第三十四話 あるいは悪鬼か死神か
血塗られた漆黒の矛が旋回し、禍々しいばかりの切っ先が敵兵の頭部を切り飛ばした。その尋常ならざる速度の前では、避けることもかなわなかったのだろう。頭部を失った兵士の体が、鮮血を噴き出しながら、地に沈むように倒れていった。
それが、ログナー軍の殿を務めた兵士のうちの最後のひとりだった。
ガンディア軍の追撃を防ぐために戦場に残されたものたちは、文字通り決死の覚悟でセツナに挑みかかったに違いない。
実際、凡そ三百名の兵士は、正に死兵と化して、セツナの進攻を押し留めることには成功したのだ。それは結果的に、セツナの後方に控えるガンディア軍の本隊の行動をも制することになり、ログナー軍の本隊は、つつがなく戦場を離脱することができたに違いなかった。
もっとも、此の度の戦いは、ログナー軍の殲滅が目的ではないのだ。バルサー要塞の奪還こそが目的であり、敵軍など追い散らすだけでよかった。もちろん、有力なログナーの将兵を討ち取れることができるのならそれに越したことはないし、ログナーの戦力を削れるだけ削り取っておくのもいいだろう。
とはいえ。
「あ、あいつひとりでやりやがった……」
「あんなの、鬼か悪魔じゃないか」
「て、敵じゃなくてよかった……」
周囲から聞こえる兵士たちの囁きは、レオンガンド・レイ=ガンディアの想いの一部を代弁しているものでもあった。
呆気に取られるしかないのだ。
恐怖に震えている場合ではなかった。
セツナの圧倒的な力は、ログナー軍の撤退を命を賭してでも遂行させようとした兵士たちを、無造作に斬り殺し、事も無げに殲滅してしまった。
まさに鬼神の如き活躍であり、レオンガンドの予想を遥かに凌駕する戦い振りだった。
兵士たちが恐れ戦くのも無理はない。むしろ、畏怖すべき存在であろう。それはログナーにとっても同じ――いや、それ以上の存在として報告されるはずだ。
ガンディアの黒き矛こそが最大の敵である、と。
(セツナ……)
レオンガンドは、戦いが終わったというのに一向に動き出そうともしない周囲の兵士たちにもどかしさを感じながら、そのまなざしを前方の少年に注いでいた。
漆黒の矛を手にし、大量の血を浴びた少年の姿は、兵士たちの言うように鬼や悪魔を想起させるものであり、彼の周りに積み上げられた無数の死体が、地獄の一風景を演出しているかのようだった。
「終わったのか?」
「そのようです」
「呆気ない戦だったな」
「はい」
「……さっさと義兄上と合流しよう」
ハルベルクの声音がひどく冷ややかだったのは、彼にとっては拍子抜けのする戦いだったからに違いない。
たったひとりの武装召喚師の圧倒的な火力が、戦の勝敗を決めてしまった。練りに練った戦術で思い描いた通りの勝利を演出することを好むハルベルクにとって、これほどつまらない戦いはないだろう。
まるで蚊帳の外だ。
それには、彼女も憮然とするしかなかった。すべてが想像の範囲外で行われているような戦いだった。
セツナ=カミヤ。彼という武装召喚師の存在が、彼女たちの価値を奪い去ったのだ。
無論、白聖騎士隊を筆頭とするルシオン軍も戦うには戦ったのだ。恐慌状態に陥った敵陣の横腹を突き、さらなる混乱を生み出し、数多の敵兵を屠ったのだ。しかし、それは活躍と呼べるようなものだったのだろうか。
もちろん、ルシオン軍に死傷者がほとんど出なかったのは喜ぶべきことなのだが。
(援軍の必要はあったのかしら?)
