶された領域に転送され、そこで獅徒や神将と対決する羽目になった。そこまでは、大体想像通りだ。
ファリアだけが盾神の間に隔離され、ナルガレスとの戦いを強いられる、などという状況にはなりようがない。当然、ほかの皆も、同じような状況に追い込まれたことは想像に難くなかったし、事実、その通りだった。
神将ナルノイアを討ち斃したミリュウ以外は、獅徒との戦いを制している。ほとんど皆が満身創痍の勝利を収めたといい、皆、こうして生きて顔を合わせることができたのは、小さな女神トワと、もう一体、謎めいた存在のおかげだということだった。
トワは、地面に座り込んだファリアの膝の上にちょこんと座っている。獅徒との戦闘においても、ラグナ、エリナと力を合わせ、勝利の立役者になったという少女は、戦闘後の皆の命を繋ぎ止めるという重大な役割を担い、いまやだれもが認める仲間となっていた。
ファリアも、彼女には感謝しかなかった。
死を待つばかりだった身が息を吹き返したのは、トワが神の御業によって救ってくれたからだ。
(それと……)
ファリアは、一同から少し離れた位置に立つ異形の存在に目を向けた。
その人外異形の存在の姿には、見覚えがあった。
ナルンニルノル突入時に対峙し、なにものかを問いかけようとしたそのとき、空間転移に巻き込まれたのだ。それからナルガレスとの死闘が始まったものだから、それについて考えている暇はなかったし、すっかり忘れていた。
ミリュウたちの話によれば、その異形の存在のおかげで合流することができたのだといい、また、未だ戦闘中のものたちの様子を確認することができたのだという。
それにより、ルウファ、エインとマユリ神が神将と対峙し、セツナは獅徒ヴィシュタルと対決しているということがわかったが、だからといって、なにができるわけもない。
異形の存在の力によって合流できたのは、戦いを終えたものだけであり、どうやら戦闘中の領域に突入し、味方を援護するというようなことはできないようだった。
それが一体なにものなのか、だれにもわからない、という。
話しかけても答えてくれず、なんの反応も示さないのだから、わかりようがない。
本当に味方なのかどうかさえ不明なままだ。
だから、警戒しなければならなかった。
こうして突入組の合流を計ってくれているのに、だ。
なんとも奇妙で不思議な存在だった。
「とにかく……皆が無事でなによりよ」
「まだ全員揃ったわけではないがのう」
「それは、わかってるけど」
セツナ、ルウファ、エイン、マユリ神、それにアズマリアとの合流を果たせていない以上、安心するのは幾分早い。そんなことはわかりきっているが、それにしたって、ファリアは、ミリュウや皆の無事な姿を見ることができたことに心底安堵していた。再会を果たせるかどうかすら不明だったのだ。
特にファリアは死に瀕していた。その事実があるから、皆が生き生きとしている様を見ているだけで、心が落ち着いた。
「ま、ファリアの気持ちもわかるわよ。死にかけてたんだものね」
そういうミリュウも死にかけていたらしく、トワには全力で感謝していた。トワがいなければ、皆、瀕死のままだったかもしれないし、何人かは命を落としていた可能性がある。
「こうして無事に再会できただけで感無量よね」
「ええ……本当に」
ファリアは、ミリュウの言葉に心の底から同意しながら、トワの小さな体を抱きしめた。
すると、違和感を覚え、顔を上げる羽目になった。
ミリュウや皆が周囲を見回していることから、だれもが同様の違和感を持ったらしいことがわかる。そしてそれがなんなのか、すぐにわかった。ファリアたちの周囲を取り囲むようにして、映写光幕にも似た光の幕が出現していたのだ。
それが異形の存在の力であるらしいことは、ミリュウたちの話から既に聞いて知っている。その力のおかげでそれぞれの戦いを見ることができたといい、ファリアが死にかけていたことも知れたのだ。
いま、その光の幕に投影されているのは、セツナ、ルウファ、エインたちの戦場のほか、ナルンニルノルの外、結晶の大地で繰り広げられている連合軍の戦いぶりであり、連合軍がネア・ガンディア軍だけではなく、とてつもなく巨大な異形の獅子とでもいうべき化け物と戦っていることがはっきりと見て取れた。
それもミリュウたちの話から聞いていたことではある。
ナルンニルノルが異形の獅子へと変貌を遂げ、戦場を蹂躙し始めたのだといい、一刻も早く獅子神皇を討滅しなければ、連合軍が壊滅するのも時間の問題だということだった。
実際、その光景を目の当たりにすれば、安心している場合などではないということがはっきりとわかる。
超巨大な異形の獅子と化したナルンニルノルの一撃が天を割り、大地を砕き、連合軍に大打撃を与える様は、圧倒的にもほどがあったし、現実離れしているとしかいいようがなかった。だが、現実なのだ。ありもしない悲劇的な虚構の映像を見せているわけではないことは、ミリュウたちの発言からも明らかだ。
「外の状況は、最悪らしいけど……こんなのを見せられて、どうしろっていうのかしらね」
ミリュウがそう毒づきながら、異形の存在に目を遣ったときだった。
「わたしはナルエルス」
突如として声が聞こえたかと思うと、異形の存在に変化が生じた。頭部と思しき部分から美しい女性の顔が浮かび上がってきたのだ。
「神の涙」
哀しみに満ちた表情と声で、それは告げた。
「ナルエルス……?」
「神の涙……」
「その名前からして神将か、神将と同等の存在のようじゃな」
「そうみたいね」
神将の名には、共通してナルという言葉が入っていた。ナルンニルノルにも入っているように、ネア・ガンディアにとって、あるいは獅子神皇にとって、特別な意味を持つ言葉であるらしい。
「ナルノイアが神の剣で、ナルガレスが神の盾っていってたってことは、ナルは神とかそういう意味かしら」
「じゃあ、エルスが涙?」
「おそらく」
「そんなことはどうだっていいだろ」
ファリアとミリュウの会話について、シーラが呆れたように肩を竦めるのも無理のない話だった。
生粋の武装召喚師であるファリアと、弟子を持つ武装召喚師であるミリュウが未知の言語について興味を持ち、好奇心や研究心が湧いてくるのも必然ではあったのだが。
「問題は、なんでいまさら口を利いたのかってことだ」
「それも……そうね」
「本当になんでかしら?」
「なにか理由があるのではないでしょうか」
「その理由ってなによ」
「わたくしに聞かれましても」
「そうよ、本人に聞けばいいのよ」
「そうね……口が聞けるんだものね」
ミリュウが、
「というわけで、教えなさい。あなたは何者で、なにが目的なのよ?」
「わたしは、ナルエルス」
「それは聞いたわよ。あたしたちが聞きたいのは――」
「わたしには、なにもできない」
ミリュウの言葉を無視するように、ナルエルスはいった。
「なにも。なにも……」
何度も、何度も同じ言葉を繰り返した。
「……これじゃあなにもわからないわね」
「そうじゃのう」
「そんな、まさか……」
ナルエルスの反応に肩を落とすものたちの中で、ファリアだけがはっとしたのは、その声音に聞き覚えがあったからだろう。
「ナージュ様……?」
ファリアは、愕然と、敬愛する王妃の名をつぶやいた。
ナルエルスの双眸が開き、こちらを見た。
その反応は、ファリアの発言を肯定するものだった。




