第三千五百二十九話 神の涙(一)
ナルガレスは、消滅した。
わずかに残っていた頭部も完全に崩壊し、跡形もなく消えてなくなった。
戦いは、終わった。
ファリアは、全身を苛む痛みに押し潰されるようにして、その場に倒れ込んだ。地面に膝を打ちつけ、そのまま胸や顔面もぶつけたが、その際に生じた痛みよりも、全身を這いずり回る痛みのほうが遙かに強烈だった。皮肉なことに、そのおかげで転倒の痛みを無視することができたというわけだ。
(嬉しくもなんともないわよ……)
だれとはなしに毒づいたものの、声にすらならなかった。
死闘だった。
ナルガレスは、ファリアのこれまでの人生において、最大最強の敵といっていいだろう。紛う事無き強敵であり、命を懸けなければ斃せない相手だった。
事実、一度殺されているのだ。こうして蘇生できたのは、オーロラストームのおかげというほかない。
仮にほかの召喚武装を愛用していたならば、死んでいたかもしれない。
だから、ファリアは、オーロラストームを視界に入れようとしたのだが、首を動かすこともままならなかった。呼吸すらまともにできない。息が上がっている、どころの話ではなかった。
精も根も尽き果てて、命さえも燃え尽きようとしている。
(そりゃ……そうよね……)
ファリアは、手足どころか、指一本動かせないという状況に対し、得心するしかなかった。
ファリアの肉体は、とっくに限界を超えていたのだ。
強引な蘇生、強引な運動、強引な戦闘――オーロラストーム・クリスタルドレスの強大無比な力は、ファリアの心身に多大な負担をかけるものであり、本来、人体が耐えられるような代物ではなかったのだ。獅子が弾け飛び、爆発四散したとしてもなんら不思議ではないほどだ。
そんな最悪の結末をなんとかして回避できたのは、皮肉にも、腕と足を失うことを始めとした肉体の欠損をクリスタルドレスで補っていたからだ。ファリアの義手となり、義足となったクリスタルドレスが、肉体にかかる負担を肩代わりし、軽減してくれたからこそ、肉体が弾け飛ぶような結末にはならなかった。
その分、精神力が枯渇しかけ、命の灯火が消えかけるのだとして、なんの不思議があるだろう。
当然の結末。
道理だ。
(……仕方がないわよ……ね)
オーロラストームに、語りかけてる。
失った左腕や左足を補い、まるでドレスのように体を包み込むクリスタルビットたち。そして、右手に握り締めたオーロラストーム本体。それらから感じるのは、膨大な熱量であり、生命力であり、意志だ。オーロラストームの感情。自我。想い。
(わたしは、わたしにやれるだけのことをしたわ……)
神将ナルガレスの討滅。
獅子神皇の打倒において、最大の障害となるだろう神将のひとりを斃したのだ。これは、胸を張って誇るべき成果ではないだろうか。
同じ神将であるナルノイアも、斃されたという。
四体の神将のうち、二体が倒れたのだ。
残る二体もだれかが斃してくれるに違いない。
さらに獅徒も斃せば、残すところ獅子神皇のみとなる。
そして、獅子神皇は、セツナが斃す。
それで、終わりだ。
万々歳。
大団円を迎えるのだ。
(そこにわたしがいないのは寂しいけれど……)
致し方がない。
こうして一時的にでも蘇り、ナルガレスを打倒できただけでも上出来だ。本来ならば、死んで終わっていたのだ。その場合、ナルガレスによって多くの仲間たちが殺されていたかもしれず、この結果が最高だということはいうまでもない。
ファリアと一体化していたクリスタルビットが、ひとつ、またひとつと剥がれ、落ちていく。結晶体とファリアの肉体を結んでいたのは、オーロラストームの力だ。そして、オーロラストームの力は、ファリアの精神力を元にしている。ファリアの精神力が尽きれば、オーロラストームが力を失うのは必然だ。
そして、クリスタルドレスがその形を、その力を失えばどうなるのか。
ファリアの生命を維持しているのは、クリスタルドレスなのだ。
当然、クリスタルドレスが瓦解したとき、ファリアの命は終わりを迎える。
そのとき、オーロラストームから嘆くような意志が伝わってきた。
(あなたのせいじゃないわ、オーロラストーム……)
むしろ、オーロラストームのおかげで勝てたのだ。それだけで十分だ。十分すぎる。と、ファリアは想い、オーロラストームに伝えた。
ただひとつだけ、心残りがあるとすれば、セツナのことだ。
彼の姿が脳裏に浮かび、輝き続けている。
もう逢えない。そう考えるだけで胸が苦しかったし、悲しかった。
(ああ、セツナ……)
逢いたい。
ただ、そう想った。
けれど、そんな願いが叶うはずもないことは、ファリアにはわかりきっていた。現実は無常だ。そして残酷であり、冷淡なのだ。
「これでセツナはあたしのもの……と」
(そんなわけないでしょ)
脳裏に割り込んできた声に対し、ファリアは全力で抗議した。ファリアが死んだからといって、ミリュウがセツナを独り占めできるわけがない。レムがいれば、シーラもいるし、ウルクやエリナ、エリルアルムがいる。セツナは人気者なのだ。
「うふふ……この戦いが終わったら、さっそく新婚旅行よ」
(新婚旅行……!?)
なにをいっているのか、と、想って顔を上げると、目の前に脳裏に思い描いていた通りの顔があった。
「っ!?」
「なにその顔」
ミリュウが、なんとも悪戯っぽい顔でこちらを見ていた。予期せぬ出来事に頭の中が真っ白になる。
「せっかくの美人が台無しよ、ファリア」
「ミ……」
「み?」
「ミリュウ!?」
ファリアは、想わずミリュウの両肩を掴んだ。しっかりと掴めたことで、彼女が現実の存在であることを確信する。
「なに驚いてんのよ」
「お、驚くに決まってるでしょ!? なんであなたがここに!?」
「そりゃあ、あたしが神将ナルノイアをぎったんぎったんのべっこんべっこんにやっつけたからじゃない」
「あなたが……ナルノイアを……?」
「ま、ファリアはファリアでナルガレスを斃したみたいだけど……大変だったみたいね」
「見ればわかるでしょ……死にかけてるのよ?」
「死にかけてる? どこか?」
「どこが……って……へ……?」
ファリアは、いつの間にか起き上がっている自分に気づき、唖然とした。
ついさっきまで指一本動かすことすらできなくなっていたというのに、だ。いまは、ミリュウに詰め寄るために立ち上がってさえいる。それどころではない。なんだか身も心も軽くなっていた。頭の中がすっきりしている。まるで長年抱え込んでいた悩みが綺麗さっぱり解決してしまったかのような明瞭さであり、むしろ違和感すらあった。
痛みがないのだ。
全身を苛み、体中をかけずり回っていた痛みが完璧に消えてしまっている。
さすがに体力や精神力は元通りに戻ってはいないものの、肉体は完全に戻っていた。失われたはずの腕や足まで元通りだ。そういえば、ミリュウの両肩を掴んでいたことを思い出す。つまり、そのときには元通りになっていたということだ。
「な……なに……?」
「トワちゃんに感謝なさい」
「トワ……?」
ミリュウの視線を追いかけると、ファリアの足下にトワと呼ばれる少女がいた。