リノンクレアは首を傾げたが、すぐに頭を振った。ハルベルクが馬首を返し、ガンディア軍の本隊への移動を始めたのだ。思索している場合ではない。多少の遅れも許されない。
ガンディア本隊は、敵兵ひとりいない戦場の中央で立ち往生していた。ログナー軍は撤退に成功したのだろうが、別働隊によって陥落したバルサー要塞に逃げ込むこともできず、本国へとその進路を取ったはずである。
長い道程を追撃の影に怯えながら進むのは、想像以上に辛いものがあるだろう。もっとも、ガンディア軍が追撃部隊を編成したという報告は聞いておらず、そのままログナーに返すつもりに違いない。
危険を犯して敗走中の敵を狩るよりも、初陣の勝利を確実なものとするのがその理由なのかもしれない。
「うつけ陛下の初陣は、呆れるほどの大勝利か。これで周辺諸国は慌てるだろうな。特にアザークとベレルは、ガンディアを警戒せざるを得なくなった」
「今までは警戒にも値しなかった、と?」
「それはそうだろう。先王が病に倒れられてからというもの、ガンディアからどれほどの人材が流出して行ったんだ? ナーレス=ラグナホルン、クリストク=スレイクス、バラン=ディアラン……名だたる将がガンディアを見放した。驚くほどあっさりとね」
「……その通りです」
リノンクレアは口惜しさに顔を背けた。実に悔しいことだった。名将と呼ばれるほどの人材の流出。それは、彼らがこの国の未来に絶望したという事実に他ならない。それと同時に、英傑と謳われた先王シウスクラウドがどれほどの尊敬と人望を集めていたのかわかるだろう。
先王が病に倒れたのは、二十年前のことだ。それが原因不明の病であり、治療する手段が見つからないと判明したとき、ガンディア全土が暗澹たる絶望に包まれた。
王位を継ぐべき王子が幼かったこともあるが、それよりなにより、ガンディアをガンディアたらしめていたのはシウスクラウド・レイ=ガンディアという稀代の英傑だというのが、国民の総意だったのだ。
それは無論、将士も同じであり、ガンディアの未来を憂うだけでなく、絶望してしまったとしても仕方のなかったことなのかもしれない。
「まあ、彼らには先見の明がなかったと言わざるを得ないな。そして、父の判断は正しかったというわけだ」
不意に、ハルベルクの声の調子が変わったことに気づいて、リノンクレアは顔を上げた。ハルベルクに目を向けると、彼は、どこか気恥ずかしそうに笑っていた。
「こうして、おまえと轡を並べていられるのだから」
ファリアは、シグルドたち傭兵隊とともに、ガンディア軍本隊への合流を急いでいた。
戦いが終わったのだ。
ログナー軍は撤退し、バルサー平原には、敵味方の兵士たちの亡骸が無数に横たわっていた。蔓延するのは血と死の臭いであり、噎せ返るようなそれは、さながら地獄の如き光景を描き出しているかのようだった。
この戦で命を落とした兵士の数はどれくらいなのだろう。想像すらできない。少なくとも両軍合わせて千人はくだらないだろう。
セツナの最初の一撃で、五百人以上のログナー兵が焼き殺されたのだ。そして、それによってログナーの全軍が動揺してしまったのが、勝敗の分かれ目になったといえるだろう。もっとも、それは仕方のないことには違いない。
一瞬にして、五百人以上の兵士が焼き尽くされたのだ。恐怖を覚えてしまうのは無理もないし、ひととして当然の反応といえるだろう。
しかし、指揮官までもが戦場に満ちた感情に流されてはいけないはずである。どのような状況に陥ろうとも、冷静沈着に指示を飛ばし、恐慌状態の兵士たちに叱咤激励し、戦線を立て直すのが有能な将のあるべき姿ではないのか。
とはいえ、それは有能な指揮官の話であり、無能将軍と呼ばれるものには関係のない話だったのだろうが。
「急ぐのはいいが、気をつけろよ~?」
「ええ!」
