第三千五百十三話 塗り替える(一)
だから、というわけではないが、ミリュウは、セツナに全力で頬ずりした。
死んで、その最期、今際の際に見た幻想だろうということはわかっていた。でなければ、セツナが目の前に現れて、彼女を抱き留めてくれるわけもない。
いや、もちろん、セツナにそのような甲斐性がないといっているわけではない。セツナは鈍感な人間でもなければ、思い遣りが欠如しているわけでもない。むしろ、身内に対しては優しすぎるくらいに優しかったし、愛情表現も忘れなかった。
ミリュウが死の間際まで思い焦がれるほどにセツナのことを愛するようになったのも、彼がそうするに相応しい人間だったからだ。
でなければ、いくら逆流現象で心を奪われたからといって、ここまで一途に想うことなどありえない。
しかし、だ。
セツナがいまこの瞬間、ミリュウの目の前に現れ、彼女を抱き留めてくれるなど、状況的にありえなかった。
全身を燃え上がらせる興奮と歓喜に水を差すような冷静さで、ミリュウは、想う。
セツナは、強制的に転送された後、おそらく獅徒ヴィシュタルと戦う羽目になったはずだ。セツナともっとも因縁が深く、関係も深い敵といえば、ヴィシュタル以外には考えられない。
そうなるだろうと結論する理由は、ふたりの関係性だけではない。
セツナと黒き矛の攻撃に耐えられる相手となると、ヴィシュタル以外にいなさそうに想えるからだ。
黒き矛の、魔王の杖の力を完全に近く引き出せるようになったセツナは、最強無比といっても過言ではない。
ミリュウが文字通り死力を尽くした神将ナルノイアを相手にした場合、苦もなく撃滅してしまったに違いない。ナルノイアだけではない。獅徒も、ほかの神将も、魔王の杖の力を完全解放したセツナを相手にしたのであれば、どれだけ食い下がれるものか。
白き盾ことシールドオブメサイアの使い手たるヴィシュタルならばこそ、多少なりとも戦いになるのではないか、と、ミリュウは想っていた。
だからこそ、ネア・ガンディア側は、セツナにヴィシュタルをぶつけるはずであり、でなければ、いまごろセツナは相対した敵を撃滅し、ナルンニルノルを飛び回っているだろう。
その場合は、ミリュウの今際の際に駆けつけられたかもしれないが。
(そんなこと、ありえないわよね)
落胆を隠せないものの、こればかりは致し方のないことだ、とも、想う。
せめて、最期に記憶に焼き付いたセツナの顔が見られただけ良かったと考えるほかなかった。
悔いはあるし、思い残すことも大量にあるが、とはいえ、ろくでもない最期ではなかったと胸を張っていえる。
いつか地獄で、セツナたちとの再会を果たしたときに自慢できるくらいには、やりきったはずだ。
そう想っていると、
「しかし、なんじゃな」
予期せぬ、そして聞き慣れた声が耳朶に飛び込んできて、ミリュウは、はっとなった。
「おぬしがトワのことをそれほどまでに溺愛しておったとはのう」
「お兄ちゃんの妹ちゃんですし」
そういったのは、最愛の弟子であることは、目を向けることもなくわかった。
そして、その瞬間、自分が頬ずりしている相手がセツナの幻ではなかったという事実に気づいたが、同時に飛び込んできた大量の情報によって愕然とするしかなかった。
「なっ――!?」
ミリュウは、トワの頬から己の顔を引き剥がすようにして離れると、もう一度、少女の顔を確認し、それから周囲を見回した。
確かにミリュウの目の前に現れ、倒れ行く彼女を抱き留めてくれたのはトワであるらしかった。今際の際に見たセツナの幻でもなんでもなく、実体を持つトワ本人の愛らしいといえるほどに小さな体。子供の頃のセツナによく似た彼女の顔は、少しばかりの戸惑いと言葉では言い表せられないような喜びに満ちている、とでもいうようなものであり、ミリュウは、ただただ茫然とした。
押し寄せてきた情報はさながら洪水のように頭の中で氾濫し、思考することもままならなくなる。
目の前にいるのはトワで、周囲には、自分と彼女を取り囲むようにして、突入組の面々がいたのだ。先程なにやらいっていたラグナ、エリナは無論のこと、シーラ、レム、ウルク、エスク、エリルアルムの姿もあった。皆の無事な姿を一通り見回したからこそ、ミリュウは、頭が回らないという状態に陥ってしまった。
想像していた状況では、まるでなかったからだ。
「なっ、ってなんだよ」
「そうでございますよ、ミリュウ様」
「まずは、トワちゃんに感謝するべきだぜ、ミリュウ殿」
シーラ、レム、エスクらの発言を受けて、ミリュウは、再び、目の前の少女に目を向けた。やはり、セツナの幼少期を想起させる少女の顔立ちは、いつ見てもいいものだった。心が穏やかになる。
「トワちゃんに……感謝……?」
「そうじゃぞ。トワがおらねば、おぬしは死んでいたのじゃからな」
「トワがいなければ……死んでいた……」
ミリュウは、耳に飛び込んでくる言葉をただただ反芻するようにつぶやくだけだった。そうでもしなければまともに考えることもできなくなっている。きっと、疲労困憊だからでもあるはずだ。ナルノイアとの戦いに力を使いすぎた。生命力を使い果たすほどの戦いだったのだ。
その反動が、いま、現れている。
「そうよ、あたし、死んでいたのよ……!」
ミリュウは、叫ぶようにいって、その自分自身の声の大きさにぎょっとした。
身も心も消耗し尽くし、ラヴァーソウルの能力を操ることすらできなくなった以上、肉体の結合は解け、強引に繋ぎ止めていた命も一瞬にして崩壊するはずだった。
こうして、自分の叫び声に驚くことなど、ありえないはずだ。
「でも、生きてる?」
ミリュウは、自分の手を見下ろすと、トワの両肩を掴んでいたことに気づき、すぐさま離した。その際の動作のひとつひとつが、生を実感させた。ナルノイアに切り離されたはずの、ばらばらになるはずの肉体が、なんの問題もなくくっついている上、彼女の意のままに動いた。
トワの頭を撫でることも、そのまま頬に触れ、その柔らかさを堪能することも想いのままだ。
トワがくすぐったそうな表情をする様を見て、ミリュウの頬まで弛んでしまうのだが、それもまた、彼女にとっては生を実感する上で重要なことだった。
生きている。
その事実が極めて強い衝撃をもたらしている。
「うむ。トワのおかげでのう」
「トワちゃんって凄いんですよ、師匠! わたしたち、トワちゃんに随分すっごく助けられたんです!」
ラグナとエリナがトワを賞賛するのを聞きながら、ミリュウは、その場に座り込み、目の前の少女を抱き寄せた。
「ありがとう、トワ」
きょとんとする少女にそんなありふれた感謝の言葉しかかけられなかったのは、やはり、頭がまったく働いていないからだったが、いま、この場でそれ以上に相応しい言葉もまた、存在しなかったからでもあった。
生きている。
それだけのことが、なによりも嬉しかった。




