第三千五百二十二話 神の盾なるもの(六)
まるで頑強な壁に正面衝突したかのようだった。
しかも見えない壁だ。
見えない壁が目の前まで迫ってきたのだ。避けられるわけがなかった。激突し、その力と勢いのままに吹き飛ばされた。
遙か後方へと打ち上げられていく中、それがなんであるかを理解する。防壁だ。防御障壁。ナルガレスの全周囲に展開された不可視の領域。いまのいままでナルガレスを護るためだけに展開し、範囲を維持していたがために見誤ったのだ。
ナルガレスの防御障壁――“神の盾”は、敵の攻撃を受け流すだけのものではなかった。範囲も性質も自由自在であり、防御から攻撃に転じることすら可能だったようだ。ファリアが吹き飛ばされたのも、“神の盾”の性質が変化したからであり、変化の瞬間を見逃したのは、一瞬の出来事だったからだ。
防御障壁の性質が変化したのであれば、オーロラストームによる雷撃を受け流すことはできなくなったはずだが、それはわからなかった。
全身を強く打ちつけられたが、特に痛みが激しかったのは右腕だ。オーロラストームを掲げていたからであり、手から前腕、肘の辺りまで激痛がのたうっていた。いくつか骨が折れたかもしれない。それくらいの痛みだった。
(指ね)
オーロラストームを握り締めた際の激痛から症状を把握する。中指と薬指だ。オーロラストームの頑強さが仇になった、というべきかもしれない。神将の斬撃にすら耐えうるほどの頑強さだ。いまのオーロラストームならば、矢を射ずとも、殴りつけるだけで容易く人体を損壊することができるだろう。
オーロラストームの握りの部分は、右手を護るように分厚い装甲によって覆われている。いわば怪鳥の頭部であるそれの内側装甲が、“神の盾”が激突した瞬間、右手中指と薬指に強く打ちつけたのだ。
指が千切れなかっただけ増しと考えるしかない。
(不幸中の幸いね)
なにせ、オーロラストームを手放さずに済んでいる。
ファリアは、瞬時の判断でクリスタルビットを呼び寄せると、それら結晶体で自身の五体を支え、空中で体勢を整えた。瞬間、
「嘘――」
ファリアが愕然としたのは、ナルガレスの姿が眼前にあったからであり、その右腕がこちらに向かって掲げられていたからだ。
ファリアは、咄嗟の判断でオーロラストームを前面に掲げ、左腕でそれを支えつつ、数十基のクリスタルビットをナルガレスに殺到させた。直後、衝撃がファリアを襲った。先程よりも遙かに強烈な衝撃だったのだろう。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
凄まじい痛みとともに目の中で火花が散り、脳が震え、意識が遠のいた。その前に視界が真っ暗になった気がする。が、なにがどうなってそうなったのか、瞬時には把握できなかった。ただひとつだけいえることがある。
(わたしの馬鹿)
ファリアは、揺れる脳と激しい頭痛、鼻の辺りの痛みを歯噛みして堪えながら、己を罵倒した。判断を間違えた結果がこれだ。ナルガレスの攻撃を防ぐために差し出したオーロラストーム、その本体が顔面に激突し、鋭くも強烈な痛みが走ったのだ。熱を感じる。それも大量のだ。
出血しているに違いない。
顔面の傷という傷からだろうが、特に鼻血が多いことは、唇を伝って口の中に入ってきたことからよくわかる。鉄の味が広がって、なんだか嫌な感じだ。
ナルガレスの攻撃は、止まない。
当然だ。
ファリアが意識を失いかけるほどの惨状は、敵にとってしてみれば追撃する絶好の機会だ。この好機を逃す手はない。
ナルガレスがファリアを生かしてくれるというのであれば、話は別だが。
(そんな美味しい話――)
あるわけがない。
ファリアが内心で断定した通り、ナルガレスが手心を加えてくれることはなかった。
衝撃が全身を貫き、またしても強く吹き飛ばされていく。ナルガレスは動いてはいない。“神の盾”の範囲を急激に広げただけなのだろう。それ故か、先程よりも痛みが薄かった。とはいえ、痛みは痛みだ。全身を強打したような痛み。
皮膚が、筋肉が、骨が、悲鳴を上げている。
激しく流転する視界の真っ只中にナルガレスの姿が見えたのは、一瞬にして距離を詰めてきたからだろうし、追撃のためだろう。
ナルガレスの背後に浮かぶ球体が強く烈しく輝いていた。
ファリアは、またしても強く打ちつけられ、地面に背中から叩きつけられると、一瞬、呼吸ができなくなった。意識が飛びかけながらすぐさま復帰できたのは、弛みない鍛錬のおかげだろう。そして、そのおかげで、全身の痛みに苛まれなければならないというのは、皮肉というべきか。
全身、痛みを感じない部分がない。どこもかしこも悲鳴を上げていて、ところどころ骨折していたし、皮膚が裂け、筋肉も損傷しているようだった。
ただ吹き飛ばされ、叩きつけられただけだが、人体に痛撃を加えるにはそれだけで十分なのだ。
これが皇魔や竜ならば多少なりともましな結果だったかもしれない。
しかし、ファリアは純粋な人間であり、その肉体の強度は、鍛錬で引き上げられるものではなかった。人体はどこまでいっても人体であり、鋼のように硬くなることはない。どれだけ鍛え上げた人間であっても、鉄の塊で殴られれば死ぬ。
(いまだって、普通ならとっくに死んでいるわよ)
内心、呪詛のように吐き捨てながら、体を起こした。全身の骨という骨がばらばらになりそうな痛みに苛まれ、筋肉という筋肉が泣き言を上げている中、オーロラストームを支えにして、立ち上がる。
地面に叩きつけられた衝撃で死んでいてもおかしくはない。それも事実だ。しかし、ファリアは生きていた。辛うじて、死を免れていた。
ゆっくりと顔を上げれば、ナルガレスがこちらを見ている。
こちらが死ぬまで攻撃を止めないのではないか、と、絶望的な想像をしていたが、どうも違った。“真聖体”とやらの顔面から表情を読むことはできないし、故になにを考えているのかまったくわからない。
「まだ、立ち上がるか」
「まだ、死んでいませんから」
ファリアは、右腕を掲げながら、告げた。ファリア自身の損傷具合に比べ、オーロラストームには傷ひとつ見当たらない。表面に付着したファリアの血が、その美しい異形を醜くしているだけだ。
「ふむ……」
ナルガレスが、妙に残念そうな声でいってくる。
「やはり、降参はしてくれないか」
「降参……?」
ファリアは、ナルガレスの発言の意図が掴めず、訝しんだ。そして、すぐに理解する。彼がなぜ、追撃の手を止めたのか、その理由だ。ナルガレスは、未だ、ファリアが味方にならないことを惜しんでいるのだ。だから、徹底的に痛めつけて、降参してくれるのを待っていた。
馬鹿げた話だ。
「何度もいったはずです」
決然と、いう。
「わたしは、あなたを斃し、先へ進む」
「……よくいう」
やはり、心底無念そうに、彼はいった。
「力の差を理解していないわけでもあるまいに」
まるで突風が吹いたかのようにして、ファリアは、吹き飛ばされていた。