背後からのシグルドの声に、ファリアは、振り返る余裕もなかった。兵士たちの亡骸を尻目に、速度を上げる。息が切れても構わない。今は、一刻も早く、彼の無事を確認しなければならなかった。
気が気ではなかった。
セツナの戦闘能力についてはなんら心配はしていない。あれほどの力を持った武装など、そうそう召喚できるものではない。それに、例えセツナが実戦経験皆無の素人だとしても、武装召喚師である以上、ある程度の鍛錬は受けているはずなのだ。
その上、あれほどの召喚武装である。きっと、あの矛の力によって、セツナの身体能力は飛躍的に向上しているに違いない。
そういった点を踏まえれば、彼の身の安全を心配する余地などないのだが。
(セツナ……無事でいて)
しかし、ファリアの胸中を埋め尽くすのはある種の不安であり、恐れであった。
戦場では、なにが起こるかわからない。
ちょっとした油断や安易な失敗が、あっさりと死を招くのだ。彼がそういった失態を犯すことだってありえたし、実際、セツナは、矛の猛火によって敵兵を一掃した直後、放心してしまったことがある。
そのときは、ファリアが敵の矢をすべて射落とすことでなんとかなったものの、次はどうなるかわからない。
だれが、あの危なっかしい少年を助けてくれるのか。
圧倒的な力を持つ、恐怖の権化の如き武装召喚師を。
(わたしが……いる)
それは傲慢な考えかもしれない。彼にとっては、不要なおせっかいなのかもしれない。手助けもなにも要らないのかもしれない。
彼女だって、そんなことはわかっている。
だが、それでも、ファリアは、あの少年を見ていると、どうしようもないくらいに放っておけない気持ちになるのだ。それがなぜかはわからない。
彼女自身の使命とはまったく別のところから生じた感情に違いないのだが、どこから生まれたのか、皆目見当もつかなかった。
ともかくもファリアは、みずからの使命と正体不明の感情の向かう先が、いまのところ一致していることだけには感謝していた。
と、前方にガンディア軍の本隊が見えてきた。戦場の中央あたりだろうか。ガンディア軍の中でも精鋭と呼ぶべき屈強な兵士たちを前衛に配置した集団は、しかし、戦闘が終わったにも拘らず、まったく動き出す気配がなかった。それは、本隊の中ほどに見えるレオンガンドも同様であり、彼の後方のアルガザード将軍も動くに動けないといった有様だった。
まるで、兵士ひとりひとりが、なにかを恐れているかのようだった。
「……?」
ファリアは、本隊の動きに怪訝な表情を浮かべた。レオンガンドに尋ねようにも、近づきようがないのは明白だった。数え切れないほどの兵士が、分厚い壁となって、王を護っているのだ。それが彼らの使命なのだ。責めることはできない。
「ったく、なにやってんだあ?」
やっとファリアに追いついたシグルドが、素っ頓狂な声を上げたのは、当然だったといえるだろう。
「さあ、なんですかね?」
とは、ジン=クレール。知性的な容貌は崩してすらいないのだろうが。
「ま、動けるわけないでしょ」
ルクス=ヴェインのあっけらかんとした口調に、ファリアは彼を振り返った。尋ねる。
「どうして?」
「だって、皆さん、セツナが怖いんでしょ?」
それはそうかもしれない。戦局を変えうる力をもった人間を恐れないものなどいないだろう。圧倒的な力。殺意と敵意の塊。言うなれば脅威そのものだ。あの力を目の当たりにすれば、だれであれ、多少なりとも恐れを抱くのは当たり前なのだ。
ファリアも、恐怖を覚えたのだ。しかし、その恐怖よりも強いなにかが、彼女を突き動かしている。
「あんな風に殺意を剥き出しにしてたら、だれだって動けないよね」
といって彼が示した方向に目を向けたファリアは、ガンディア本隊と対峙するように突っ立つセツナの姿を発見して愕然とした。ログナー兵の死体に取り囲まれたまま黒き矛を構えるその姿は、さながら、悪鬼か死神のようですらあったのだ。
「セツナ――!」
ファリアは、わき目も振らず駆け出していた。